引用:『宗教と科学の闘争史』


宗教と科学の闘争史 (1968年)

“History of the conflict between religion and science” (archive.org)
J.W.ドレイパーと宗教と科学の闘争史 (pdf)
Pre-Darwinian Muslim Scholars’ Views on Evolution (pdf)
Muslims engage in quest to understand evolution (via Guardian)

こうして読み返してみるとサラセン人、すなわち(おおざっぱに)イスラム教徒が「敵の敵は味方」的な召喚のされ方をしているような感じがしなくもないですが、おもしろいはおもしろいのであまり気にせず以下に抜粋します。


文芸上ではサラセン人は、心を楽しませたり教化させるような題目は、ことごとくとり入れた。後世、かれらが他のあらゆる国民を合わせたもののうちからよりも、多くの詩人を生んだことは、かれらの誇りであった。科学上のかれらの大功績は、かれらがヨーロッパ=ギリシア人の流儀でなく、アレクサンドリア=ギリシア人の流儀で科学を育成した点にある。かれらは、科学が単なる思弁だけではけっして進歩するものでなく、唯一の確実な進歩は自然についての実際的な疑問であることを認めた。かれらの方法の本質的な特徴は、実験と観察とである。幾何学と数学的科学を、かれらは推理の手段とみなした。力学、流体静力学、光学に関する多数の著作において興味ぶかく注目されることは、問題の解決がつねに実験によってえられるか、または、器具による観察でえられている点で ある。これでこそかれらは、化学の創始者となり、蒸留、昇華、融解、濾過などに使うあらゆる種類の器具を発明し、天文学では四分儀やアストロラビウムのような目盛りのある器具を求め、化学では理論的にも十分精通したてんびんを使い、比重表や、バグダッドとスペインとサマルカンドで観測されたような天文表を作成し、幾何学と三角法を大改良し、代数学を発明し、算術にインド数学を採用したのである。これらのことは、かれらがプラトンの空想を斥け、アリストテレスの帰納法を選んだおかげであった。
(p113-114)

サラセン帝国には、大学が全土にわたって点在していた。それらは、蒙古、タタール、ペルシア、メソポタミア、シリア、エジプト、北アフリカ、モロッ コ、フェズ、スペインに設立された。地理的なひろさではローマ帝国をはるかにしのぐこの大領土の辺境にも、サマルカンドの大学と天文台や、スペインのギラルドの塔があった。ギボンは、この学問奨励についてつぎのようにいっている。「諸州の独立提督たちは、同一の大権を要求し、かれらの競争によってサマルカ ンドとボカラからフェズとコルドバにわたって、科学の趣味と報酬とがひろまった。ある回教君主の大臣は、バグダッドの大学基金に金塊二〇万を寄付し、これに一万五〇〇〇ディナルの年収をあたえた。教育の成果はおそらく、どの時代にも、貴族の子から職人の子にいたるあらゆる地位の子弟六〇〇〇にもおよんだようである。そして貧困な学徒には十分に手当てが支給され、教授の功績とか精勤には適当な俸給が支払われた。どの都市でも、アラビアの学芸上の著作は、好学家の好奇心や富豪の虚栄心によって筆写され、収集された」。これらの学校の管理者には、ときにはネストリオス派、ときにはユダヤ人が堂々と自由に任命された。生国がどこであろうと、宗教上の意見がどうであろうと、いっこうさしつかえなかった。問題はただ、学問の造詣いかんであった。大回教君主アル=マムンは、「その一生を分別力の向上に捧げるものこそ、神の選びたもうた人、最善にして有用な神のしもべである。知恵の教師こそ、この世の真の先覚者、立法者であって、かれらの助けがなければ、この世はふたたび無知蒙昧に転落するだろう」と言明した。
(p115-116)

詩歌音楽の熱愛者として、かれらは余暇の大半を、これらの優雅な趣味にあてた。かれらはヨーロッパにチェスの遊びを教え、つくり話 –– 小説物語  –– の趣味を伝えた。かれらは、もっと厳粛な文芸の分野も愛好し、人間の偉大にたいする無常や、不信仰の結果や、運勢の逆転や、世界の起原と存続とその最期、といったような問題について、みごとな多くの作品をもっていた。ときとして驚嘆にたえない点は、われわれが現代のものだとうぬぼれているような思想に出会うことである。たとえば、現代的な進化発展の学説も、かれらの学校で教えられていたようである。事実かれらは、それをわれわれよりもさらにおしひろげ、無機物または鉱物にまでおよぼしている。錬金術の根本原理は、金属体の自然的な発展過程であった。12世紀に著作したアル=カジニはつぎのようにいっている。「ふつうの人たちが自然哲学者から、黄金は、成熟の極致であり完成の終点に達した物体だということを耳にすると、かれらは、黄金の性質はもとは鉛であり、そののち錫となり、ついで真鍮、さらに銀、そしてついに黄金に発展したというふうに確信する。だがその場合かれらは、自然哲学者がそのようにいう意味は、自然哲学者が人間について語り、人間についてその性質と体質に完成と均衡とを付与するさいに意味していること –– すなわち、人間はかつて雄ウシ であり、つぎにロバに変わり、それからウマに、さらにサルに、最後に人間になったのだということ –– と、まったくおなじであることを悟らない」。
(p117-118)

教会の教父たちの解釈による神学では、次の事実が論証された。(一)天地創造の日付は比較的新しく、キリスト以前四、五〇〇〇年を出ない。(二)天 地創造の業は、ふつうの六日間を要した。(三)大洪水は全世界にわたり、生きのこった動物は方舟のなかにかこわれていた。(四)アダムは道徳と知性の点では完全に創られたが、堕落し、その子孫は、かれの罪と堕落とを分担した。これらの点や、これらら触れるかもしれぬその他の点のうち、教会当局が守りとおさなければならぬと感じた点が二つあった。それはつぎの二点である。(一)天地創造の日付の新しいこと。と、いうのも、この事件が古ければ古いほど、人類の 大多数が明らかに運命のままにまかせて世界末期に生存する少人数の救済を約束した神の正義を、弁明する必要がいよいよさし迫ってくるからである。(二)アダムの創造当時の完全状態。というのも、これは堕落と救済計画とに必要だったからである。だから神学者たちは、地球の起原を無限に遠い時代まで遡らせようとするどんな企ても、また、人間の下等生物からの進化、すなわち人間は長い年月を経て次第に現在の状態にまで発展したという回教の説も、白眼視せざるをえなかったのである。
(p178)

一般には、哲学と化学はキリスト教やまことの信心に有害だと信じられていたが、当時スペインに普及していた回教の文献は、社会のすべての階級に改宗者をつくりつつあった。その影響は、当時発生した多くの宗派のうちにはっきり認められる。たとえば、「自由精神の兄弟姉妹」一派は、「宇宙は神の流出に よってあらわれ、最後には、吸収によって神に帰るであろう。理性的な霊魂は、至高神の大部分を占めるもので、宇宙は、一つの偉大な全体とみなすときは神である」と主張した。これは、進歩した知的状態にあってはじめて抱かれる思想である。この一派の多くの人たちは、火刑に処せられるときにも明朗沈着に、よろこび勇んでいたといわれる。正統派の連中は、この一派が真夜中に暗室に裸体の男女を集めて情欲にふけっていたと非難した。ローマの上流社会も、おなじような非難を、周知のように、原始キリスト教徒にむかって浴びせたことがあった。アウェッロエス哲学の影響は、これらの宗派の多くに明瞭にみられるこの回教的学説によれば、キリスト教の戒めの目的は霊魂と神との合一であり、神と自然との奸計は霊魂と肉体との関係にひとしく、存在するものはただ一つの知性だけで あり、一つの霊魂が全人類の一切の精神的、理性的な働きをなすというのであるから、キリスト教徒の見地からは、この学説は異端の信仰になった。かれらは、 哲学的真理と宗教的真理には大きな区別があって、哲学的には真理であっても宗教的にはあやまりであるかもしれないこと –– レオ一〇世のときのラテラノ公会議でついに否定された弁護手段 –– を示そうとした。
(p196-197)