第21話

『スーフィーの寓話』
メヴラーナ ジャラールッディーン・ルーミー

「スーフィーと空っぽの袋」1

 

ある日、一人のスーフィーが釘にひっかけられた食糧袋を見つけた。彼はたちまち着ていた衣をかきむしり、くるくると旋回して踊り始めた。

「おお、食糧よ!汝はどこへ消えたのか!飢えを満たすものよ、胃痛をいやすものよ!」。激情にかられた彼がそう泣き叫ぶと、狼煙はあがり炎は燃え広がった。聞きつけたスーフィー達、皆が皆この喧騒に加わった。彼らは打ち揃って声をあげて泣いた。鋭い悲鳴が幾度となく響いた。やがてその場にいた全員が、陶酔と忘我の状態に達した。

暇を持て余したおせっかいが、ふとした思いつきでスーフィーに尋ねた - 「一体、これは何の騒ぎだね?食糧袋が釘にひっかかっているだけのことじゃないか。しかもその袋、中は空っぽときたものだ」。「立ち去れ、立ち去れ!」、スーフィーは答えた。「おまえの方こそ、魂なき空っぽの袋ではないか。行け、行って実在を探せ。これは『愛する者』の集いだ。『愛する者』ではないおまえには分かるまい」。*2

愛こそが、『愛する者』の糧となる。

愛こそが、『愛する者』のパンである。

パンという現象の、不在こそが彼らを満たす糧とある。

『愛する者』は、現象に隷属しない。従って、現象を追い求めることもない。『愛する者』は無一物だ、『愛する者』は財を持たない。それでいて、日々『愛する者』は利益を受け取る、元金も資本も無しに - それが愛の取引というもの。世界中を飛び回るのに、彼らは翼を必要としない。ポロの試合から球を持ち去るのに、彼らは手も腕も必要としないのである。

 


*1 3巻3014行目より。

*2 『愛する者』は、自存とはエゴの為せる業であり私利私欲の追求であると看做す。彼らにとり、それは神への大罪である。