試訳:成長期について

「成長期について」
スフラワルディー

 

(1) かつて私が子供だった頃のことです。少年が皆そうであるように、私もまたいつもと同じように、どこかの街角で遊んでおりました。するとそこへ、何人かの子供たちが整然と列を作って通りかかりました。私の眼は彼らに釘付けになりました。私は彼らに駆け寄って、どこへ行くのかと尋ねました。「学校へ行くのです、知識を得るために」と、彼らはいいました。「知識とは何のことですか?」と、私は尋ねました。

「私たちでは、その質問に答えることは出来ません」と、彼らは言いました。「知りたいのなら、私たちの師に尋ねて下さい」。そう言って、彼らは去って行きました。

(2) 「『知識』とは、何なのだろう?」。しばらくして私は私自身に問いかけました。「なぜ彼らと一緒に行って、『師』という人に会おうとしなかったのだろう。『知識』について、尋ねれば良かったのに」そこで私は子供たちの後を追いかけましたが、彼らを見つけることはできませんでした。すると一人の老人が、砂漠の荒野にぽつんと立っているのが見えました。

私は近づいて行き、彼に挨拶をしました。彼も挨拶を返してくれました。それは思いやりに満ちた、暖かなものでした。彼は私にもっと近くへ来るように言いました。

「学校へ行く子供たちの集団を見かけたのです」と、私は言いました。「なぜ学校に行くのか、と、私は尋ねました。彼らは、師に尋ねなければ答えが分からない、と言いました。私がぼんやりとしていたので、彼らはそのまま立ち去ってしまいました。後になって、私も学校へ行きたくなり彼らを追いかけてここまで来ました。もしもあなたが彼らや、彼らの師についてご存知なら、私に教えてくれますか」。

「私が、彼らの師だ」と、老人が言いました。

「では、私にも知識を与えて下さい」と、私は言いました。

彼は石版を持ってきて、それにアリフ・バーを書き、私に教えました。

「さあ、これが今日の分だ」と、彼が言いました。「明日には、また違うことを教えてあげよう。その明日も、そのまた明日も。毎日、少しづつ教えてあげよう。そうやって少しづつ知識を増やせば、おまえもいつか学者になれるだろう」。

私は家に帰ると、次の日が来るまで何度もアリフ・バーを繰り返しました。そして次の日も、私は師を訪れました。師は、また別の知識を私に授けました。私は、それも憶えました。それから、私は1日に何度でも彼の許へと通うようになりました。そして、その度に私は何か新しいことを学ぶのでした。

終いには、私は師の傍を片時も離れることがなくなりました。そのようにして、私は多くの知識を身につけたのでした。

(3) ある日のことです。師の許へと通う道すがら、人でなしの男が私にまとわりついて来ました。私には、彼を追い払うすべがありませんでした。ようやく師の許へたどり着くと、師は、私が遠くからも見えるように石版を高く掲げて下さいました。私は石版を見ましたが、何が書かれているのか、知りたくても知ることが出来ませんでした。それどころか、理解しようとすればするほど、私の頭は空回りするのでした。

私は動揺し、すっかり自制心を失ってしまいました。それで、私が理解出来る範囲で、石版に書かれていることを声に出して読み上げました。それを聞いていた人でなしの男は笑い声をあげました。そして、私が読み上げた言葉をあげつらい、私をからかい始めました。彼はとても愚かなフリをしていましたが、最後にはその手を伸ばして私を叩きました。

「おまえは気でも狂ったのか?」人でなしの男は言いました。「まともな頭があれば、そんな物言いはしないはずだぞ」。痛みのおかげで、私は自制心を取り戻しました。私は人でなしの男に、もといた場所にそのままいるように告げて、ようやく彼を私の道から追い払うことが出来ました。けれど、私の師は、もはやいつもの場所にはいませんでした。私は呆然としてその場に立ち尽くしました。不安が私に襲いかかりました。

それから長い間、私は世界中を歩き回りました。けれど、世界のどこにも、私は私の師を見つけ出すことができませんでした。

(4) ある日のことです。師を探しあぐねて、私はとあるハーネカーを訪れました。建物の奥まった場所に、奇妙な外套に身を包んだ老人が座っていました。彼の外套は、半分は白、もう半分が黒でした。私は彼に挨拶し、彼も私に挨拶を返しました。私は、老人に私の身に起きた出来事を語りました。

「そなたの師は正しい」と、彼は言いました。「昼と夜との違いも知らぬ者に向かって、天界に舞う偉大なる先達の、魂の高揚について語ったところで何になる。逆に狂人扱いされ、叩かれ、ついでに師を失うぐらいのものじゃろうて」。

「仰る通り、間違っていたのは私の方です。どうか私に力を貸して下さい。あなたのハーネカーはとても良い場所のようです。あなたなら、私の師を探し出せるのでしょう」。

老人は、私について来るように言いました。言われた通りに連れられて行くと、そこには私の師がいたのです。師は、私の顔を見るとこう言いました。「ここへお座り。さあ、鴨に招かれた大蜥蜴の話をしてあげよう」。

「季節は秋。大蜥蜴にとっては寒いことこの上もない、だが鴨はそのことを全く知らなんだ。それで鴨は大蜥蜴に、冷たい池の水がどれほど心地よいものか、延々と話し続けた。そしてしまいには、大蜥蜴にも一緒に水浴びをするように勧めた。寒さに耐えながら鴨の話を聞き続けていた大蜥蜴も、ここへ来てついに怒り出した。そして鴨に言葉のつぶてを浴びせたのだ、『もしも俺が貴様の客人でなかったなら、そして貴様が養う貴様の家族のことなど知らなんだら、貴様を生かして置かぬものを!』。そう言い捨てて、大蜥蜴は立ち去った。

おまえは知らなかったか、人は自分が理解出来ないものには価値がないと思い込むものだーそういう手合いが、とりわけ『人でなし』と呼ばれるのだ。人でなしと付き合えば殴られる。だが思い込みというものは、殴られるよりもさらに多くの悪いものを生じさせる。おまえにとって価値あるものが、他にとっても同様であるとは思い込まぬことだ」。

私は師に尋ねました。「私の信条、私の信念が純粋でありさえすれば、他に何を案ずることがありましょう。人でなしの考えることなど、どうして慮る必要がありましょうか」。

「物事には時と場合というものがある。そこに思い至らないというのは間違っている」と、私の師は言いました。

「同様に、語るべき人々と語られるべき言葉の組み合わせというものがある。学ぶにふさわしい人々には惜しまず与えるがいい。だが学ぶ価値もない者にとっては、真実の言葉は重荷となるばかりだ。価値なき者ども、現実に目覚めぬ者どもの心というのは、喩えるならば、油ではなく水に浸されたランプの芯のようなものだ。水に濡れた芯に、炎を灯そうと試みたところで何になる。反対に、学ぶ者の心は蝋燭のようなもの。共鳴する者の心は、放っておいても炎を引き寄せ自らを燃やして明かりを灯す。

さて、語るべき何ごとかを知る者が語る言葉とは、灯された明かりだ。

そしてその明かりが、学ぶ者の心の蝋燭を引き寄せる − 水に濡れた芯などではなく。

明るく照らせば照らすほどに、蝋燭は自らを熱く溶かして燃える。 − 蝋燭なくして、炎もない。

たとえどのような人であれそうだ − あらゆる心の祭壇に、彼ら自身を犠牲に捧げて燃やされる炎がある。

だが彼ら自身が跡形もなく燃え尽きてこそ、炎は互いを惹き付け合って明るさを増す」。

(5) 「真実の炎から遠ざけられた者の心に、明かりは灯せないと仰るのですか」、私は尋ねました。

彼は答えました − 「その者自身が、自分の状態に気付かない限りは。すなわち、自分が炎から遠ざけられていると理解できるならば可能であろう。その者は、熱病に浮かされた患者のようなものだ。その者が、自ら熱病の囚人であり続ける限り、何ひとつ知ることなしに終わるだろう。あるいは、病がその者の理解を阻むこともあるだろう。理解というのは主に理性の領分、脳の領域で行なわれる。理性に問題を抱えた者は、そもそも自分の状態について思い悩むこともない。

だが自分が確かに問題を抱えている、と理解できるのであれば、それは回復の兆候だ。理性が再び働き始めているのだから。さもなければ、彼は何ひとつ理解しないだろう。炎から遠ざけられている者の心とは、そのような状態にある。自分が炎から遠ざけられていると知ることが、炎へ近づく最初の一歩なのだ。

さて、病んでいるのが体であれ心であれ、病人は医者を訪ねる必要がある。医者は患者の状態を調べ、患者を和ませ、それから患者に見合った薬を処方する。医者は患者がその健康を取り戻すまで、愛情を以て患者に接する。患者の状態により処方される薬は様々であっても、処方する医者の愛情に違いはない。そのようにして回復したとき、患者は医者がそうしたように、愛情を以て自分自身を取り扱うことを知る。いずれの患者も、その回復はおよそ三段階の過程に分けることができる。

(6) 体を病んだ者であれば、医者はまず白湯から始めるように教える − これが第一の段階。第二の段階には、薄い粥を食べるように勧められる。第三の段階には、肉を食べるように勧められる。どの時点で指示するかは医者の判断に委ねられている。回復した後は、何を食べることが最上であるかを知るのは患者自身だ。

さて、心を病んでいる者について。医者は患者に特別の薬を処方する。すなわち荒野に出かけて、ある特別な虫を捜すように指示する。その虫は穴の中に住んでおり、昼間は決して穴からは出て来ない。夜、虫は穴から出て来てふわりふわりと辺りを飛び回り呼吸する。ところがこの虫が飛び回るとき、虫の吐息は、まるで火打石と鉄の間に飛び散る火の粉のように光るのだ。この明りで、虫は荒野を飛び食物を探しまわる。

かつてこの虫は、なぜ昼間は穴から出て来ないのかを尋ねられたことがある。虫はこう答えた  − 『私自身の吐く息が、私の光となるのです。私は世界を見渡すのに、太陽の明かりなど必要としていません。自分で世界を照らせるのに、どうしてわざわざ太陽に頼る必要があるでしょう?』。このちっぽけな虫、この哀れな生き物。自分の吐息に宿る光もまた、太陽によるものであるということを知らずにいる。

心に病んだ者に、この虫を捕らえさせよ。それから、この虫の明かりを以て虫が何を食べているのか、捜させよ。そしてこの虫が食べているものと同じ植物を食べさせよ。心を病んだ者の裡に、この虫に対する愛が芽生えるまで。 − これが、第一の段階。

この後、彼を大海へ連れて行くがいい。そして、海岸で辛抱強く待たせよ。海には牛が棲んでいる。夜になると海岸へ姿を現す。牛は、日が沈んだ後で輝き出す夜光玉の明かりに頼って草を探し出し食事をする。この牛は、太陽に対してもの凄い憎しみを持っている。それと言うのも、日中に降り注ぐ太陽の光は、夜光玉の明かりを打ち消してしまうからだ。牛よ、哀れな生き物よ。彼は知らないのだ、明かりという明かりの全ての源が太陽にあるということを。

心を病んだ者に、夜光玉の明かりを以て牛が食べている草を捜させよ、そして牛が食べているものと同じ草を食べさせよ。心を病んだ者の裡に、夜光玉に対する愛が芽生えるまで。 − これが、第二の段階。

それから、彼はカーフ山へと出向かねばならない。カーフ山には木があり、シームルグが巣を作っている。彼はその木を見つけ出し、その果実を食べなくてはならない。 − これが、第三の段階。

その後は、医者は必要ない。何故なら、今や彼自身が医者になったからだ」。

(7) 私は師に尋ねました。「夜光玉に光を与え、それが明かりを放つなんて。太陽にはそれほどの力があるのでしょうか?」。「あるとも」と、師は言いました。「世界の全てが、太陽の恩誼を受けている。だが誰一人として、それを認めようとはしない。誰かが果樹園を持っていたとしよう。果樹園に実る一房の葡萄を、乞食に与えてみよ。乞食は果樹園にしがみつき、果樹園の持ち主の、生涯の重荷となるだろう。毎年、太陽は彼の果樹園を葡萄や、その他もろもろの果実で満たす。果樹園の持ち主は、乞食に施しているのは自分だと思っている。だが決して、自分もまた太陽に恩恵を施されている身であることに気付かないだろう。

一体、太陽に負うところのない存在などあろうか?明かりの差し込まぬ暗い家の中で、太陽を見ることなく育った子供がいるとすれば、そしてそのような者が生まれて初めて太陽を見る機会を与えられたとすれば、そのような場合にのみ先入観を持つことなく太陽の真価が理解されるだろう」。

(8) 「月の満ち欠けや、太陽と月が空の正反対の方角に姿を現すのを見れば、地球がその中間に位置するのは明らかです」と、私は言いました。「それなのに、地球はなぜ太陽や月の中間にあって、それらの光を竜の尾のごとく遮ることはしないのでしょう?地球は常に太陽と月の正面に位置するはずなのに」。

「おまえの考えは間違っている」と、師は言いました。「どのような姿なのかを知りたければ、教えてあげよう。まず円を描いてみよ、中心から周縁までの距離、すなわち半径が2アルシュほどの円を。それから、描いた大きな円の中心に、今度は半径60分の1アルシュの、小さな円を描きなさい。中心を通る線を描き加えなさい、ちょうど大小二つの円が、半分に分割されるように。

さて、おまえの描いた図に4つの点が現れた。2つは大きな円上に、もう2つは小さな円上に。今度は、もう2つ円を描き加えよう。外側の、大きな円上の点を中心として、半径10分の1アルシュの円を描きなさい。

さあ、この大きな円が宇宙だとしよう。中心にある小さな円は地球、残り2つが太陽と月だ。今度は、月の中心から地球の右側へ向かって線を描こう。同様に、地球の左側へ向かってもう1つの線を描こう。さて、1つの点から出発した2つの線同士の距離が、これで60分の2アルシュ離れたことになる。このままの同じ角度で、地球から宇宙へ向かって線を引けば、線同士の距離はその2倍になるだろう。そこに太陽がある。

太陽の直径は、10分の1アルシュの2倍だ。太陽の周縁は、この線には収まりきらない。太陽から、月へと向かって線を描いてごらん。地球の両側に、線から外れて影が出来るだろう。それが夜だ。そして残りの部分に光が注がれる。それが昼だ。

(9) これはほんの譬え話だ、宇宙が真実このような姿をしているというのではない。地球と月や太陽、星々、天空を隔てる実際の距離は、今ここで私たちが描いた図の何十万、何百万倍も大きい。地球の一周は96,000パラサング、そのうちわれわれ人間が住まう地域が24,000パラサングだ。そして1パラサングはおよそ10,000キュビットほどだ。

地球など、ほんのちっぽけなものだのだよ。

考えてごらん、このちっぽけな地球上の、さらにちっぽけな領土にしがみつく王侯達が、いったい何人いることか。ある者は一区域を、またある者は一地方を、そしてある者は一国を(支配する)。彼らのうち誰もが、王国の所有権を主張してやまぬ。ものごとの現実を知らぬがゆえに、彼らは己の要求を恥じることも知らぬ。アブー・ヤズィードは幸運であった(ためにこれを理解し)、彼は持てる全てを捨て去ったが、そのおかげで即座に全てを得たのだ。

享楽、地位、財産とは、まさしく人の道を塞ぐ障害に他ならぬ。これらが心を占めるうちは、いっこうに進歩することがない。虚飾に縛られず、地位に踊らされることなく流浪の修行僧のように生きる者であれば、誰しもが純粋なる「世界」そのものに達することができるのだよ」。

(10) 「人は、持てるもの全てを捨て去ることなど出来るのでしょうか」と、私は尋ねました。

「そのような人が、真に目覚めた人だ」と、師は言いました。

私は尋ねました、「全てを捨ててしまっては、どのようにして生計を立てるのでしょう」。

「案ずるな。それを心配するような者は、結局は何ひとつ捨て去りはしない」、と、師は言いました。

「一方、真に目覚めた人ならば、そのようなことで悩みはしない。全てを捨て去り、混じりけのない希望にこの身を委ねて生きるというのは全く愉快なものだ。だが誰しもが、そのような生き方を欲するというわけでもない。

(11) 昔、ある男がいた。莫大な富を持ち、豪勢な暮らしをしていた。男は、思いつく限りの贅を凝らした宮殿を建てることに情熱を注いだ。地上の全ての職人達を招集し、何から何まで命じた通りに宮殿を建てさせた。職人達は、支払われた賃金に相応しい働きをした。土台を築き、枠組を造った。宮殿の半分が出来上がったころ、あらゆる人々がそれを見物しにやって来た。美しい彩飾の描かれた壁は高くそびえ立ち、屋根はマニ教徒のそれと比べても遜色なかった。正面の入り口ときたら、ホスローの門にもはるかに勝るものだった。

男が不治の病に罹ったとき、宮殿は未だ完成してはいなかった。彼は死を拒んだ。男が死と格闘していると、その床に死の天使が訪れた。男には、それが分かった。『宮殿を完成させるまでは死んでも死にきれません』、男は言った。『どうか私の死を延期して下さい、今となってはそれだけが私の望みです』。『定められた時までは、猶予されよう』と、死の天使は答えた。『だがその時に至れば、これを遅らせることも、早めることも出来ぬ(コーラン、16:61)』。男が死を免れることはなかった。

だが魂を引き渡す前に、宮殿を建設し終える機会を与えられたとしよう。宮殿が完成すれば、今度は宮殿から立ち去ることを惜しむだろう。その痛みは、未完成の宮殿を置き去りにすることの比ではないだろう。 − 宮殿が未完成であれば、残された多くの人々の糧ともなろうものを。宮殿というものは、決して思い通りに完成することはない。猶予などというものはないのだよ。男は、魂を引き渡した。魂を引き渡した瞬間が、宮殿の完成の時なのだ、好むと好まざるとに関わらず。だが持ち主が未完成であると考える限りにおいて、彼が望む宮殿は決して完成することはない」。

(12) 「信じきり、委ねきるにはどのように考え、またどのように感じるのが最良なのでしょうか」と、私は尋ねました。「昔話にもあるように」、と、師は言いました。

「限りない富を所有する商人がいた。商売のため、彼は自分の住む町から別の町へと船旅をすることにした。彼は海岸まで出かけ、品物の全てを船に積み、それから自分も船に乗り込んだ。水夫達が船を操り航海が始まった。だが海の真ん中で船は大風に遭い、船は逆巻く渦へ呑み込まれそうになった。水夫達は(商人の持ち込んだ)宝石の詰まった袋を、次から次へと海中へ投げ捨てた。

裕福な商人は呆然とその光景を見ていた。商人は恐怖によって麻痺していた。恐怖以外の何ものも持ち合わせていないかのようだった。商人の心には次から次へと新たな苦痛がわき起こり、もはやなすすべもなかった。最初に彼を襲ったのは、財産を失うことの恐怖だった。次に自分の命、自分の体がどうなるのかと怖れた。だが抵抗も出来ず、逃げることも出来ないことを知って、彼はついに絶望した。何もかもを失ったと思えば、もはや生きていること自体が彼にとっての苦痛となった。

やがて嵐は収まった。船は再び進み始め、やがて岸へとたどり着いた。商人は海岸に立ち、ようやく生きた心地を取り戻した。そして(自分の懐に)手を入れ、持っていたものを次から次へと海中へ投げ捨てた。

人々は彼に言った 、『気でも狂ったのか?一体、どうしてそんな馬鹿げたことを!船が沈みかけ、死に怯えていた最中には、そんなことはしようともしなかったではないか。陸にたどり着き、沈む心配もなくなったというのに、何故そのようなことをするのだ』。

商人は言った  − 『財産を、あの災難の最中に捨てたところで何の意味があろうか。もしも嵐にも遭わず、船が安全に航海を続けていたならば、私も私の財産も、両方とも失われることはなかっただろう。船が沈んでしまったならば、私も私の財産も、両方とも失われていたことだろう。どちらにしても、何の違いも生じはしない。

だが、今こうして岸にたどり着いてみると、私は苦しむこともなければ大きく損なわれることもなく、失ったものなど何もないことに気付いてしまった。今、こうして安全な場所に立ってみて、あの苦しみは夢であったのではないかとすら思うほどだ。私は、自分がこんなにも早く痛みから回復するとは思わなんだ、こんなにも早く苦しみを忘れ去ることが出来るとは知らなんだ。これよりももっとひどい目に遭ってさえ、私の心には結局何一つ傷跡も残さないのではなかろうか、とすら思えてくる。

財を以て、私が得た利益とはまさしくこれを知ったことだ。 − 神よ、憐れみたまえ。私を生かしたまえ、財ではなくこの私を。もしも再び私が海を旅し、同じ苦しみを味わうのならば、その時こそ、神よ、私を滅ぼしたまえ。私は、私が執着していたもの全てを捨て去ろう。何ひとつ持たずに生きれば、船に乗り込む必要もなく、財を増やす算段をする必要もない。財を通して生きるのではなく、私を通して私は生きよう。日々の糧を得るためならば何でもしよう。一切れのパンと健康さえあれば、財宝と王権にも勝るだろう』」。

(13)  − 「彼は真実へと至る旅をしたのだ」と、私の師は言いました。「これを確信する者であれば、誰しもが必ず自らの望んだところへとたどり着くだろう。この世にあっては、誰しもがどこかへとたどり着く。夢を解釈する者達は言う、何かが増える夢を見れば、現実にはそれが減ることを意味する、と。何かが減る夢を見るならば、現実にはそれが増えることを意味する、と。多くは、これに当てはまる。

この法則は決して変わることがない、なぜなら夢を見るのが魂の役目だからだ。魂はこことは違う世界を見ている。こちらで減るとき、あちらでは増えているのを知っている。同じように、誰かの夢で赤ん坊が生まれれば、それは別の誰かの死を意味している。ちょうど誰かの夢で誰かが死ぬ時、どこかで赤ん坊が生まれているのと同じように。誰かが自分の死を夢に見るならば、その人はこの先もまだ十分に生きるということだ。あちらで減っているそれが、こちらで増えていることの証しなのだから。これが真実というものだ。

さあ、見てごらん。今この瞬間にも、次の世に生まれ来る者達の魂が、あちらの世界で何かを得ているのを。これは誰しもが見られるものではない。持てるもの全てを投げ捨てた者、そのような者を通してのみ繋がることが出来る。ひとたび繋がれば、誰しもが全てを投げ捨てることを躊躇しない。何故なら、自らもまた誰かが投げ捨てたことによって生かされていたことを知るからだ。

塞げば繋がりが断たれると知りながら、あちらを増やさずにこちらを増やして何になろうか。それで、こちらで少しづつ手放し始める。ほんの少しづつでも、手放せば手放すほどにあちらの財は増える。それで最後には全てを捨て去り、あちらに全てを委ねるようになる」。

(14) 私は、師に「真に目覚める」ことについての話をして欲しいとせがみました。

「それについては語りようがない」と、師は言いました。

「以前に」、と、私は言いました。「あなたが私に向かって石版を高く掲げて下さったことがありました。あれを見ても、私には何のことかさっぱり分かりませんでした。何しろあのような経験は初めてでしたし、何ひとつ知らなかったからです。今こうして思い返してみると、あれがどれほど深く私に影響を及ぼしたことか、私には想像もつきません。未知なるものに導かれるとは、何と不思議なことでしょうか」。

「こどもとはそうしたものだ」と、師は言いました。「それが今や、おまえはおとなになったというわけだ。

そう、おまえはこどもであった。少年とはそうしたものだ、何しろ媾合すらままならんのだからな。やがては成熟し、おとなになり、媾合の愉悦を知る。ひとたびそれを味わえば、快楽を追い求める際には、それ以外の事は全て邪魔になる。一心不乱に腰を振る最中に、『おい』などと話しかけられてみろ。たとえそれが親しい幼なじみであっても、自分の快楽を邪魔立てする者として憎しみすら感じるようになる。この愉悦については不能の男相手に語ったところで無駄なことだ。媾合の快楽は、それを経験することによってのみ知り得るもの。不能の男は、最初から経験を奪われているのだからな。

だが、今のはほんの譬え話に過ぎぬ。真の快楽は腰には宿らぬ、真に目覚めた人の魂に宿る。あちらの世界について、こちらのおまえはまだまだ未熟なこどもであった。快楽の意味するところを知らなんだ、経験の意味するところさえも知らなんだ。だが今は、おまえも成熟しおとなになった。

おとなになるとは、己自身を知り、己自身の欲するところを知り、それを自在に操ることができるということだ。己自身を限界から解き放ち、見えざる世界を看破し、以前であれば知り得ることのなかった未知の領域を臆すことなく踏破するということだ。そして神秘のヴェイルと、その背後に隠されたものの両方を、同時に楽しむことができる − それがおとなになるということだ。見よ、あの快楽とこの経験との間に、どれほどの隔たりがあることか!」。

(15) 「スーフィー達が旋回している。彼らはまるで夢を見ているようですね」。私は言いました、「何が彼らをあのようにさせるのでしょう」。

「まずはドラム、葦笛などの美しい楽器を揃えることから始まる。それも悲しみに満ちた調べを奏でる楽器ばかりだ。嘆きの調べが始まれば、歌い手の出番だ。聴く者の心に寄り添うよう、美しい歌詞を慎重に選ぶ必要がある。憂いに満ちた心の持ち主が、憂いに満ちた曲を聴いて初めて、自らの心の在り処に気付くこともある。

魂は自らの領域を思い出して目覚める。目覚めた魂は、象の心を熟知するインドの象使いのように、肉の耳から聴覚を奪い去るだろう。そしてこう言うだろう、『これは私のためのもの、おまえはそもそも聴くことの意味すら知らぬ』。魂は耳を断罪し、自ら身を乗り出して『聴く』。魂は、あちらの世界を『聴く』のだ。そこには、こちらの世界に属する肉の耳の出る幕はない」。

(16) 「何が彼らを踊らせているのでしょう?」、私は尋ねました。

「魂が上昇し始めているのだ」、と、私の師は答えました。「鳥かごから逃げ出す小鳥のように。肉体は鳥かごのようなもの、魂は小鳥のようなもの。魂の小鳥が、肉体の鳥かごを動かしている。十分に飛べる力を小鳥が持っていれば、鳥かごを壊して逃げ出すことも出来るだろう。そうでなければ、小鳥は鳥かごに捉えられたままだ。小鳥の苦悶が、鳥かごを揺らし続けることになる。

魂の小鳥を飛翔させることは、とても大きな意味を持つのだよ − 特にスーフィー達にとっては。そのためなら、苦しみもがくことも厭わない。彼らは何とかして鳥かごから抜け出そうと、あのように鳥かごを揺らし続ける。どれほど懸命にもがいたところで、だが鳥かごから逃げ出すことなど出来はしない。鳥かごからの逃避とは、現実からの逃避に他ならぬ。それで逃げ出すことも叶わず、ああして旋回し続けるのだ。やがてそびえ立つ現実の砦に阻まれて、地上に墜落するまでの間は」。

(17) 「あのように両手を振るのには、どのような理由があるのでしょう?」、私は尋ねました。師は答えました、「誰かが言うには、あれは全てを捨て去る仕草だということだ。袖の中に潜り込んだ現世のあれこれを振り払っている。『私たちは全てを捨て去り、何も持ちません』、そのような仕草だということだ。だが本当は、ああでもしなければ肉体の均衡が保てないからそうしているのだ。足だけで、旋回を支えることは出来ぬ。それで足が両腕にこう言うのだ、『そら、ぼんやりせずにおまえも動け。鍛錬すれば、俺達も次の階梯に進むことが出来るかも知れぬぞ』と」。

「あのように、外套を投げ捨てるのは何故でしょう?」。「何でも、『我らは来世を畏れる、ゆえに現世を投げ捨てる』という意味だそうな。ひとたびああして外套を捨て去った者は、再び外套を身にまとうことはない。ただし、再び『外套を拾え』と命ぜられたならその限りではないが。『投げ捨てる』ためならば、彼らは何度でも『外套を拾う』だろう」。

(18) 「スーフィーが、ひとたび地上で彼らの仲間に属すると、彼らの仲間は彼に『義務』や『罰則』を課すのだそうです。そして歌を歌わせるなり、物乞いをさせるなり、望みのままに操るのだと聞きました」、私はそう言いました。「一体、どういうことなのでしょうか」。

「それが同胞の絆と、親愛の情を示す道だからだ」。

「全てを捨て去った人が、ひとたび彼らの仲間に加われば、二度と離れることがない。強い小鳥が、ついに鳥かごを壊して飛び立つように。小鳥は、壊れた鳥かごに何の未練も残さない。彼らにとって、それは『死体』に過ぎない。彼にとって彼の仲間達は、彼の『死体』を管理しているに過ぎない。彼らの仲間が死体を今洗おうが、後で洗おうが、白い布で包もうが、緑の布で包もうが、彼の知ったことではない。墓地に埋葬しようが、あるいは別の場所に捨て去ろうが。それは彼ではなく彼の仲間達が決めることだ」。

(19) 「陶酔した誰かが、立ち上がって新たに旋回を始めました」、私は言いました。「あれはどうしたことでしょう?」。「仲間達への、愛を示しているのだ。言葉は何ひとつ交わさずとも、彼の全身が舌となって会話する。彼の境地を正しく語る言葉を、舌は持たない。それで彼は、ああした方法を選んだのだ − いや、むしろ境地の方が、舌として彼を選んだと言うべきかも知れぬ。一方で、その場に居合わせた者達は、彼が伝えようとしていることをこのようにして知らされるというわけだ」。

(20) 「旋回が終わると、彼らは水を飲みますね」と、私は言いました。「あれは何を意味しているのでしょうか?」。「愛の炎が、彼らの心臓に焼け跡を残したと彼らは言う、そして胃袋の中身は全て燃え尽きた、とも。水を注がなければ、彼らは燃え尽きてしまうだろう。彼ら自身は、決して飢えているわけではないのだが。断食を破ることを畏れぬ者は、スーフィーではない。

多くの者が戦場に赴き競いたがる。だが乗っているのが貧相なロバでは、認識の道を往く戦士達の、最初の一撃に勝てるはずもない。それで大抵は、すごすごと引き下がる。引き下がって敗者となれば、それがその者の本質であったということになる。だが臆病なこのロバ、このか弱い肉体を引き摺ってでも、現実という名の戦場を往くことこそが、真に仕事と呼ばれるにふさわしくはないか。

外套を脱ぎ捨て、旋回すれば、それがスーフィーの証しとなろうか。緑の外套をまといさえすれば、誰しもがスーフィーであると言えようか。緑の外套をまとう者は数多く存在する。そのうちの幾人かはスーフィーの特質を備えていることもあるかも知れぬ。

だが実際のところ、彼らの多くは、肉体は存在しても魂を持たぬ。

またその他の多くは、魂のみを恃み肉体(という現実)を受け入れぬ」。

 


Mystical and Visionary Treatises of Shihabuddin Yahya Suhrawardi