女性隔離は歴史的な習慣に過ぎない

安楽椅子解釈 – I

 

東京モスクのバルコニーで(例によって例のごとく)ぼけぼけと時間を食べていた時のことです。上から下まで黒尽くめの、私の母親かそれより少し年上かと思えるぐらいの女性(日本人ではない)が連れの女性と入ってきて、ミフラブの真ん前で礼拝を始めました。

2ラカート終えたところで礼拝の時間にさしかかり、ちらほらと礼拝のために人が入って来ましたが、彼女はその後もう2ラカート礼拝をして、でも彼女がズィクルを終えて満足げに立ち去るまで、誰も何も言いいませんでした。彼女の周囲を、大勢の天使たちが取り囲んでいたのが見えたのでしょう。

さて、この女性隔離を正当化するのに、よく引用される節がこれです:

信仰する者よ、預言者の家に食事に呼ばれても食事の準備が、完了するまでは、家の中に勝手に入ってはならない。だが呼ばれた時は入りなさい。食事が終わったならば立ち去れ。世間話に長座してはならない。こんなことが預言者に迷惑であっても、預言者はあなたがたを(退散させることを)遠慮するであろう。だがアッラーは真実を(告げることを)遠慮なされない。またあなたがたが、かの女らに何ごとでも尋ねる時は、必ず帳の後からにしなさい。その方があなた方の心、またかの女らの心にとって一番汚れがない。またあなたがたは、アッラーの使徒を、悩ますようなことがあってはならない。またあなたがたはどんな場合でも、かれの後でかれの妻たちを娶ってはならない。本当にそれらは、アッラーの御目には大罪である。
(第33章・部族連合章53節)

一読すればすぐ分かるように、これは私的空間における振る舞いに関する注意と命令であり、更に付け加えるならこれは預言者の妻達に関して下された、いわば対象を限定した命令でもあるのですが、この節をもって公私関わらず女性を隔離すべきだ、とする拡大解釈がまかり通っているわけです。

女性であることを理由に何かと不便が生じるのは、これはモスク内に限定して起きる現象ではないので、今さらあまり驚くことではないかも知れません。例えば自らをイジュティハーディストと名乗るMuqtedar Khan氏ですら「女性と肩を並べて礼拝するのでは、自分が礼拝に集中できるかどうか分からない」と弱々しくコメントする有り様です。男性という生物はそこまで繊細に作られているとも思えませんが、それでも「ああ、そうなの・・・お気の毒に」としか言いようがありません。

お願いしたいことがひとつあるとしたら、「頼むからそれ(女性隔離)を神様の名において正当化するのはやめてくれないか」ということです。「女性隔離」にゴーサインが出たのは、たまたま特定の時代・特定の地域においてそうすることが利益になる、と、特定の支配者によって判断されたからに過ぎません。

以前になにかの番組で、インタビューに答えていたイマム某が「1400年間こうしてた、これからもそうだ」と開き直って(?)しまっているのを見たことがあります。この言葉に全てが集約されているように思います。100年前にもきっと「1300年間こうしてた、これからもそうだ」と言い放った爺様がいたことでしょう。既存の習慣を脅かすものは、これを排除し回避する、という傾向は、もう殆ど人類の特徴のひとつと言っても良いぐらいいたるところで見かけられるものです。

しかし、それと同時に、その逆のこと、つまり自分自身の習慣を打破しようとする傾向もまた、人類の特徴のひとつであって、これが人間を最も人間らしくしているのだとも思います。精神的な成長と自律とを希わない人間がいなかった時代もまた、今までにも一度だってありませんでした。「これからもそうだ」という爺様の予言は、預言者のおひとりであるイブラヒムが、「父さん俺はそれって違うと思う」と仰ったまさにその時から、いつだって大はずれするように定められています。

ところで「イスラムと女性」と言うと、ある人はイスラムは女性に優しい宗教、と言うし、またある人は女性を蔑視する宗教、と言うし、でも実際にはそのどちらでもありません。別に女性だからと特別扱いしてもらえるわけでもないし、逆に男性だからと特別扱いしてもらえるわけでもない。神様の前では男も女も同じ、という宗教です。