転載:いつ、どこにいても、愛する人に花を贈ることができる未来を

「いつ、どこにいても、愛する人に花を贈ることができる未来を」
シェイダ

 

尊敬すべき裁判所の皆様、ここにお集まり下さった皆様に、ご挨拶申し上げます。

3年を越える歳月を、私は待ち続けました。そしてついに、裁判官のご判断をうかがうことができる日が、やってこようとしています。この長きにわたった年月の間、私の祖国、イラン・イスラーム共和国の体制、人間をうち砕き、死に至らしめる機械のようなその体制には、いささかの改革も見出すことはできませんでした。

裁判長殿。

私たちが生きるこの時代には、人権に関わる問題は、いつも政治的な思惑によって、様々な圧力をかけられてしまいます。真実は、現在世界を動かしている政治権力に都合のよいことしか明らかにされず、人々に知らされることはありません。人権に関わる問題は、既成のものの考え方を揺るがさない限りにおいてしか、正当なものとして扱われません。さらに、人々の心が既成のものの見方、考え方に捉えられ、それを当然のものとして受け入れていることが、このような現代世界の政治のありかたを、さらに強固なものとしています。

世界の国々は、人権のためと称して、豪華なホテルの洒落た部屋の中で会議を開いています。しかし、そこで彼らがやっているのは、人権問題の重さを自国の経済的・政治的利益に都合がよいように変更し、第三世界と名づけて作り上げられた地獄がどれほど人権を遵守しているのか、高みから点数をつけることだけなのです。

裁判長殿。

イランでは、同性愛者たちが生きてゆくことのできる環境は、法的にも、社会的にも、これまで存在したことはありませんでしたし、今もなお、存在しません。 日本の法務省はその書面で、テヘランにある「ダーネシュジュー公園」という公園について、「イランの同性愛者たちが集まる場所だ」と指摘しましたが、いまやこの公園は、イスラーム寺院の公園へと変えられようとしています。それ以前にも、この公園は、同性愛者ではなく、イスラーム革命防衛隊、革命委員会の兵士たちが集まる場所でした。イランにある、ほかの大きな公園でも、今ではイスラーム寺院が建設されつつあります。

裁判長殿。

同性愛者を処刑する法律は、私たちイランの同性愛者たちの首に押しつけられた刃であり、私たちは、毎秒のように、その刃が今にもこのうなじに振り下ろされるのではないかと怯えながら生きてゆくことを強いられています。同性愛者たちが健全に生活をすることができる環境はまったく存在せず、社会は同性愛者たちと向き合い、話しあおうという意志も持ちません。もっとも近しい人たちにすら、私が誰で、どのように感じているのかを、うち明けることが出来ないのです。このような場所で生きている私たちに対して、なぜあなた方は言うことができるのですか、イラン人同性愛者は、難民ではない、と。

裁判長殿。

イランのイスラーム体制に対する抵抗組織で活動するということは、拷問と死刑の危険にさらされるということを意味します。何千人という政治犯が大量虐殺されているのをご覧になれば、それはすぐにおわかりになるでしょう。よろしければ、あなたご自身でイランにいらしてみて下さい。あの国に入国したまさにその瞬間、おわかりになるはずです。イランでは、不安を抱くことなく、ただ気楽に通りを歩くということすらできません。イスラーム革命防衛隊、風紀監視隊、民衆動員軍、警察、革命警備隊などが絶えずパトロールしており、イランをまるで巨大な牢獄のようにしているのです。まさにそれは、サルバドール・ダリが描いた、空想の城壁のようです。どんな場所でも、ちょっとした片隅にさえも、牢獄の壁があり、看守が立っています。そして、個人の生活のもっとも些細な部分にさえ、介入してこようとするのです。

裁判長殿。

1951年に発せられた難民条約の第1条で、難民は、次のような人間であると定義されています。「(難民とは、)人種、宗教、国籍、特定の社会的集団の構成員であること、および政治的意見により、十分に理由のある迫害の恐れを有するため、国籍国の外におり、国籍国の保護を受けることができない、もしくは保護を受けることを望まない者である。」この条項に従えば、同性愛者であり、そしてイラン人の同性愛者人権擁護団体「ホーマン:イラン同性愛者人権擁護グループ」の活動家である私は、難民に他なりません。難民として認められることは、私の権利なのです。

裁判長殿。

誰でも人間であるなら、生まれながらに人を愛し、自分の意志に従って生きる権利を持ち、そのすべをそれぞれの人生の中で、自然に学んでゆくものです。しかし私は、母国において、この人間の基本的な権利さえ与えられず、どのように愛し、生きればよいのかを、考えることさえも許されていませんでした。

私は願っています、裁判所の判決が、恐怖も不安もなく、自由に生き、自由に愛することを学ぶ権利を、私に与えて下さることを。私は願っています、私の裁判の判決が、未来のための第一歩となることを。その未来とは、あらゆる人が、誰に対しても、どのような場所においても、愛する人が欲しいと思う花を贈ることができるような未来。花を贈られた人が、世界のどこにいようと、微笑んでお礼を言うことができるような未来。そして、その時、その微笑は、その人の一番美しい微笑であるという、そのような未来です。自らの意志によって生き方を決めることができ、投獄や死の恐怖に怯えることもない、そのような未来です。

私が今日ここで最後の意見陳述をする時間を与えて下さったことに、心より感謝いたします。そして、ここに集まって下さった方々、私の話に耳を傾けて下さったことに、心よりお礼申し上げます。

 


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