I-III. ノアとオグ

『聖地の民間伝承:ムスリム、クリスチャン、ユダヤ』
著 J. E. ハナウアー

 

I-III. ノアとオグ

預言者イドリースは筆を用いた最初の人間である。アッラーにより天国へ移される以前に、彼は神の啓示に関する三十冊の書物 –– それ以外にも天文学やその他の科学に関する書物を著しているが、それらは現在失われてしまっている –– を書いた。ノア –– 彼の上に平安あれ –– は、彼の祖父イドリース1のように書物を残すことはしなかったものの、これまでに遣わされた中でも最も偉大な六人の預言者のひとりである。ノアのもうひとつの名はアブドゥル=ガッファールといい、これは「寛大なる者のしもべ」を意味する。彼はイドリースが天に召されてから、百と五十年ののちに生まれた。洪水について人間たちに警告し、箱舟を建造するようアッラーに命じられる以前の彼は、ダマスカスに住んでいた。アッラーのご命令とご指示により、彼はこの世で最初のナークースを作ったが、これは時鐘として、今もなお東方の教会や修道院で使われている。

人間たちを改心させようというノアの努力は無駄になった。彼は叩かれ、嘲られた。彼の不信心な妻ワーイレーや邪悪な息子カナーン、それにカナーンの息子ウージュ・イブン・アナク(アナクの子オグ)ですらそうした。アナクはアダムの娘で、「下劣な女」2であり、魔女たちの始祖であった。邪悪なこの四人は、ノアは狂っているのだと人々を説き伏せるためなら、ありとあらゆる手を尽くした。

洪水は地底の「タンヌール」、かまどから突如として噴き出した。このかまどがどこにあるのかは定かではないが、ある者はゲゼルだといい、またある者はダマスカスという。

箱舟は水位の上がった海に高く持ち上げられ、海は激しく降り注ぐ雨によってますますふくらんでいった。ノアと彼の一族(彼の妻、アナク、カナーン、そしてオグを除いて)は、他の信仰者の仲間たちと一緒だったが、その数については六人とも十人とも、十二人とも、あるいは七十八人、八十人とさえ言われている。半分は男、半分は女で、アラビア語の記憶者である古老ヨルハムも含まれており、アッラーが箱舟に入らせたもう動物たちと共に救われることとなった。動物たちの中にはロバがいたが、その尾の下には蠅に姿を変えたイブリースが隠れていた。このロバは、邪悪な者を連れて箱舟に入るのを嫌がったが、ノアに激しく殴られて仕方なしに乗り込んだ。この時の、ロバに対する不正な仕打ちの償いとして、その子孫のうち一頭を楽園に招き入れることが運命として定められた。これがのちの、生き返って天国の庭に入るのを許された「オザイルのロバ」の由縁である。3

氾濫した大洪水は、箱舟の中にいた者たちとオグを除いて、すべての人類を滅ぼした。オグはとても背が高かったので、洪水が押し寄せたときも、その水位は彼のくるぶしの高さほどでしかなかった。彼はノアとその仲間たちを滅ぼそうと、何度も繰り返し箱舟を水の中に沈めようとしたが無駄だった。箱舟には松脂が塗り込められており、そのせいで掴もうとしてもいつも彼の手からつるりとすべり、何ごとも無かったように水の上に浮くのだった。腹がへると、オグは自分の尻の高さまでしゃがみ込み、両手で水をすくい上げた。指のすき間を通して水を漉すと、手の平の上にはいつでも相当に多くの魚がとれた。彼はこれを太陽にかざして焼いた。のどが乾けば手を伸ばし、空から降ってくる雨水を桶に汲めばそれで何もかもが済んだ。こうして彼は洪水の後も数世紀を過ごし、ムーサーの時代が来るまで生きたのである。

ある日、彼がジェベル・エッ=シェイフ4の山頂に立っていたときのことである。エル=ベカー5をまたいで越えようとしたところ、距離をはかり間違え、思ったよりもかなり遠くの大海に踏み込んでしまった。また別のときには熱病を患い、横になって休んでいたが、彼の体はヨルダン川の水源であるバニアスから、メロム湖にまで届くほどだった。こうして彼が寝転んでいるところに、幾人かのラバ追いが、バニアスを通って南へ下ろうとやってきた。彼らが顔のあたりに近づいたころ、オグは言った。「病気で動こうにも動けない。アッラーの愛にかけて、おぬしら、おれの足先に辿り着いたら、まとわりついている蚊を追い払っておれの『アバーヤ』で足を覆ってはくれまいか。くすぐったくてかなわない」。ラバ追いたちは、彼の言った通りにすると約束した。彼らが足のところに辿り着くと、そこにいたのは蚊ではなく、大勢のジャッカルの群れであった。

そんなオグも終には、ムーサーの手によって斃された。その顛末は以下の通りである。荒野を抜けて旅をするイスラエルの民を滅ぼそうと、この巨人は巨大な岩を大地から引き抜いた。土地にして一リーグ四方を占めるイスラエルの民の野営地を、まるまる潰してしまえるほど、それは十分に大きな岩だった。野営地に落とそうと、オグは岩を頭上高く運んでいたが、アッラーは小鳥を遣わして、岩をつついて穴を開けさせた。開いた穴がとても大きかったので、岩は手から大きくすべり、オグの頭上から肩まで落ちてきた。

これではオグも何とも動きようがなく、どちらに行けばいいのかも見えない。ここで身の丈十ドラーア6の、われらが預言者ムーサーの登場である。彼の奇跡の杖も同じほどの大きさで、十ドラーアのムーサーが頭上に振り上げると、それはちょうどオグのくるぶしに届いた。したたかに打たれたオグは転んで倒れた。山ほどにも高い彼の体の上に、大岩が落ちた。こうして彼は死んだ。

ノアに話を戻そう。箱舟は洪水の上、あちらからこちらへ、ぷかりぷかりと浮いていたが、メッカがある場所あたりに着くとそこで止まり、それから七日間、どこへも動かなくなった。それから箱舟は北へと向かい、イェルサレムのある場所まで進むと、アッラーのお告げがくだり、ノアはその場所にこそ「ベイト・エル=マクディス」、すなわち聖なる館が再び建てられ、多くの預言者たちと彼の子孫が住まうだろうと知らされた。洪水の後になって、箱舟によって救われた男女が再び子孫を産み育て始めると、族長となったノアはその娘の許に残ることになった。彼の邪悪な妻(ワーイレー)はすでに死んでおり、娘が彼のために家事をしていたのである。 ある日、この娘に見合った相手があらわれた。ノアは彼が娘のためにふさわしい家を建てるなら、という条件をつけて娘を彼に嫁がせる約束をした。決められた期限までに迎えに戻ることを約束して、男は去って行った、期限を過ぎても、男が再びやって来ることはなかった。ノアは娘に、同じ条件の許に他の男を見つけてやろうと約束したが、彼もまた立ち去ってしまい、決められた期限までに戻ることはなかった。そこで三度めに、あらかじめ家も用意できている相手が現れたとき、ノアは間髪入れずにその場でこの結婚に同意した。ところが結婚した二人が立ち去ると、ほどなくして二番めの求婚者がやって来て自分の花嫁を要求した。

彼を失望させたくない一心で、族長は神の名を呼び助けを求めた。そして雌のロバを、自分の娘とよく似た少女に変身させ、期待で胸をふくらませている花婿に与えることでその場をしのいだ。彼ら二人が立ち去ると、今度は最初の求婚者がやってきて自分の花嫁を要求した。そこでノアは、今度は飼っていた雌犬を少女に変身させ、すっかり出遅れてやってきたこの男と結婚させた。それ以来、この世には三種類の女がいる。第一に、神を畏れ、夫に対しては真に助力者であるような女。第二に、馬鹿で怠惰でだらしがなく、叩き棒をもってしつける必要のある女。そして第三に、がみがみと口うるさく、注意しても説教しても鼻で笑い、自分の主人に対してさえも絶えず唸ったり噛みついたりする女である。

 


原注1. エノク。
原注2. Awwal sharmûteh kânet fi’d-dunyahより。
原注3. エレミヤ、エスドラス(エズラがギリシャ=ラテン語化した呼称)、またはベタニアのラザロを指す。この三聖人は、シリアの聖人学においては混同されている。
原注4. ヘルモン山。
原注5. コイレ・シリアに位置する広大な高原。
原注6. 現代では1「ドラーア」、または1「ピーク」は27インチ。