第9話

『スーフィーの寓話』
メヴラーナ ジャラールッディーン・ルーミー

「ギリシャの絵描きと唐の国の絵描き」1

 

その昔、唐の国の絵描きが言うことには、「我らの技術に敵う者は無し」。

応えて、ギリシャの絵描きが言うことには、「我らはさらに優れている」。

「ならば双方、腕試しにひとつ描いてもらおう」、スルタン2は言った。「果たしてどちらの言い分が正しいのか、その出来栄えを見て決めようではないか」。

回廊を間に、扉と扉が向かい合う部屋の、片方を唐の国の絵描きが使い、もう片方をギリシャの絵描きが使うことになった。唐の国の絵描きはスルタンに、絵の具を百色、用意してくれるよう願い出た。そこでスルタンは、絵の具を調達するために自らの宝物倉を開けた。そしてそれ以降、唐の国の絵描きの部屋には、毎朝必ず絵の具が届けられた。

ギリシャの絵描きは言った。「私どもの作品に、絵の具は必要ありませぬ。色彩を必要としておりませぬゆえ。きれいさっぱり、錆を落とすこと - やらねばならぬ仕事はそれだけです」。彼らは扉を締め、部屋の中を磨き始めた。すっかり汚れの落ちた壁は、まるで晴れた空のように明るく輝いた。

色彩を多く取り入れれば取り入れるほど、鮮やかさは失われ薄暗くなることがままある。色彩が雲ならば、無彩は月だ。たとえ雲がどのような色に染まろうとも、たとえ雲が輝いて見えようとも、その色も光も、雲ではなく雲を照らす星や月、太陽から来るものであると知らねばならぬ。3

仕事を終えると、唐の国の絵描きは太鼓を打ち鳴らしてその出来栄えを喜んだ。完成した絵画を見ようと、スルタンは部屋に入ったが、描かれた絵画の素晴らしさに、ただ唖然とするばかりであった。

心ゆくまで堪能してから、今度はギリシャの絵描きの部屋を訪れた。ギリシアの絵描きが、唐の国の絵描きの部屋と、彼らの部屋の間を遮っていた緞帳を引き上げた。するとどうだろう、唐の国の絵描きの描いた景色が浮かび上がった - それは彼らが磨いた壁に、反射して映し出された鏡像であった。先ほど見たばかりの絵画が、より美しく、輝いて見えた。それはまさしく眼を奪うような光景であった。

このギリシャの絵描き達を、スーフィーと呼んでも間違いではなかろう。学問も無ければ書物も読まず、また博識というのでもない。しかし心がある。嫉妬や憎悪、貪欲や強欲を、回を重ねて何度でもたゆまず拭い去ることにより、磨きに磨かれた純正な心がある。

純正な心というものは、磨き抜かれてくもり一つ無く、従って疑う余地も無い鏡3である。その鏡は無数の、ありとあらゆる種類のヴィジョンを受け取って映し出す。精神におけるムーサー4の、胸とはいつもそうしたもの。彼の心の鏡には、不可視の領域から送り届けられる無数のヴィジョンが映し出されているのである。5

 


*1 1巻3467行目より。

*2 イスラム世界における君主の称号のひとつ。

*3 参考として、英国の詩人パーシー・ビッシュ・シェリー(1792-1822)がその詩「アドネース」において次のように記しているのは興味深い - “Life, like a dome of many-coloured glass, Stains the white radiance of eternity.” (「生」は多彩なガラスの円蓋のように / 「永遠」が放射する白光をいろどる:『シェリー詩集』上田和夫訳)

*4 ギリシャの絵描きが磨いた壁。

*5 聖書にも登場するモーセのこと。イスラムにおける預言者の一人であり、知識を授けられた聖者を指す。ここでは、シナイの山でムーサーが授かった啓示についての暗喩として用いられてもいる。コーラン27章12節および28章32節:「おまえの手を胸もとに入れよ。出してみれば、けがれない真白な手。」

*6 「完全なる人間」とは、神の全ての属性が鏡のように反映された小宇宙である。