はじめに II. イスラム的背景について

『真理の天秤』
著 キャーティプ・チェレビー
訳と解説 G. L. ルイス

 

(2)イスラム的背景について

A. イスラムにおける shari’a シャリーア、聖法の科学は、 usul ならびに furu 、すなわち根と枝にかかる学問に分けられる。

(a)法の根は、合計すると四つになる。

(1)Qur’an コーラン。預言者ムハンマド(632没)に啓示された神の言葉。
(2)hadith ハディース、伝承。「教友」と呼ばれる預言者を知る人々が、口承で語り継いだ彼の言葉や行為。これによって確立された先例の総体が Sunna スンナ、「実践」である。スンナには、3つのカテゴリーがある。

(i)Sunnat al-gawl 預言者が命じた、と伝えられているもの。
(ii)Sunnat al-fil 預言者が行なった、と伝えられているもの。
(iii)Sunnat al-taqrir 預言者の知識をもって彼以外の誰かが言ったり、行なったりした/かつ預言者はそれを禁じなかった、と伝えられているもの。

ハディース集成のうち最も有名なのはブハーリー(870没)の Sahih サヒーフである。しかし口承の集成が文書化されて後においても、口伝こそが伝承の正しい伝え方であるという規則は残った。読むだけではなく耳で聞き、復唱し、その説明を受けるのが、伝承の正統な学び方である。p140(著者による結語)を参照。

(3)qiyas キヤース、類推。コーランはワインの飲用を禁じている。従って、その他の酩酊をもたらすものも禁じられていることはキヤースによって明白である。p55(五. たばこ)を参照。
(4)ijma イジュマー、合意。伝承に従った司法上の判断。「神はあなたがたを三つのものから保護したもう。あなたがたが完全に迷ってしまうことのないよう、預言者はあなたがたを呪詛しない。あなた方のうち真実を語る者を、詐欺師は打ち負かせない。そしてあなたがたが、全員一緒に間違った教義に陥ることは決してないだろう」。神学上、イジュマーは学者の領分であって、一般の人々に属するものではない。実際のところ、「学者たちのイジュマー」は、一般の人々の生活から排除しようもなく大部分を占める非イスラム的な、場合によっては異教的ですらある慣習を承認するのに用いられている。

(b)枝とは実定法の系統的運用にかかるものであり、いくつかのカテゴリーに分類されている。

B. イスラムの五柱。ムスリムの五つの義務とは、以下の通りである。

(1)生きている間に、少なくとも一度は shahada シャハーダ、信仰の告白を唱えること。「神の他に神はなく、ムハンマドは神の使徒なり」。
(2)一日に五回、礼拝すること。金曜の昼の礼拝はモスクに集合して行なわねばならないが、他の礼拝は自宅や、その他どこで行なっても問題はない。所定の文言を唱えるのに加え、多くの身体動作が含まれており、以下、礼拝というよりは、むしろ業務内容の説明をしているかのようになる。

一日に五回の礼拝は、一回につき二ないし四ラカー( raka 、所定の動作一式)からなる。最初は真っすぐに起立する。お辞儀をする。頭を挙げる。それから座り、「七つの仲間たちと共に」、つまり前頭部、両手、両膝、両足すべてを床につけて平伏する。これを再度行なう。それぞれの動作のタイミングについて、参加者たちは、礼拝の先導を務めるイマームに倣う。

金曜の礼拝時には、二つの説教が行なわれる。ひとつめはフトバ(khutba)と呼ばれる、多かれ少なかれ預言者への賛美と、その時々の統治者のための祈りとが入り交じった体裁の講話である。これはハティーブ(Khatib)によって行なわれる。その他に wa’z ワーッズがあり、これはワーイズ(注:私的に学問を修めた一種の語り部、説教師)が、自ら構成して語る説教である。

muezzin ムエッズィン(アラビア語で mu’adhdhin )がミナレットから発する礼拝の呼びかけを ezan エザーン(アラビア語で adhan )という。小さなモスクでは、これらの役割すべてをイマームが一人でこなす場合もある。大きなモスクではムエッズィンが複数名いる場合があり、典礼が執り行われている間も、イマームの発言に対する賛辞を返したりする。一般の会衆は、しかるべきところで amin アーミン(アーメンと同様である)と唱える他は沈黙している。

(3)喜捨。
(4)太陰暦九月のラマダーン月の間は、日中の断食を行なう。
(5)一生に一回、経済的・肉体的に可能であればメッカに巡礼する。

一部の法学者は上記の五つに Jihad ジハード、すなわちイスラム教の受け入れを拒否した異教徒たちに対する聖戦をつけ加える。しかしながら、それは共同体の責務であって個人のそれではなく、間違いなく成功する、と合理的に判断できる機会においてのみ実行されうる。

C. 行為は五つのカテゴリーに分類される。イスラム法は、あらゆる行為をこの五つのカテゴリーのうちどれかひとつに位置づける。

(1)義務:これを行なう者には報奨があり、これを無視する者は罰される。
(2)推奨:これを行なう者には報奨があるが、無視しても罰されることはない。
(3)許容:行なっても無視しても法的に違いはない。
(4)忌避:ただし罰されることはない。
(5)禁止:刑罰の対象。

D. スンナ派とシーア派。預言者亡き後、誰が彼の khalifa カリフ、後継者として礼拝の先導者(イマーム)、争いごとの仲裁者、そして軍の指揮者としての役割を担うかという問題をめぐって、イスラム教は大きく分裂した。神の使徒としての役割については、後を継げる者はいなかった。ムハンマドは最後の預言者であり、預言者たちの封印だったからである。

最初の四人のカリフ(と、就任した年)とは、アブー・バクル(632)、ウマル(634)、ウスマーン(644)、そしてアリー(656)である。当時においても十分に過ぎる騒擾と軋轢があったのだが、その後のイスラム世界における激動に悩み、苦しむ者たちにとり、振り返るとそれは黄金に輝く時代のようにも見えるらしい。そのようなわけでこの四名は Khulafa Rashudun 、「正しく導かれたカリフ」たちと呼ばれている。

661年、シリアの統治者ムアーウィヤがアリーからカリフ位を簒奪した。彼が創始したウマイヤ朝は、その後750年にアッバース朝に取って変わられるまで続いた。1258年、モンゴルのバグダード侵攻により、政治権力としてのカリフ制に終止符が打たれた。しかしその称号は、のちに最大の規模にふくれあがったムスリム共同体の、実質的な支配者であるオスマン朝のスルタンたちによって復活することになる。

だが当初よりカリフ制は、預言者のいとこであり娘婿であるアリーとその子孫にこそ属する権利である、と考えていた一派が存在していた。この一派が Shi’at Ali 「アリーの党」、いわゆるシーア派である。彼らはアリー以前または以降の、正統とされているカリフたちを簒奪者とみなしていたし、また今でもそうみなしている。これに対し、本当にムハンマドに従っているのは自分たちだけだ、と主張する大多数の伝統派がおり、彼らは Ahl al-Sunna 「スンナの民」、すなわちスンナ派を自称している。現在のシーア派は、イラクの人口の約半分と、ペルシャほぼ全域によって形成されている。

E. 四学派。コーランは法の諸規則としては整備されておらず、また日常生活のあらゆる偶発的事態への備えがあるわけでもない。そこでコーランに基づく完璧な法制度を構築するという課題に、非常に多くの学者たちが取り組んできた。彼らがめいめいに形成する集団がマズハブ、「学派( madhab 、複数形 madhahib )である。スンナ派の間では、解釈に関する四つの学派が14世紀の初期までには完成しており、お互いに夢中になって競い合っていた。以下はその学派の名称と創始者、そして優勢を占める地域である。

(1)ハナフィー学派:アブー・ハニーファ(767没)。トルコ、インド、パキスタン、アフガニスタン、ソ連邦。
(2)マーリキー学派:マーリク・イブン・アナス(795没)。上エジプト、スーダン、北アフリカ、西アフリカ。
(3)シャーフィーイー学派:シャーフィーイー(820没)。下エジプト、ヒジャーズ、アデン、インドネシア、マラヤ。
(4)ハンバリー学派:アフマド・イブン・ハンバル(855没)。サウジアラビア。

これらの学派はセクト(分派)ではない。各論の詳細が異なっているだけであり、神の意志の解釈としてはすべて同等かつ正統である。すべてのスンナ派は生まれると同時に四学派のうちどれかひとつに属しており、世代から世代へと受け継ぐことが合法とされている。

F. Ijtihad イジュティハードと、Mujtahid ムジュタヒド。前者は「努力する」という意味である。専門用語としては、コーランと伝承に基づいてすぐれた法学者が自ら判断を下し、それに従うことにより法の諸規則を全うすることを意味する。こうした学者がムジュタヒドと呼ばれる。四学派の創始者たちは、特定の学派の初期に関わった、という点で全員ムジュタヒドである。しかしながら、十世紀初めまでにはほぼあらゆる面における合意が整い、もはや未解決の問題はなくなったとの結論が下された。「イジュティハードの門は閉ざされた」。それ以降、新たな法を立ち上げる目的でコーランと伝承を参照することを許されたムスリムは一人としていない、ということになっている。自分の従う学派のムジュタヒドであった創始者を乗り越えることはできない。とはいえ、55p(五. たばこ)を参照されたい。

G. ウレマー、ムフティー、シェイヒュル・イスラム。語のうち最前者はアラビア語で知者、学者を意味する Ulama を英語風に記したものである。イスラム教には、聖職者や聖職の叙階は存在しない。過去のムジュタヒドたちが作り上げた法を解釈する特権を持つのは、宗教諸学の研鑽を積んだウレマーである。これが「ウレマーは、預言者たちの後継者である」という伝承の意味するところである。オスマン帝国におけるウレマーは、巨大な影響力と権力に密接に組織化されていた。理論上、スルタンの勅令や qanun 法律は聖法と一致していなければならず、それを証明するのがウレマーの仕事であった。彼らの賛同はいつでも得られて当然、と考えられていたわけではない。スルタンの望みが聖法に反していれば、勇敢なウレマーがそれを許さない、といったことも時には起こった。発議された法令は常に mufti ムフティー、法学者に提出され、彼らによって合法であるか否かの判断が下される。彼らの返答は fatwa フェトワ、勧告と呼ばれた。首都においてムフティーの長を務める者は、シェイヒュル・イスラム(イスラムの長老)の称号で呼ばれ、階級の頂点とみなされた。彼の直下には二人の qadi-i askar カザスケルと呼ばれる軍法官がおり、さらに彼らの配下にいるのが qadi カーディー、裁判官である。以下ムフティー、教師、その他の職業的学者などが連なっている。

H. 教団。ウレマーたちによる公的なイスラムに加えて、デルヴィーシュたちの教団によるスーフィズムが存在する。スーフィズムとは、イスラム教圏における禁欲的・神秘主義的運動である。その支持者たちは清貧を是として実践しているため、「貧者(ペルシャ語なら dervish デルヴィーシュ、アラビア語なら faqir ファキール)」と呼ばれている。彼らの宗教実践の柱として tawakkul タワックル、神に対する全面的な降伏と dhikr ズィクル、神の想起があり、後者は宗教的修行の形態を取っている。教団はそれぞれ独特のズィクルの手法を持っており、それはメヴレヴィー教団による荘厳な旋回舞踊からリファーイー教団による咆哮や果ては自傷まで、多岐に渡っている。現代のトルコでは、教団は非合法化されている。