引用:『誤りから救うもの』

「誤りから救うもの」
ガザーリー

 


誤りから救うもの―中世イスラム知識人の自伝 (ちくま学芸文庫)

アブー・ハーミド・ムハンマド・イブン=ムハンマド・ガザーリー。イスラム哲学者・神学者。ホラーサーン(現代イラン)・トゥース生まれ。ニシャープールにあったニザーミーヤ学院にて法学・神学を学んだのちバグダードのニザーミーヤ学院で教鞭を取るが、理性と信仰の矛盾に悩み職を退き隠遁・修行生活に入る。以降シリア・ダマスカス・エルサレムなど10年間放浪し、ニシャープールに戻り再び教鞭を取ったものの、3年後に引退し故郷トゥースで死去する。イスラム学者としての知識を元にスーフィズムの要素を理論・体系付け、正統的イスラム神学と神秘主義の両立させた。

『・・・『誤り』はアウグスティヌスの『告白』と異なり、弟子の一人の依頼によって執筆するという通常の形式で、同僚ウラマー(聖職者)・神学者・一般読者、つまり世間に向かって、人々を「誤りから救うもの」、それはスーフィーの道である、ということを訴えるための書だということである。それは、彼自身がかつて喪失した信仰の確信を、スーフィーの道の中に見出したという、自らの求道の軌跡、そしてそれは同時に、信仰の弛緩という「時代の病弊」を癒す、新しい信仰のあり方が何であるかを示すためのものでもあった。』
(解説より抜粋)


知性ある人(知者)は真理を知り、次に言葉そのものを考える。もしそれが真理であれば、それを伝える人が誤謬の徒であれ真理の徒であれ、それを受け入れる。それだけではない。彼はしばしば誤謬の徒の言説の中からも、真理を引き出そうとさえ願うのである。それは、金の鉱床は土石の中にあることを知っているからである。両替商は、自分の鑑識眼を信頼していれば、苦もなく贋金作りの財布の中に手を突っ込んで、贋金の中から純金の貨幣を取り出す。贋金作りとの取り引きが禁止されるのは、田舎者だけであって、(目利きの)両替商ではない。海岸に近づくことが禁止されるのは、泳ぎのできない不器用な者であって、練達の泳ぎ手ではない。蛇に触れることが禁止されるのは幼児であって、巧みな蛇使いではないのである。・・・

知者であることの最小限の条件は、無知な一般の人々の仲間入りをしないことである。それは、たとえ蜂蜜が外科医の吸い玉の中にあっても、それを厭わず、吸い玉自体が蜂蜜の本質を変えるものではないと自覚することである。そのような蜜を嫌悪する(人間の)傾向は、凡人の無知に基づくもので、その原因は、吸い玉は不浄な血液(を吸い取る)ために作られたものにすぎないのに、血液が不浄なのは、それが吸い玉の中にあるからと考え、それは血液そのものがもつ性質のためであることを知らないからである。したがって、(この)性質が蜂蜜の中になければ、それが吸い玉の容器の中にあるからといって、その性質が蜂蜜に生じるわけではないし、したがってそれを不浄と考える必要はないのである。これは間違った憶測であるが、大多数の人々を支配しているものである。

そこであなたがある言葉の出所を尋ね、彼らが信頼を置いている人にそれを帰着できると、たとえそれが間違っていても、彼らはそれを受け入れる。他方、もしそれが自分たちの信頼しない人のものであることをあなたが示すと、たとえそれが真理であっても、彼らはそれを斥けてしまう。こうして人々は、常に人によって真理を知り、真理によって人を知ろうとしないのである。それが最大の誤謬である。・・・

もし誰かが、「穀粒ほどの大きさで、町の中にそれを置くと、町全体を食いつくし、さらに自らをも食い、町やその中のものは(何も)残らなくなり、自らも無くなるようなものが、世の中にあり得るだろうか」と聞かれれば、彼は、「そのようなものはあり得ない。それは荒唐無稽な話だ」と言うだろう。これが火のありようであり、火を見たことのない人なら、それについて聞いても、否定する。来世におけるさまざまな不思議な出来事(を否定する場合)の多くも、たいていはこの類である。・・・

私にはわかっていることだが、たとえ私が知識を広めるために帰るということになったとしても、私は同じ場所に帰るわけではない。というのは、「帰る」ということは、過去の状態に戻ることだからである。私は以前は、名声を与えてくれる知識を広め、私の言葉と行為によってそれを奨励していたし、それが私の意図であり、目的であった。ところがいまは、私は名声を捨てさせ、名誉ある地位を落とすと知られている知識を勧めているのである。これがいまの私の意図であり、目的であり、希望であり、そのことは神がよくご存知である。・・・

この知識は、大多数の人々が携わっているさまざまな学問によって得られるものではない。そのために、彼らがこの知識を増やそうとすれば、それは神に背く罪に抗する勇気をもってする以外にない。真の知識とは、その所有者に畏怖や怖れ(と希望)を増すものである。・・・