東でもなく、西でもなく

安楽椅子解釈 – I

 

ラマダン中のめも書き、今日は「雌牛の章」から。

正しく仕えるということは、あなたがたの顔を東または西に向けることではない。つまり正しく仕えるとは、神と最後の(審判の)日、天使たち、諸啓典と預言者たちを信じ、かれを愛するためにその財産を、近親、孤児、貧者、旅路にある者や物乞いや奴隷の解放のために費やし、礼拝の務めを守り、定めの喜捨を行い、約束した時はその約束を果たし、また困苦と逆境と非常時に際しては、よく耐え忍ぶ者。これらこそ真実な者であり、またこれらこそ主を畏れる者である。
(雌牛の章・2章177節)

イスラムにおける宗教実践について、一番分かりやすく美しくまとめられた節のひとつだろうと思う。

「al-Mashriq(東) wa al-Maghrib(西)」の「wa」を、「または(or)」と訳すことがままあるようだが、ここはあくまでも「〜と(and)」と訳してある方がいいような気がする。

「東でもなく西でもない」という表現は、「御光の章」から先日引用した節にも出て来る。繰り返して強調するだけの価値があるということだ。「御光の章」では、こんな感じだった:神は、天地の光である。かれの光を譬れば、燈を置いた、壁龕のようなものである。燈はガラスの中にある。ガラスは輝く星のよう。祝福されたオリーブの木に灯されている。(その木は)東方(の産)でもなく、西方(の産)でもなく、この油は、火が凡んど触れないのに光を放つ。

例えば「中東」にしても「極東」にしても、そもそもは植民地政策でイケイケだった頃のイギリスで作られた軍事用語だ。その事自体の是非はともかく、地図上に描かれる方角というものは、実はとても相対的なものだ。誰がどこからその方角を見ているのか、で変化してしまう。

「東でもなく西でもなく」という否定形の表現からは、宗教の心というものが、空間の束縛を受けるものではないことがまず理解できる。空間に束縛されないってことは形(フォルム)に束縛されないってことでもある。宗教の心、すなわち「信仰」と呼ばれるものは、どうしたって地上にある言葉で言い尽くせるものではないし、目に見えることだけで判断出来るものでは決してないのだ、ということ。

でも東でもなく西でもないなら、じゃあどっちを向いたらいいんだ。どっちが正しい方角なんだ。と言うと、「かれを愛するために」の、「愛」こそが、顔を向けるべき方角だということになる。

雌牛の章には、他にも「宗教に強制があってはならない」という節がある。「愛」って自由なものなのだね。何にせよ動機は常に「愛」であるべきで、「恐怖」だとか「不安」だとか、「愛」以外に発するのであればそれは「正しく仕える」ということにはならない。

その後に続く、「愛のもとに分かち合いましょう」というのが、礼拝であるとか喜捨であるとか、そういったいわゆるイスラムにおける実践箇条よりも先に言及されていることに、初めて読んだときちょっと感動したのを憶えている。

神さまは人間に必要なものを、この地上に豊かに用意してくれている、それも奪うためではなくて与えるために。もしも人間に足りていないものがあるとすれば、それは常に愛であるとか、勇気であるとか、目に見えないもの、またそれらについて思いを馳せる想像力なんだろうと思う。

胡桃の、硬い殻と中味だったら、中味の方がおいしいに決まっている。蜂の巣と、その中に溜まっている蜂蜜だったら、蜂蜜の方がうれしいに決まっている。でもそれは、殻や巣と言った眼に見える部分しか見ていなかったら、決して知ることが出来ない。