試訳:完璧なる調和

「完璧なる調和」
ハッサン・マスウディー

massoudy_01愛こそは私の法 愛こそは私の理
カラヴァンよ いずこなりとも私を連れて行け
どこにあっても私の魂は 愛の道を辿るだろう

私の一番最初の記憶は、ナジャフへと結びつけられている。

私はナジャフに生まれ、ナジャフで子供時代を過ごした。物心のついた頃から、私はいつも詩やカリグラフィーを扱う人々と共にいた。父の仕事場である倉庫が、世界中で最も広大と言われる墓地の隣にあった。墓石を刻む小さな工房は、そのまま墓地の入り口を兼ねていた。職人達はいつでも大理石の上に腰をかけ、亡くなった人の名前を、多くの場合は美しい詩句と共に墓石に彫り込んでいた。

工房からさらに数メートルほど進むとその先に、丸いアーチに飾られた何千もの小さな墓が果てしなく並ぶ光景を見ることができる。無限に続く墓の海に溺れて迷うことのないように、ムスリム達が置いた標識の青いタイルの放つ輝きが、あちらこちらに浮かぶのが見える。

私たちはしばしば父に付き従って、この穏やかで人の少ない迷宮の内部をゆっくりと巡り歩いた。

白い大理石に彫り込まれ鮮やかに黒く塗られた、スルス書体のカリグラフィーの持つ力強い美しさに、私はいつも眼を奪われた。父はひとつひとつの詩句を丹念に論評し、私たちにちょっとした講義を与えてくれる。存在の本質に関する深い洞察と知恵とに富んだこれらの詩は、通り過ぎる者たちに多くの教えを惜しみなく恵んでくれるのだった。

シーア派のムスリムたちは、ナジャフを神聖視している。この町がシーア派ムスリムたちの指導者であるアリーの土地だからだ。7世紀以降、ナジャフは常に聖地であり巡礼地でもあった。一年のうち数日間、聖なる祭の興奮が町中に渦を巻く。通りのあちらこちらで、聖アリーとその家族が辿った運命を模した劇が繰り広げられ、すでに町の歴史と一体になった人々の記憶を呼び覚ます。

この時期、ナジャフの町全体は巨大な舞台装置となる。全ての住人が、役者として、あるいは観客としてこの劇場に参加する。夜になると、大きな松明が通りのそこかしこに灯される。漆黒の闇に包まれて町は光り輝き、色とりどりの垂れ幕が空に舞う。町全体と言っても、それぞれの区画が独自の趣向を誇らしげに競い合って、ひとつひとつがユニークで本当に素敵な眺めだった。それはあたかも、それぞれの区画から輩出される詩人達が、互いに異なる特色を持ち合わせていることとも共通しているようだった。

それが戦争であれ、あるいは祝祭であれ、歴史的な(もしくは宗教的な)出来事の全ては詩によって人々の記憶に刻み込まれ、また詩によって幾度でも生き生きと甦ってくる。詩が持つリズムは、心に直接語りかけ物事を易しく説き明かす。分厚い教科書を読むよりも、一編の詩を読む方が瞬時にしてより多くを学ぶことができる。

全ての区画が大小に関わらず祭一色に染められて変化する様子を、あなたにも見せてあげたいものだ。小さい路地に沿ってぐるりと一周すれば、何千もの人々が通りに敷いた敷物の上に座り、詩人が歌う即興の歌に声をあわせて繰り返し歌い続ける姿に出会えるだろう。店という店は大きな垂れ幕を店先に掲げている。黒い垂れ幕の表面は純白のカリグラフィーで飾られている。聖者達の名と、彼らを讃える詩を書いたカリグラフィーだ。

この時期、プロフェッショナルかアマチュアかを問わず、街中のカリグラファーたちが祭を飾るための仕事を次から次へと頼まれて大忙しになる。まさにそのようにして、私が書いたカリグラフィーが、初めて町を飾る日がついに訪れた。その日、私は自分のカリグラフィーが祭りの光景の一部になっている様子を、いつまでも遠くから見つめていた。私は14歳だった。

祭の日々も終わりに近づくとその年の詩や劇について、私はいつも友人たちと共に、まるで本物の文芸評論家にでもなったつもりで口々に感想を述べ合ったり批評を戦わせたりした。

今年、最も素晴らしかった詩人は誰だっただろうか?その作品のどこが素晴らしかったか、何か目新しい感激があったか?盗作した奴はいなかったか?冴えない詩人たちを、私たちの舌は容赦なく切り刻んだ。出来の悪い詩については、何がどう良くなかったのかを事細かに分析した。

それぞれが自分の住む地域出身の詩人が一番だと思っている中で、はっきりと町全体に支持され、賞讃される詩人になるのは至難の業だった。祭は毎年繰り返される。去年とは違う感動を与える作品を次々に発表し続けられる詩人のみが、詩人として認められるのだった。

詩、そしてカリグラフィー。近しい家族たちを通じて、私はその両方に自然と慣れ親しんでいった。叔父の一人に神学者がいた。彼はカリグラフィーをこよなく愛していた。彼は詩人でもあり、「数秘詩」と呼ばれる詩を専門にしていた。

「数秘詩」とは、私の故郷では非常に良く知られた詩のジャンルのひとつだ。

その他の地中海文字もそうだが、アラビア文字のひとつづつは数値に置き換えることができる。細心の注意を払って単語を選び、文字の配列を工夫することで、詩の中に二重の意味を含ませることができる。ただ読んだだけではある人物を褒め讃える詩に過ぎないが、数秘詩を知る者なら、その人物だけに知らせたい秘密のメッセージや、特定の日付などを織り込むことも可能になる。誕生や結婚、名誉、あるいは死など、人生において特に重要な節目と思われる出来事が起こると、人々は叔父の所へやって来て詩を詠んでくれるように依頼するのだった。

詩に含まれた文字の背後にこのような数学的意味が潜んでいたのを発見したとき、子供だった私は、その不思議さに魔法にかけられたようにただ驚くばかりだった。

カリグラフィーの世界への扉を開いてくれたのも、やはりこの叔父だった。

学校では、イスラーム初期の時代の詩を教わった。教師はアッバース朝の詩や、アンダルシア地方の詩をテキストとして使用した。これはまさしく偉大なる美の宝庫と呼ぶにふさわしかった。六世紀のアラビアでは、詩人たちは部族の系図や戦いにおける功績などを詠んだ膨大な量の韻詩を暗記しており、彼らはいわば「記憶の番人」とも呼べる存在だった。

アッバース朝七世紀から九世紀に渡り、それまでの伝統的な古典詩に替わって、大都市文明から伝えられた繊細で微妙なニュアンスが織り込まれた新たな詩が創作されるようになる。この時代はペルシア・インドの文明や古代ギリシアの芸術などが、翻訳を通じて次々に紹介された時代でもあった。

アンダルシアの詩人たちは重厚一辺倒のアラブ詩に、joie de vivre、すなわち「生きる歓び」を新たに付け加えた。彼ら独特の方言や時にはスペイン語も駆使して、遊び心にあふれる軽やかで華やかな詩を次々と編み出していった。

そのように学校で学び始めた頃、カリグラフィーはすでに私の一部となっていた。カリグラフィーに囲まれていれば、私の心は安心してくつろげるのだった。しかしそれと同時に、成長するにつれて私はもう一つの夢を見るようになった。私はいつしか画家になりたいと思うようになっていたのだ。描いてみたいイメージの数々が、蜃気楼のように私の心に浮かんでは消えた。

そこで私はパリのファイン・アート・アカデミーに入学した。

アカデミーには五年在学したが、卒業する頃には、私の心の中に芽生えた絵画への憧れはある結論を迎えていた。つまりカリグラフィーへの思いの方がより強かったということに、私はようやく気づいたのだった。

とは言うものの、カリグラフィーが完全なる勝利を納めたとは言い難い。私が制作するカリグラフィーには、未だにある種の絵画的なイメージが潜んでおり、この先も完全に分離することはないだろう。

1972年、私は、俳優のギイ・ジャケ(Guy Jacquet)、ミュージシャンのファウズィ・アリアディ(Fawzi Al-Aiedy)と共に、あるパフォーマンスを発表した。詩と音楽とカリグラフィーに彩られた夜の始まりである。私たちはこのパフォーマンスをシリーズへと発展させ、それは1985年まで続けられた。

俳優がアラビア語とフランス語を交えて詩を朗誦する。それを私が即興でカリグラフィーに仕上げる。カリグラフィーは舞台いっぱいのスクリーンにプロジェクターを使用して投影される。ミュージシャンがリュートを鳴らし歌を歌う。13年に渡って続けられたこのライブは、常に活気に満ちていた。

詩人は言葉を駆使してイメージを浮かび上がらせる。それは音楽と響き合ってリズムを奏でる。カリグラファーも言葉を用いるが、それを二次元に配置し構成して行くプロセスにおいて、やはり音楽と響き合いリズムを奏でているのである。詩とカリグラフィーとが音楽を通じて一体化し、同じひとつのイメージを完成させて行く。詩やカリグラフィーの表現形態に新たな生命を吹き込むためにも、また私たち自身がよりクリエイティブであるためにも、これは非常に貴重な体験となった。

詩が私に与える印象もカリグラフィーが私に与える印象も、私にとっては寸分も違わない。詩はイメージをより鮮明に喚起してくれる。私にとっては写真よりも言葉の方が、よほど映像的であるということなのだろう。

カリグラフィーの制作に行き詰まった時、私はいつも詩を朗読する。するとふとした瞬間に、私の中を何かがよぎる。私はそのまま静かに待ち続ける。そのうちに、私の中で何かが刺激され、イメージが生まれつつあるのが感じられる。詩に含まれたほんの少しの言葉が、私をどこかへと連れて行ってくれる。夢にも見たことのないような場所、私を豊かに満たしてくれる未知の空間へと導いてくれる。

やがてそこに辿り着いた私は、生まれたばかりのイメージと対面する。私はそれらを丹念に愛撫し、ひとつひとつに似合う色彩と、ふさわしい文字とを選び出す作業に没入する。

これらのイメージを連れ帰るのに、私はまず枠組みを用意する。

最初に中心点を定める。それから基礎となる構図を作成するが、この時二本の線が必要になる。すなわち垂直線と水平線である。この二本の線によって、全てのストロークがリンクされなくてはならない。全てのストロークが連動することで、画面の一体感が保たれる。またこの二本の線は、透視図でいう消失線と稜線としての役割も果たす。どこに消点を定め、またどこに視点を定めるかによって、表現の奥行きと方向が決まってゆく。その他多くの小さな文字たちもやがて構成の中に加えられ、ダイナミックな動きの中で次々と変化を遂げる。こうしてフォルムが確立されると、背景の余白も重要な役割を与えられて、生き生きと躍動し始める。

芸術の創造とは、決して生易しいものではない。全てが新しい始まりなのだ。常に戦略的かつ能動的に関わらねば何も生まれない。いにしえのアラブ詩人たちは、創造の苦しみについて詳細に述べている。詩人たちはひとつの芸術を完成させるための苦しみを、海の底で巨大な魚を相手に格闘する漁師の苦しみになぞらえる。追いかけて、潜って、やっと探し求めていた魚を見つけても、魚はゆうゆうと泳ぎ去る。捕まえたと思った瞬間には、するりと滑ってその手から逃げる。

私のカリグラフィーは人として人に関わるうちに生まれた様々な感情や、肉体に備わる五感が捉えた感覚以外に、私の内側にある感覚から生まれて来ることも少なくない。世界情勢を伝えるニュースや、自然などに触発される場合もある。

自然!それこそは私のインスピレーションの源だ。自然界を構成する様々なエレメントが、私に活力を与えてくれる。光、燃え上がる炎、清らかな水の流れ。石や砂の持つ線は時に硬く、また時に柔らかい表情を見せる。軽やかに渡る風、風に吹かれて変化する景色。竜巻、空には雲、そして海面に泡立つ波また波……私はこうした自然が見せる様々な現象を詩のように読み、更にカリグラフィーへ翻訳しようと常に挑み続けてきたのだ。

詩の世界は未知の言葉や今までになかった単語どうしを組み合わせ、ボギャブラリーを増やすことで進化してゆく。カリグラフィーの場合は、構図とストロークとを、どのように組み合わせ、またどのように織り合わせるかによって、新しい作品が生み出されてゆく。一つの詩的なイメージを、顔料を用いて紙の上に出現させるのには多くのエネルギーが必要とされる。

顔料を溶液と混ぜ合わせる時はいつの場合でも、私は難しい手術を行う医者のように緊張する。時たま人工顔料と植物性の溶液は、お互いに反発し合って分離してしまう。こうなると使い物にはならない。

構図を決めるのは狩猟に似ている。それは興奮に満ちているが、常に敗者の苦しみと背中合わせだ。気づいたら獲物に逃げられ独りぼっちになっていることもあり得る。

様々な道具を管理する時、ひとつひとつの道具がそれぞれの個性を持って主張し始めることに私は眼を見張る。道具たちの世界にも私たちが住む世界と同じように、意志が反映され、道徳や秩序が存在する。これらの全てが、ただ一瞬のために存在している。

一度紙の上での作業が始まれば、全てが一点に集約され、一秒たりとも気を抜く事は許されない。たった一人で状況を判断し、全ての決定を下し、反射的に素早く次の瞬間へと移って行かねばならない。これを行うには、長い年月をかけて訓練し、自らに習慣付ける必要がある。最終的には、獲得した感覚の全てを、作品に反映させることが可能になる。

このようにして、肉体に備わる外的な感覚や道具たちを駆使し、自らの内的なビジョンを、思い描いた通りの作品に仕上げることがたった一度でも出来るようになれば、後は簡単だ。目の前に用意された階段を、さらなる高みを目指してただひたすらに昇って行くだけである。

 


Perfect Harmony (Calligrapher’s Notebooks)
sufi poetry of IBN ‘ARABI, calligraphy by HASSAN MASSOUDY