コーランは夫婦間の暴力を認めているのか

安楽椅子解釈 – I

 

Q. 2004年4月、フランス在住のあるイスラム導師が、「不貞な妻には顔を傷つけない限り、殴るなどの体罰を加えて良いというのが聖典コーランの教えだ」と公言しました。彼はフランス当局より拘束された上、国外追放されましたが、彼の言っていることはイスラム的に正しいのですか。コーランは妻に対する夫の暴力を容認しているのですか。

A. 全く正しくありません。コーランは夫婦間における暴力を容認していません。

またかれがあなたがた自身から、あなたがたのために配偶を創られたのは、かれの印のひとつである。あなたがたはかの女らによって安らぎを得るよう(取り計らわれ)、あなたがたの間に愛と情けの念を飢え付けられる。本当にその中には、考え深い者への印がある。
(第30章・ビザンチン章21節)

本当にアッラーは公正と善行、そして近親に対する贈与を命じ、また凡ての醜い行いと邪悪、そして違反を禁じられる。かれは勧告している。必ずあなたがたは訓戒を心に留めるであろう。
(第16章・蜜蜂章90節)

もしも夫婦間で何がしかの不正があり、話し合いで解決しない場合は法的手段によって改善しなくてはなりません。法廷もしくはそれに準ずる場所ではなく、私的に誰かが誰かを裁いたり罰したりすることは私刑でありそれは犯罪です。

家庭内暴力という、密室で行われる明らかな犯罪を正当化しようとする際に、頻繁に引用される節のひとつがこれです:

男は女の擁護者(家長)である。それはアッラーが、一方を他より強くなされ、かれらが自分の財産から(扶養するため)、経費を出すためである。それで貞節な女は従順に、アッラーの守護の下に(夫の)不在中を守る。あなたがたが、不忠実、不行跡の心配のある女たちには諭し、それでもだめならこれを臥所に置き去りにし、それでも効きめがなければこれを打て。それで言うことを聞くようならばかの女に対して(それ以上の)ことをしてはならない。本当にアッラーは極めて高く偉大であられる。
(第4章・婦人章34節)

「これを打て」ですが、打ち方に条件があります:

まず、顔は絶対に打ってはならない。

痣や傷が残るほど強く打ってはならない。

手以外を使ってはならない。棒だのを使うのはもっての外。

そして、何よりも「痛み」を与えてはならない。

これらは全て「ハディース」と呼ばれる、生前の預言者ムハンマドの言行録から導きだされた条件です。更に預言者ムハンマドの慣行に完璧に従おうとする信者ならば、預言者が生涯に一度として女性に対し手をあげたことがなかったのを知らないはずがありません。

文字だけを読めば「これを打て」ですが、実際には「打つ」ことなど仮にもイスラム教徒であれば不可能であり、打った瞬間から彼は預言者の慣行から逸脱することになってしまいますから、事実上女性を打つことは禁じられた行為です。またこの部分は、英語であればhitではなくtapと訳される単語です。何か別のことに夢中になっている人の注意をひくためにとんとん、と肩などを軽く叩いてこちらを向いてもらう、という感じです。

付け加えると、引用された節の()括弧内の記述は、もともとコーランの原文にはありません。「アッラーが、一方に他より多く財産を与え、そこから経費を出す場合、男は女の擁護者となる。」と説明した方が、日本語的には多少ぎこちなくとも、原文により近いと思います。

また、「貞節な女」と翻訳されていますが、これの原語は「まっすぐ・直立」または「独立」などの意味があり、その後に来る「アッラーの守護の下に(夫の)不在中を守る」の(夫の)という部分ももともとコーランにはないので、この部分は特に既婚者やパートナーを持つ女性のみを対象にしたものではなく、パートナーを持たない独身者も対象に入っています。

アッラーは、男の信者にも女の信者にも、川が永遠に下を流れる楽園に住むことを約束された。また永遠(アドン)の園の中の、立派な館をも。だが最も偉大なものは、アッラーの御満悦である。それを得ることは、至上の幸福の成就である。
(第9章・悔悟章72節)

「アッラー(神)の御満悦」、すなわち自己の成長や精神的な糧を求めることが、人生において一番価値があり重要であることに男女の区別はありません。片方の精神的・肉体的苦痛や犠牲の上に成り立つ結婚生活に、一体流された涙以上の価値があると誰が言えるでしょうか。