Gibran Khalil Gibran...
ハリール(カリール)・ジブラーンの生涯


1883-1895

1883年1月6日、レバノン北部ブシャーリー村にジブラーンは生まれた。ブシャーリーの語源はBet Sharre(王宮)。古くからのキリスト信仰が根強く残る、レバノン杉の巨木や有名な「聖なる谷」にほど近い村だった。

ジブラーンは、伝統に従い父親の「ミドルネーム」を取ってジブラーン・ハリール・ジブラーンと名付けられた。父の名前はKhalil Gibran Saad Youssef Gibran(ハリール・ジブラーン・サアド・ユウスフ・ジブラーン)。薬剤師である伯父の薬局で助手として働いていたが、賭け事の負債を抱えた挙げ句、地域を支配していたオスマントルコ人提督の下僕となる。新しい主人は彼をRaji Bey(ラジ・ベイ)と呼んだ。

母の名前はKahmira Rahmeh(カミラ・ラフメ)。最初の結婚で生まれたButros(ブトロス、もしくはピーター)という名の息子が一人いた。ブトロスはジブラーンより6歳年上だった。ジブラーンが生まれ、次いで妹のMariana(マリアーナ)とSultana(スルターナ)が生まれ、家族は一気に増えた。

最初の頃は、それでもごく平穏に暮らしていた。だが度重なる父親の借金のために、一家は困窮するようになる。そのためジブラーンは学校に通うこともなく、正規の教育を全く受けていなかった。母カミラの深い信仰心と強い意志だけが、幼いジブラーンの彼の心に染み込んでいった。ジブラーンに最初に教育を施したのは地元の牧師だった。

活発で、好奇心旺盛なジブラーンの聡明さを認めた牧師は、聖書を軸にアラム語(古代シリア語)、アラビア諸言語を彼に教えた。この非公的な教育を通じて、ジブラーンは科学や言語、歴史に興味を持つようになる。

1891年、脱税と詐欺の罪によって父が投獄された。資産は裁判所に差し押さえられ、住む家も取り上げられてしまった。父の服役中、一家は父方の親戚の家に身を寄せて過ごした。

1895年、アメリカに移住する。その前年に釈放された父は、レバノンに残る方を選んだ。



1895-1902

アラブ人であることを理由に、一家の社会的には二流市民として扱われた。母のカミラは、ボストンの貧民街の路上で物売りをして生計を立てるのが精一杯だった。姉妹は中東の伝統と貧困が相まって教育を受けることもなかった。ジブラーンがクインシー学校に通えたのは、慈善団体の援助があってのことだった。

この学校の教師の勧めで、ジブラーン・ハリール・ジブラーンの名は「カリール・ジブラーン」と改められることになった。

ジブラーンの英語運用能力はごくわずかに限られていたが、かえってそのおかげで、ゼロから英語に親しむよりもはるかに上質で、疵のない英語の範囲内に留まることになった。

言語を学ぶことの重要性を、ジブラーンは高く評価するようになった。ジブラーンより2-3年遅れて、従姉妹にあたるN'oula(ヌーラ)がレバノンからアメリカへ移住して来ようという頃に、ジブラーンは彼女にこう書き送っている。「がんばって、言葉を沢山憶えるんだ・・・英語さえ出来るようになれば、アメリカは地上で一番すてきなところだってことが良く分かるよ」

カミラは強い心を持ち、勝ち気で、いつでも決然としていた。休む間もなく働きに働いて、一家の生活を向上させていった。

乏しい収入の中から少しづつ蓄え、それを元に小さな金物屋を開くまでになった。店はブトロスを中心に、マリアーナとスルターナがその手伝いをした。

ジブラーンはもの静かで内向的な少年に育っていた。多くの時間を、一人で過ごすことを好んでいたが、そのうちにジブラーンは、ボストンが持つ芸術的、文化的な側面に興味を示すようになり、オペラ座や劇場、美術館などに通うようになった。

ジブラーンがボストンのデニソン・ハウス・ソシアル・センターに紹介された時、誰よりも早く彼の芸術的才能に気付いたのは、社会活動家のジェシー・F・ビールとフレモント・ピアースだった。ビールは13歳のジブラーンを、前衛美術家であり写真家のフレッド・H・デイに紹介した。デイは少年に写真技術や文章を書くことを学ばせた。多くの文学や神話の世界に親しんで、若いジブラーンに巣食っていた劣等感は次第に解消されていった。デイの指導の元でジブラーンの芸術的才能は目覚め、ジブラーンは多くのことをたちまちのうちに学んでいった。1898年、彼の描画が書誌のカバーとして採用される頃には、ジブラーンの名は社会的にも認知されるようになっていた。

あまりにも若くして華々しく成功してしまったことが、やがて晩年に良からぬことをもたらすのではないかとジブラーンは怖れた。それでジブラーンはレバノンに一時帰国し、ベイルートのMadrasat-al-Hikmah(マドラサ・アル・ヒクマ)で残りの教育を受けることを決意する。彼はこの学校で、アラビア語とアラブ修正主義者のカリキュラムを学ぶ。

レバノン滞在中に、ジブラーンはかつて一度だけボストンの美術展で出会ったジョセフィーン・ピーボディと再会している。ジョセフィーン自身も小説家であり、詩人だった。ジブラーンが自作の絵画をジョセフィーンに贈ったのがきっかけとなり、二人は言葉を交わすようになった。

1902年に学業を終えてレバノンを去る時、ジブラーンは詩人として、また芸術家としても自信にあふれ、誇り高く生き生きとした青年になっていた。



1902

アメリカで彼を待っていたのは、良い報せではなかった。母カミラは癌を患っていた。ブトロスは金遣いの荒い男になっていた。そしてスルターナの胸に結核の影が見つかっていた。ジブラーンはアメリカへと帰国の途についていたが、遅過ぎた。1902年4月4日、スルターナは14歳で結核のためこの世を去った。

ジブラーンがボストンに戻ると、ブトロスは家族と店を捨て、逃げるようにキューバへと旅立ってしまった。金物屋と、家族を養うことがジブラーンの肩にのしかかってきた。芸術以外には全く疎いジブラーンにとっては最も苦手とする類いのことであり、それは創作活動の妨げにしかならなかった。



1903

2月、カミラは癌の摘出手術を受けた。ブトロスはキューバから戻ったが、3月12日、浪費と放蕩の果てにこの世から去った。6月28日、カミラがこの世を去った。彼女の全身に癌が転移していたのが原因だった。

立て続けに三度の死を見送って、ジブラーンは店を売却した。そしてアラビア語と英語の学究に生活の全てを打ち込むようになる。この二つの言語を洗練させてゆくことは、その後も彼の一生涯を通しての仕事となっていった。




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