はじめに:『袋を担いだ男のはなし』

子供の手をひいて歩くお母さんを思い浮かべて下さい。

もちろん、お父さんでもかまいません。

この母子が歩いているのは、市街の中心にあって、自動車が次から次へと走り去っていく大通りです。子供は、どうやら通りの反対側に興味を持ったようで、母親の手をひっぱって車道を横切ろうとします。

「走っちゃだめ!あぶないでしょう」と、母親は子供に言いますが、子供は全く母親のいうことに耳を貸しません。「走っちゃだめよ、車にはねられてしまう」と、母親はさらに子供に言いますが、子供は全く母親の言うことなど聞かず母親の手をぐいぐいひっぱります。「だめだって言ってるでしょ!」「ヤダヤダ」などとさらにひっぱり合いが続いた後、母親は通りの反対側を歩く男性を見ました。その男性は肩に大きなバックパックを担いでいます。母親は子供に言います:

「ほら、言うことを聞かないとあの袋に入れられて、どこかへ連れて行かれてしまうよ」

子供は母親の指差した方を見ました。確かに母親の言う通り、大きな袋を担いだ見知らぬ男性が歩いています。子供はそれを眼にしてやっとおとなしくなり、車道へと飛び出すことはやめにして母親の手を握り、おとなしく通りを歩き始めました。母親は安堵します。子供も無事です。

さて、このおはなしをもとに「人間」であるとか、「真実」であるとか、「宗教」であるとか、そういうものについて考えてみたいと思います。

質問そのいち。「母親が子供に対して語ったことは真実だったのでしょうか?」

母親が語ったことの字句だけを追えば、「袋に入れられて連れて行かれてしまう」という部分に関しては、彼女は子供に対して嘘をついた、つまり真実を語らなかったということになるでしょう。ですが字句だけではなく、状況からも考えてみましょう。

母親は最初に「あぶないから走ってはいけません」と子供に伝えますが、子供はそれを理解できませんでした。ここまでは、母親は真実を語っています。さらに「車にはねられてしまうよ」と母親は説明します。しかし、それも子供には理解できませんでした。ちいさな子供の幼い理解力は真実であるとか、起こり得る未来などについては理解できるレベルに達していなかったのです。最後に具体的に「袋を担いだ男性」を指差して見せることで、すなわち母親が子供の理解力のレベルに見合った例え話をすることで、子供はようやく「危険」については納得しました。

母親が子供に伝えたかったのは、「車道に出るのは危険だ」ということでした。つまり母親が子供に伝えたかった情報そのものは疑いようもない真実です。また、これが非常に重要なことなのですが、母親の目的は子供を保護することにあったのであり、子供の理解力を制限することにあったのではありません。

さて、母親の例え話(「袋を担いだ男」のはなし)はこの子供にとり、この時点では非常に有効でした。子供は母親の言うことを聞いて二度と車道には飛び出さず、交通事故にあうこともなくすくすくと育ちました。

質問そのに。「その後この子供はどんなふうに成長したでしょう?」

この質問の答えはひとつであるとは限りません。子供が100人いれば100通りの成長パターンがある、というのがより現実的な答えだと思いますが、ここでは話を進める便宜上いくつかのパターンに絞ってみます。

1. 子供は成長するにつれてさまざまなことを学ぶ力をつけ、道路を横切ることの危険性についても理解します。それと同時に「袋を担いだ男のはなし」が母親による「作り話」であったことや、彼女がなぜそのような「作り話」をしたのかも理解します。彼(彼女)はこのように結論するに至ります:「私の母はとても賢い女性でした。まだ小さかった私に道路を横切ることの危険を納得させ、保護する術を知っていたのですから。おかげで、私は事故にあうこともありませんでした。」

2. この子供は、学ぶことにはあまり積極的ではありません。彼(彼女)は、「袋を担いだ男のはなし」を信じ続けます。この確信は、彼(彼女)を危険から保護し続けますが、同時に、道路以外の場面における生活全般をも支配し続けることになります。

3. 子供は成長するにつれて、「袋を担いだ男のはなし」が母親による「作り話」であったことまでは理解しますが、なぜ母親が「作り話」をしたのかを正しく理解できませんでした。にも関わらず、彼(彼女)は全てを理解したと思い込みます: 「私の母親は私に嘘をついた!『袋に入れられて連れて行かれてしまう』なんて信じるものか。それは道路を横切らせまいとした母の作り話だ。道路を横切ったって何も心配することなどないのだ」

そういうわけで彼(彼女)は道路を横切りますが、そこへ走ってきた車にはねられ大けがを負うことになります。

4. 子供は成長するにつれて、「袋を担いだ男のはなし」が母親による「作り話」であったことを理解します。それと同時に、道路を横切ることが危険であることも理解します。その上で、彼(彼女)が導き出した理論とはこのようなものです:

「私の母親は私に嘘をついたけれど、私はそれを信じた。当時の私が利口ではなかったからだ。この世の中には、あの頃の私と同じような愚かな人々が沢山いる。だから利口な嘘をつき続けていれば、私は彼らを利用できる。そうすれば、私は名声と権力とを手にすることだろう。」

そういうわけでこの子供は政治家となり、短期間のうちに為政者として彼(彼女)の祖国を支配します。また、近隣の国々を彼の支配下に治めることにも成功します。ところがある日を境に、彼(彼女)が欺き支配していた人々が彼に抵抗します。支持者たちは手のひらを返したように彼から離れていきます。彼(彼女)の宮殿は怒りに満ちた群衆によって捜索されます。彼(彼女)は広場に引きずり出され、かつて彼の嘘を信じ、彼(彼女)を神のごとく崇拝していたのと同じ人々の手によって、八つ裂きにされてその一生を終えます。……

2番目の、「袋を担いだ男のはなし」を盲目的に信じ続ける子供とは、教えられたことに無批判に従い、それを信じ続ける人々です。彼らがそれを信じるのは、それが「真実」であるから、ではなく「そのように教えられた」からです。そうした盲目的な従属は、時と場合によっては彼らを有害な行為から遠ざける一助とはなり得ても、「教え」そのものの有効性やそこから得られる恩恵については、決して他者に説明することも、他者の理解を得ることも出来ません。「袋を担いだ男のはなし」そのものには自ずと限界がありますが、その限界を他者に指摘されると、たちまち不安に陥ることになります。

「袋を担いだ男のはなし」の中に留まることは、複雑な社会状況においてはしばしば「教え」の誤用を引き起こします。また、彼らの子供たちに「袋を担いだ男のはなし」をしても、彼らがかつて盲目的に信じたのと同じように、彼らの子供たちがそれを信じるという保証はどこにもありません。「袋を担いだ男のはなし」に込められたメッセージが親によってきちんと理解されていない場合、次代に引き渡す際にクオリティがむしろ下がるような事態を招くこともあります。

メッセージを理解するためと言うよりも、ただ漠然とした不安に駆られて、彼らは「指導者」と呼ばれる人々のもとへ駆け込みますが、くり返し聞かされるのは、百万通りにも解釈し直された「袋を担いだ男のはなし」ばかりであることもしばしばです。

3番目の、「袋を担いだ男のはなし」を批判することに成功はしたものの、そこに込められたメッセージについて理解しなかった子供とは、「袋を担いだ男のはなし」ばかりかメッセージそのものまで拒絶する、自称「現代的・近代的」な人々です。

原理原則を無視した楽観的理想とご都合主義的な希望的観測のみを根拠に、彼らはしばしば彼ら自身にとって有害であるばかりではなく、周囲にとっても有益とは言いがたい行為に走ります。

「袋を担いだ男のはなし」に込められたメッセージを理解せず、保留事項にすることもなくただ拒絶してしまうことは、彼らが自分で思っているほどには科学的・進歩的であるとは言えません。盲目的に「袋を担いだ男のはなし」を信じることと、盲目的に「袋を担いだ男のはなし」を拒絶することとでは、理解と応用の不足という意味においてそれほど違いがありません。

4番目の、政治家になった子供について。欺くことで一時的に追従者を得られたとしても、一方では、嘘は必ず暴露されるものです。ヒトラー、チャウシェスク、ミロシェビッチ……人類の歴史は大なり小なり、このような人物で溢れかえっています。

1番目の、「袋を担いだ男のはなし」を理解する子供とは、不安や怖れによってではなく理解することによって根本的な真実を受け入れる人々です。理解することによって真実を受け入れようとする人々は、たとえどれほど複雑な状況であっても、原理原則の応用によってより生産的で創造的な道を選択することが可能になります。

預言者(預言者たち)は、神から真実に関するメッセージを預かり、彼らの時代の人々に神を畏れるように伝えました。当時の人々の多くが知識や理解、経験の不足からくる行動の結果として、彼ら自身や彼らが属する社会の利益を損ねていたからです。

ここで解釈を試みたコーランもまた、ムハンマドという名の預言者が神より預かったメッセージを集めたものです。コーランは神を畏れなさい、と伝えますがそれと同時に、幾度となく理解しなさい、とも伝えます。

「あなたがたは理解しましたか?」

「観察しなさい、そうすれば理解できます」

「あなたがたはまだ理解しないのでしょうか?」