試訳:「コーラン解釈について」


Classical Islam: A Sourcebook of Religious Literature
コーラン、ハディース、預言者伝、コーラン解釈に教義解釈、神秘主義といったテーマ別に、古典と呼ばれるイスラム原典文書群をきれい&ていねいにまとめたタイトル通りの御本です。とても便利だし、それにこの宗教の成り立ち・生い立ちをともかく「おおづかみ」につかむのには最適であるかと。

以下は「Elaboration of the tradition(伝統の構築)」と題された第二部の”5 Quranic interpretation”から、”5.1 Al-Qurtubi on interpretation of the Quran”を。

 


解説
ムハンマド・イブン・アフマド・アブー・アブドゥッラー・アル・アンサーリー・アル・クルトゥービーはマーリキー学派の法学者である。彼はスペインに生まれ、広範囲に渡って旅をしたのちに上エジプトで人生の大半を過ごし、1272年に死没した。

彼の業績の中でも最も著名なのがコーラン解釈であるが、これはこの分野における最も偉大かつ重要な著作であると認識されている。議論の対象は非常に多岐に渡るが、それでいて非常に固くコーランに依拠しており逸れることがない。テキストにはコーランの節がふんだんに引用され、コーランを褒め称える言葉が繰り返され、共同体内におけるこの書物の高い地位を確認するものとなっている。テキスト内で、彼はコーラン解釈とその発展の必要を熱心に語り、また解釈に従事する者の責任と価値についてしばしば言及している。彼によれば、解釈者に求められるのは純粋さと誠実さである。また彼らは、あらゆる偽善と無縁でなくてはならない。

彼は多くの議論の根拠としてハディースにを優先させるが、かといって個々の伝承の確実性にまでは興味を示すことがなく、イスナードにいたってはほとんど注意を払っていない。彼がハディースというとき、それは個別ではなく全体として、歴史的テキストとしてのそれである。文法ならびに文体論もまた、彼の議論では重要な役割を演じている。彼にとって、全てのテキストは可能な限り多くの法例と判例を抽出するという主目的を補佐するために存在する。

『コーラン解釈』の序論において、アル・クルトゥービーは解釈者と読者のあるべき正しい態度と、解釈の作法について次のようにまとめている:

1. コーランの価値の優位性(ファダーイル)の確認
2. 神の書物を読む際の作法について、音楽的な旋律をもってコーランを読むことについて(彼自身はそのどちらも必要ではないと主張する)
3. コーランについて知識を求める者の内的な階梯について
4. コーランを正しく読誦するのに必要なコーランの知識
5. 解釈と解釈者の価値について
6. コーランの神聖さとそれに対する敬意、読者と「運ぶ者(暗記者)」に求められる義務、必要条件
7. 個人的な視点に依拠した解釈への反対意見(ラアイ)について
8. 預言者のスンナを通じてのコーラン解釈(タブイーン)
9. コーランとスンナの学習と理解の方法
10.「コーランは七つの字(または音)によって啓示された。だからその中からあなたにとって一番やさしいものを選んで読みなさい」という預言者の言葉の意味
11.コーランの断片の蒐集と統一ついて:ウスマーンによる改訂以前の正確かつ簡潔テキスト把握、章ならびに節の配列の研究
12.「スーラ」「アーヤ」「カリマ」「ハルフ」といった語の定義
13.コーランにおけるアラビア語以外の外来語について
14.コーランの独自性(イジャーズ・アル・クラーン)について、十の角度からの検証
15.イスティアーザとバスマラに関する考察

下記はアル・クルトゥービーによる序論7の訳出である。クルトゥービーの約百年後の法学者であるイブン・タイミーヤ(1327没)のMuqaddima fi usul al-tafsirなどと比較検討しながら読解するとより有益だろう。

 


個人的判断もしくは世論などによるコーラン解釈への警告および解釈学者の階梯について

一.アーイシャに関連して、彼女の語るところによれば神の使徒は、限られた少数の章句以外は決して神の書物について解釈をしなかった、という伝承がある。これはガブリエルが彼にそのように教示したためである。

イブン・アティッヤはこのハディースの趣旨について、コーランにおける隠された事柄、明らかにされなかった事柄、神の赦し無しには確認不可能な事柄に関するものであると述べている。隠された事柄とは、神がそれについて知識を明確に提示していないものを指す。例えば復活の日が正確にはいつ訪れるのか、といった問題から、審判の日を知らせるラッパは何回吹き鳴らされるのか、諸天と大地はどのような順序で創造されたのかといったコーランの字句のみでは解釈し難く、コーラン以外に影響されやすい問題などがそれに該当する。

二. イブン・アッバースに関連して、ティルミズィーの語るところによれば、彼は預言者が「私に関連付けたハディースに注意せよ。おまえ自身の知るところを守れ。私について、嘘であると知りつつ故意に嘘をつく者については、地獄にその座を移すがいい。またコーランについて、自分の主張に基づき語る者についても、地獄にその座を移すがいい」と言ったという。ティルミズィーはこの他にもジュンドゥーブに関連して、神の使徒が「コーランについて、自分の主張に基づき語る者は、たとえその主張が正しいとしても、過ちを犯している」と語ったと伝えている。

紹介したハディースのうち後者は、ティルミズィーによれば、希少であり広く一般に知られるものではない。これはアブー・ダーウードによっても記録されているが、このハディースの伝承者のうち一人にある種の批判・検討が加えられてもいる。ザリーンによる記録では、預言者は承前のハディースに加えて「また、自分の主張のみを語る者は明らかに過っており、彼は不信の徒である」と語ったという。

言語学者であり文法学者のムハンマド・イブン・アル・カスィール・イブン・バシュシャール・アル・アンバーリーは、その著作Kitab al-Raddの中で、イブン・アッバースによるハディースについて二つの見解を示している。第一に、コーランの難解な章句について語る際、イスラム初期の預言者の同胞とその後継者達以外に根拠を求める者は神の怒りにさらされるということである。第二に、 –– こちらの方がより堅固であり、かつ承前のハディース双方に共通する見解であるが –– 嘘であると知りつつ故意に嘘をつく者の席は地獄にあるということである。……

二の一. ジュンドゥーブに関連するハディースについて、アル・アンバーリーの見解がある。それによれば、該当するハディースに出てくる「主張」という語について、学識者達はこれを欲求もしくは気まぐれを意味すると仮定して解釈するのが常であった。コーランについて「自分の主張に基づき語る者」、すなわち彼以前の学識者達の見解を紐解かない者は、例えその主張が正しくとも過ちを犯しているということになる。これは彼が確実な知識無しにコーランを評価し、解釈学の領域の人々によって確立された伝統に従わなかったことによる。

二の二. このハディースに関して、イブン・アティッヤは以下のように述べている。すなわち、神の書が持つある側面の重大性について問うものだということである。その上で、彼は、学識者達の蓄積への考慮無しに述べられる意見、学問的訓練(例えば文法論や解釈論)という必須条件への考慮無しに述べられる意見について強く非難している。

このハディースは言語学や修辞学、文法学の重要性を説く学者達に関連付けられるものではない。イジュティハードを行うにあたり、原則を論戦の作法にのみ依拠して意見を述べる者に関連付けられるものである。そのように話す者というのは、単に話しているというだけで実は意見すら述べてはいないのである。

二の三. 私(アル・クルトゥービー)はこの見解が正しいことに同意する。これは多くの学識者達が選択・支持してきた見解である。科学と原則に基づく堅実な推論無しに、想像力に任せて思いつくままに述べる者は、実に過ちを犯す者である。だが確立された原則と同意された伝統に即してコーランからひとつの意味を演繹する者があれば、彼は賞賛に値する。

三.ある学者が次のように述べた。すなわちタフスィール(解釈)とは啓示にのみ基づくものを指す。「異論がある際には神と預言者に委ねよ」というコーランの節(4章59節)がその根拠である、と。これは間違っている。コーランのタフスィールを否定する者が、今後は推論を一切行わず、伝承や知識の伝達にも関わらず、ひいては預言者性について、啓示についても否定するということであるならば、一意見として認めることは可能であるが。

コーランについて語るならば、伝承のみに基づいて語るべきであるという批判も間違っている。(預言者の)教友達の間でも、コーラン読解とその解釈には相違があったのである。彼らが表明した個々の発言や見解の全てが、預言者が申し述べたことと明らかに同一ではない。実際に、預言者はイブン・アッバースのために祈り、「神が彼に宗教を学ばせますように。解釈についての知識を与えますように」と言っているのである。解釈と啓示を混同してはならない。解釈が、啓示同様にあちらからこちらへと送り届けられる類いのものであったならば、我々は預言者のこの祈りをどのように理解すべきだろうか。婦人章(コーラン第4章)を議論するとき、我々はこの問題に何度でも突き当たることになる。

タフスィールを否定する議論は、次に述べる二つの仮説に基づいていると考えられるだろう。

四の一.ある問題について意見を持つ人がいる。この場合、意見とは彼の性質ならびに彼の欲求に起因しており、彼の好むところそのものである。彼がコーランを解釈するのは、彼の意見を正当化するために他ならない。彼の欲求を満たし、彼の議論と調和するコーランの章句を探してこれを解釈するのである。ある問題について、意見も欲求もなければ、彼はコーランを思い出すこともない。コーランの意味を知ろうなど、彼の心に浮かびはしないのである。

四の一の一.この種の議論は、例えばある人の言動について見知った別の人が、その人と特定の章句について論争になった際に、革新と異端の違いについて了解している場合に生起するかも知れない。この人はまた一方で、啓示として下された章句群の意図するところを熟知している必要がある。

四の一の二.あるいはただ単に、自分の言動について何も理解できていない人が議論を生起するかも知れない。コーランのある章句が多様な価値を含むか、またはその意味が不確定である際に、人は自分の目的に一致する解釈に耳を傾ける。この場合、意見と欲求が解釈に先行している。多数の解釈のうち特定の解釈のみを優先するのである。だが優先させる根拠は、ただ個人的な嗜好に過ぎないのである。……

四の一の三.三番目の例として、あるいは、その人には十分に正当と呼べる目的があるのかも知れない。そしてコーランにその証拠を探し、自分の目的と合致する章句を見つけるかも知れない。だが彼と目的を同一とはしない人にとって、彼の目的とその章句が合致しないことは明白である。それでこの人は例えるならば、あたかも聴衆を呼び出して、意固地な者たちと戦え、と説教する説教者になる。「あなたはファラオのもとに行け。本当に彼は高慢非道である(コーラン20章24節)」という章句を引用し、同時に、自分の目的に従わない人の心臓を指差す。このようにしてその人は、別の人の心臓を「ファラオ」と意味づけし断定するのである。

こうした議論は、装飾的な言辞もしくは聴衆の扇動として効果的であるため、多くの説教者たちによって実践される。だがそれは禁じられている。誤った推論は非論理的であり、それは言語の使用規則を逸脱した不当なものである。

こうした振る舞いは、バーティニーヤにも実践されるものである。彼ら自身がコーランの文脈の意図とは異なることを確実に知っている問題について、彼らの提示する間違った信条へと人々を誘導する。これは違法な結果をもたらす。

四の二.コーランを解釈するのに、アラビア語の素読のみに頼ろうとする人がいる。類例に乏しい語や、あいまいで難解な表現、修辞的な表現、あるいは略字、略語、語そのものの省略、転位、置換などについて、啓示ならびに解釈学の伝統が示す学問の蓄積に全く注意を払わない。解釈の主要な伝統を習得すること無しに、彼自身のアラビア語理解のみを恃みとして意味の演繹を急げば、多くの間違いを犯すことになるだろう。

このような人は、個人的意見に基づきコーランを解釈する人々に含まれる。解釈学の範疇に、規律として啓示と伝統は不可欠である。第一の理由は過誤を避けるためであり、続いて理解と演繹の能力を拡張するためである。啓示には、啓示以外では見受けられない珍しい語が頻出する。主要な伝統的解釈の修養無しに、意味の理解を達成する望みはほとんど無い。……

以上、これら二つの事相を除けば、解釈を否定する言説は認められるものではない。

五.イブン・アティッヤの伝えるところによれば、サイード・イブン・アル・ムサイブやアミール・アル・シャービーらを含む信仰深い先人たちのある一団は解釈を慎んだ。彼らは解釈の行為を尊重した。学識や地位に関わらず、彼らは過誤を恐れ慎重であった。

アル・アンバーリーは、過去の世代における特定の指導者たちは、難解なコーランの章句については解釈を控えるのが常であったと語っている。幾人かは、彼らの解釈と神の意図が一致していないかも知れないと考え、それ以降はこの分野において二度と発言することは無かった。また別の者たちは、彼らがイマーム、すなわち解釈の問題における前例として追従されることを恐れた。彼らの技法が採用され、方法論の基礎として固定されることを恐れたのである。もしもそうなれば、後世の思想家たちが彼らの解釈を採用し、しかもその解釈が誤っていた場合にさえ、「私のイマームは誰それであり、私の解釈は彼の解釈に基づいている」と述べる可能性がある。

イブン・アビー・マリーカの伝えるところによれば、コーランの語の解釈について尋ねられたアブー・バクル・アル・シッディークは、「コーランの一語について、私の語ったことがもしも神の意図するところから逸れていたならば、たとえ空が私を庇おうとも、地が私を匿おうとも、どこへ逃げ隠れできようか?」と言った。

五の一.またイブン・アティッヤはこのようにも伝えている。すなわち以前の時代においては、解釈の修練と研鑽にはげむ人々の一団があり、数においてはこちらが上回っていた。彼らはムスリムたちに解釈の実践を薦めた。解釈学の徒の先導者はアリー・イブン・アビー・ターリブであり、アブドゥッラー・イブン・アッバースが彼の後に続いた。後者は熱心に取り組み、これを成功させた。彼の後に続いたのが、ムジャーヒドやイブン・ジュバイルといった学者たちである。

事実上、多くの学者たちがアリーよりもむしろ彼の保護を受けた。「コーランの解釈として、たとえ何を私が取り入れようとも、それは全てアリーからのものである」とイブン・アッバースは言った。アリーもイブン・アッバースの解釈を賞賛した。そして、彼の解釈は広く聴かれるべきだと主張した。イブン・アッバースについて、アリーは「イブン・アッバースはコーランの通訳者として素晴らしい」と言った。「イブン・アッバースが不可視の世界を観察するのに、隔てとなるのは薄いヴェイル一枚のみであるらしい」。

前出の学者の他にもアブドゥッラー・イブン・マスード、ウバッイ・イブン・カアブ、ザイド・イブン・サービト、アブドゥッラー・イブン・アムル・イブン・アル・アースなどがイブン・アッバースの後に続いている。彼ら預言者の同胞によるものは、全て受容に値する。何故なら、彼らは啓示の目撃者であり証人であり、またそれ(啓示)は彼らの言葉で下されたからである。……

五の二.またイブン・アティッヤはこのようにも伝えている。すなわち際立った学者たちの中でも、特に傑出しているのはアル・ハサン・アル・バスリー、ムジャーヒド、イブン・ジュバイル、アルカマアであった。イクリマ、イブン・ダッハークがその後に続く。

後者はイブン・アッバースと面識はなく、イブン・ジュバイルの教示を受けている。アル・スーッディーとアブー・サーリフについては、洞察力に欠けているとしてアミール・アルー・シャービーに非難されている。ヤフヤ・イブン・マーインはアル・カルビーは何にもならない、と言った。……

またアブー・サーリフについて、ハビーブ・イブン・アビー・サービトは「私達は彼について、たびたび(ペルシア語で)『うそつき』と呼んだ」と言っている。……

五の三.その後もあらゆる世代において、まっすぐに立つ者たちこそは解釈の伝播者となり、それはまさしく預言者の言葉を反映したものである。すなわち「あらゆる世代において、まっすぐに立つ者たちこそが解釈の伝播者となる。彼らの知識が、間違った信者たちの党派心から、過激な者たちの歪曲から、無知な者たちの解釈からの保護となる」。これはアブー・アミールその他の複数が伝えるハディースである。

アル・ハティーブ・アル・バグダーディーによると、このハディースは彼ら(解釈学者)が無知な者の解釈を論破し、シャリーアを歪曲や党派心から保護する限りにおいては、彼らこそはこの宗教の導師であり、全ムスリムのイマームであることを示す神の使徒による証言である。彼らの言葉に耳を傾け、彼らに信頼を置くことが義務としてかかるものである。

五の四.イブン・アティッヤは、人々のうち、中でもアブド・アル・ラッザーク、アリー・イブン・アビー・タルハ、アル・ブハーリーといった人々は、解釈学の規律の範囲内で執筆している、と述べている。のちのムハンマド・イブン・ジャリール・アル・タバリーは、分散した解釈を蒐集し、難解な部分について解説し、またイスナードに対応させて編纂した。

現在、目立って優れた権威はアブー・イスハーク・アル・ザッジャージュとアブー・アリー・アル・ファーリシーである。アブー・バクル・アル・ナッカーシュとジャアファル・アル・ナッハースについては、訂正や修正がしばしば為されるが、マッキー・イブン・アビー・ターリブは彼らの実践に倣っている。アブー・アル・アッバース・アル・マウダーウィーは作文法を完成させた。

しかし、いずれにせよ彼らは全てムジュタヒドであり、知的な努力によって神の報奨を受取る者たちである。例え彼らの示す論点が、時として不明瞭に見えることがあり、正確さにおいて万全とは言えないにしてもである。彼らに神のご加護がありますように、彼らの名声が守られますように。

 


参考文献
Muqaddima fi usul al-tafsir, Ibn Taymiyya trans. Muhammad ‘Abdul Haq Ansari, under the title An Introduction to the interpretation of the Qur’an, Birmingham 1993.

‘Al-Kurtubi, Abu ‘Abd Allah Muhammad’ in Encyclopaedia of Islam new edition, R.Amaldez

‘Tafsir from Tabari to Ibn Kathr: problems I the description of a genre, illustrated with referece to the story of Abraham’ in Approaches to the Qur’an, G.R.hawting, Abdul-Kader A.Shareef, London 1993.

Discovering the Qur’an: a contemporary approach to a veiled text, Neal Robinson, London 1996.