著者による序言

『真理の天秤』
著 キャーティプ・チェレビー
訳と解説 G. L. ルイス

 

慈悲あまねく、慈愛ふかき神の名において。

神に称賛あれ。主は知性をもってその創造の証明とし、それにより、真偽を区別する手段としての啓示の法を強めた。奇跡的で並外れた報せと、完璧な知性と共に遣わされたムハンマドに、それから彼の家族と彼の教友たちに祝福と平安あれ、高名な学者たちが集まって、延々と議論を続けていられるくらいの間は。

創造以来、知性と伝統は二頭の競争馬のようなものだとと喧伝される一方で、賢者たちの間では、知性と伝統は一対の双子のようなものとして認められてきた。そしてその論理的証明とは、確実性の高みへの階段であり梯子である。これが疑問や推測といった事態における、あらゆる人間の言論とあらゆる物事の判断の土台となっている。一部の者は見え隠れに出没してささやく者1に誘惑され、証明を脇に置き、無知と愚かさから、故意に単なる憶測や推測を、証明に匹敵するものとして持ち出してくる。人より多くの質問を発することで、言い争いや無駄な偏見の病の犠牲となるのである。昔々の狂信的な戦争のように、これら馬鹿ものたちの無駄な論争はほぼ流血沙汰を招く。こうしたわけで、論争における諸問題に対する証明の方法を示すためにささやかながら文章をしたため、これに Mizan al-haqq fikhtiyar al-ahaqq  –– 『最も正しい真理を選ぶための真理の天秤』 –– の題名を与えた。これにより一般の人々も、論争や口論において何が問題点となっているのか、またそこから果実を得るにはどうすればよいかが分かるようになるかもしれない。

はじめに:合理的な科学の必要について。真理の後を追う探求者は、人間の知識の本源的な参照先とは、それが実在であるか非実在であるかに関わらず絶対的に不可知であることを理解せねばならない。知性は、そちらの方向へと続くものではない。

物質から完全に自由な存在についてであれば、その類いに属するものの研究は論理学と呼ばれる。それは無数に枝分かれしている。これを研究する者といえば哲学者か、教条的な神学者のどちらかである。

意識においては物質を不要とするが、外形上は物質を必要とするものについてであれば、その学問は数学と呼ばれる。この学問には四つの基礎分野がある。算術、天文学、地理学、そして音楽である。

知性においても外形においても絶対的に物質を必要とするものであれば、その類いに属する学問は自然科学と呼ばれる。これもまた、無数に枝分かれしている。2

あらゆる純理論的かつ合理的科学はこれらのうちどれかひとつ、あるいはこれらから枝分かれした分野に属している。その研究方法は思索と推論である。思索の誤りを避けるために、人は仮説と推論の規則を考案し、それを実験の科学、あるいは論理の科学と名付けた。これが科学における天秤であり試金石である。偉大な学者であるサイイド・シャリーフ・アル=ジュルジャーニー3は、学問を身につけたどの学者の知識であろうとも、この天秤と試金石による試験に基づかないようであれば、誰にも尊重されないし根拠とされることはないだろうと述べている。それゆえ真実の後を追う探求者たちのほとんどが、これを必須と心得ている。論理の科学はそれ自体の目的追求のために存在するのではなく、手段であり知識を得るための道具であり、創造以来のあらゆる民族と国家における本質、真理、正確な科学の主軸である。

ここで言及している真理とは、事物の科学である。これらの科学が扱う課題は、啓示された書物と神聖な宗教諸科学において言及されている主題にも沿っており、ほとんどの場合一致しているが、しかし多数の例において、それらの間には相違も存在する。そのためキリスト教徒の共同体は哲学を拒絶した。ひきかえムスリムは哲学への解答を、いわく言いがたい玄妙さをもって構築し、公然と拒絶することはしなかった。4この件については、それを学んできた者には分かるだろう。

さて神聖な宗教諸科学についてだが、現代においてはこれがイスラム学習の目的であり、それは二つに分類される。ひとつは学ぶことそれ自体が目的であるもの、もうひとつは学ぶことそれ自体が目的であるものを学ぶ手段として学ぶものである。後者をアラブ諸学、訓練的学習、付随的学習と呼ぶ。何故ならこれらは、それを学ぶこと自体は目的ではないからである。これらから得られるものとは直接的には学習の規律であり、間接的には自己の鍛錬である。これらはアラビア語の表現方法を扱う。ものの本にある通り、それらが合計で十二あることは周知の通りである。5

学ぶことそれ自体が目的である諸科学は、扱われる主題ゆえにその他とは区別される。神の言葉を主題とする学問とは、コーランの解釈ならびに多様な朗誦法の、枝分かれしたものも含めた科学である。神の使徒(神よ、彼を祝福し平安を与えたまえ)の言葉を主題とするものは、枝分かれしたものも含めて伝承の科学と呼ばれる。これら二つから生じたもの、これらの主題と関連があるもの、あるいは単に教条に関連するものであれば、それは kalam (スコラ的神学)の科学である。のちの学者たちは哲学的課題とこの学問をごちゃ混ぜにした。偉大なるサアドッディーンが Maqasid の解説において述べている通り、そうすることにより「多くの著述家が困難からの逃避を得た」のである。6

単に教条のみならず実践にも関わりのある科学であれば、それは usul wa-furu (法学)であり、誘発と抑止に関連する諸科学である。すでに言及した通り、知的かつ哲学的な諸学問は、これらの諸科学に巻き込まれた態になった。従ってこれらにも多少なりとも手をつけない限り、それらの方面でも熟達した者にはなれないのである。

さてここで、人々の間で非常に一般的となっている科学否定の核心に迫ろう。

イスラムの創始期において教友たちは、預言者から受け取りかつ伝えられた啓典とスンナに専念し、完全に信仰の規則に基づくものでない限り、その他の科学の探求は認めなかった。禁じるにあたって彼らは、最大級の厳格さを示した。ウマルに至ってはカイロとアレキサンドリア侵攻時に、何千冊ものギリシャ語の書籍を焼き払った7ほどであるが、そうでもしなければ人々は神の書と、神の預言者のスンナの暗記を怠り、信仰がしっかりと根づかない。第一の世代は公共の利益を、そのように見ていたのである。教友として知られ、またムジュタヒドでもあった第二、第三の世代は、受け継がれた伝承を成文化した。彼らは根と枝に基づき、法的根拠と共に聖なる法令を導き出した。彼らはそれを書きとめて明文化した。イスラム諸科学が体系化され、保護され、考えられるあらゆる腐敗からも安全となった時、ムスリムの長たちは、まさにこれこそが第一の世代による禁止令の目的であったことを理解したのである。危険が取り除かれた以上、この目的はもはや有効ではなくなった。ウマイヤ朝やアッバース朝時代においては、物事の真実を知るための科学はムスリムにとって重要である、という見方が一般的であった。それゆえ彼らは古代の人々の書物を、アラビア語に翻訳したのである。

いつの時代においても、もって生まれた堅実な判断力と実直な意識を持つ者たちが、それらを読んだり学んだりという穴に陥ることはなかった。いつの時代においても、自らの生涯を哲学と聖法の両方に捧げた学者の著作は広く知れ渡り、尊敬を集め、そして学ばれた。偉大な神学者であり学者であるイマーム・ガッザーリー、イマーム・ファフルッディーン・ラーズィー、碩学アドゥドゥッディーンとその弟子たち、カーディー・バイダーウィー、博学シーラーズィー、それからクトゥブッディーン・ラーズィーとサアドッディーン・タフタザーニー、それからサイイド・シャリフ・ジュルジャーニーと彼らの優れた弟子ジャラール・ダッワーニー、そして彼らの弟子たちは学問と研究の高みに到達し、また自らをひとつの分野の知識のみに限定することはしなかった。8

しかし多くの知的でない人々は、かつて一度だけ諸科学の伝達が禁止されたことをもって岩のごとく不動となり、凍りついたように故事の模倣にとどまった。物事の真実を熟慮も考慮もせず、新たな科学を拒絶し、否認したのである。彼らはずっと無学のまま、学問を修めた者を通り過ぎ、「哲学的諸科学」と呼んでこれらを軽んじることを好み、それでいて地上についても天上についても何ひとつ知らない。「彼らは天地の王国に注目し、神が造りたもうたものを見たことがないのか(コーラン7章184節)」という警句も、彼らには何の印象も与えない。彼らは地上の世界や天空を「見る」ということを、牛か何かが外をじっと見ているのと同じことのように考えているのである。

オスマン帝国の最初期から、今は楽園に住まう故スルタン・スレイマン9の時代にいたるまで、聖法の諸科学と哲学のそれとを融合させた学者は高い名声を勝ち得たものである。

征服王スルタン・メフメト10は八つの大学を建立し、彼の waqfiya にはこのように記した。「 qanun に従い、なすべき仕事をなせ」。それから Tajrid の解釈書と Mawaqif の注釈書の講義を行なうよう命じたが、後の世代はそれらの講義を「哲学的」との理由で中止してしまい、彼らがよりふさわしいと考える Hidaya wa Akmal の講義が行なうようになった。11しかしこのような禁止令は全く合理的ではなく、かえって哲学も Hidaya wa Akmal も共倒れとなり、何ひとつ残らなかったのである。そのためルーム(トルコ)の学問市場はすっかり冷え込んでしまい、学者たちのほとんどが姿を消してしまった。すると少しばかり遠方の、クルドの土地のあちらこちらで「 qanun に従い、」なすべき仕事をなしていた学者たちが、ルームに上洛して一大旋風を巻き起こした。彼らを見て、一部の有能な者たちが哲学の徒となった。いち学徒として、このささやかな書の慎ましき著者たる私も、物事の真実に関する知識の獲得にあたっては、議論と勉学の間にも、かつてプラトンがソクラテスに鼓舞されたのと同じように才知ある人々に励まされてきた。

本書において私は、すべての人々に対する助言と勧告として、いくつかの主題に言及して述べている。それにより、到達した先にたとえどのような絶対的知識が待ち構えていようとも、それを得るためならば可能な限りの努力が払われるようになるかもしれない。その必要性は、何がしかの折りにでも確実に理解されるだろう。学ぶことには何の害もない。人々にそれを、非難させたり否認させたりしてはならない。何故ならそれは、学ぶことからの離反と剥奪に至るからである。

第一の話題。幾何学者のムフティーと、そうではないムフティーのフェトワについて。長さ、幅、深さ四キュビットの井戸を掘るのに、ある男が別の男を八アスパーで雇った。男は長さ、幅、深さ二キュビットの井戸を掘り四アスパーを要求した。彼らはフェトワを申請した。数学を知るムフティーは以下のフェトワを返した。「与えられるべき支払いは一アスパーである」。そしてこれは正しい。何故なら一辺が二キュビットの井戸は、最初に注文された井戸の八分の一だからである。

第二の話題。幾何学者のカーディーと、幾何学を知らないカーディーの判断。ある男が一辺百キュビットの土地を売った。だが引き渡す際には代わりに一辺五十キュビットの土地を二つ与えた。互いに口論となったため、彼らは幾何学を知らないカーディーの許へ行った。彼の評決は以下の通りであった。「与えられるべきものは与えられている」。その後、幾何学者のカーディーを見つけたので彼の評決を伺った。「それは与えられるべきものの半分である」。そしてこれは正しい。誰であれ、これに関する原則を学びたいと思う者におすすめの学問は数学である。

第三の話題。賢者バイダーウィーは、コーランの章句「そして、月もある。われらは(月に)数々の宿を定めた(コーラン36章39節)」についての解説の中で、月の二十八の宿について説明した後に「毎晩、月はそのうちのどれかひとつを宿として滞在する。どれかを外したり、短めに切り上げたりはしない」と記している。もしも月がすべての宿に、同じ時刻に到着するのであればこれは正しい。しかし実際はそうではない。時として、月は深夜にひとつの宿から次の宿へと移動する。全ての宿には約十三度づつ一定の間隔がある。だが月は毎晩、ある夜は十一度、またある夜は十五度といった具合に移動するのである。誰であれ、これに関する原則を学びたいと思う者におすすめの学問は占星術と天文学である。

これとは別に、「アレキサンダーの城壁」問題、というのがある。バイダーウィーの「ふたつの障壁の間(コーラン18章92節)」の解説では、これはおそらくタブリーズ地方のアルメニアとアゼルバイジャンの間に位置する山脈であるとされている。これは事実に則していない。誰であれ、これを確かめる知識を得たいと思う者におすすめの学問は地理の科学である。

第四の話題。数学の勉強にいそしんでいた頃、私の心に三つの質問が浮かんだ。これは法に関わる問題であると考えた私は、当時のシェイヒュル・イスラムであるバハーイー・エフェンディ12にフェトワを求めた。回答はなかった。私がこの問題の解説を含む小論を執筆した後になって、彼はようやく三つのうちひとつについて回答を寄越してきた。それはシェイヒュル・イスラム自身が手書きし、上長であるシェイフザーデ・エフェンディに提出され、公的な審理を経てフェトワとして発令されたものである。一読して、狂気の沙汰と言うもすさまじいしろものであった。そこで私は一字一句を正確に書き起こして「解説の訂正」という見出しをつけ、小論に追加してやることにした。望む者あれば拙著を手に取られたい。質問は以下の通りである。

(1)西に太陽が昇ることと、天文学の規則との間に一致の見込みはあるか。13
(2)六ヶ月の昼と六ヶ月の夜がある土地では、人はいかにして日に五回の礼拝と断食を行なえるか。
(3)四方向のいずれもがキブラである場所が、メッカの他に存在するか。14

思索の道において、憶測と不確実性にまみれて誤りに導かれたロバとして終わりを迎えないためにも、能力を与えられた人間として抽象的思考をみがき、数学を理解するためのできる限りの努力をしなくてはならないことがお分かり頂けるはずである。

注意。以下、事実を述べておく。どのような話題であれ、議論や意見の相違が一度でも人々の間に起これば、たとえその後に合意に達したとしても、起こった議論と意見の相違は二度と消し去ることはできない。戦士が一人の力でもって、一方の側を沈黙させて征服したとしても、沈黙は長くは続かない。逃亡し、自分たちの道の方へ逃れるだけのことである。さて本書の目的は仮説の立て方、議論の進め方の実際を示し、能力のある人には試問を提供することにある。その他については、「大衆はロバである」。誰が彼らの議論だの口論だのを気にかけるだろうか。

アダムの時代以来、人類は分裂してきた、という点も認知されるべきである。あらゆる分派には彼らなりの信条と彼らなりの方法があり、他の分派からすればそれは敵対的に見えることもある。「すべての党派は自らをことほぐ(コーラン23章55節)」と、全能の神が告げた通りである。誰もが自分のやり方を好む。他のどれよりも、自分たちのやり方の方を好むのである。しかしそうは言っても、中には知的な者もいる。これらの相違の隠れた目的について彼らは沈思黙考し、やがてそこに多くの利点が潜んでいたことを見いだす。そうなれば彼らは、他の誰かの信条や方法に干渉したり、攻撃したりすることもなくなる。自分の宗教に照らして、それが間違っているように思えるなら、自分がそれに手を染めなければ良い。彼らは黙って心の中で否認し、それで満足するだろう。それ以外の人々は、たわ言をまき散らす馬鹿どもである。彼らは相違の隠れた目的を理解せず、すべての人間がひとつの信条と行動規範を共有するべきだという不合理な概念にしがみついている。宗教の問題についてのいわれなき論戦は禁じられているにも関わらず、干渉と攻撃の罠に落ちた者たちは、ものごとを荒立てずにはいられない。もちろん、何ごともなかったようにはならない。彼らは自分で自分の首を絞めているだけである。

さて、人間にとり必要不可欠である文明と社会の目的それ自体が、目の見える者に対して知識を得ること、様々な人間どうしの相違への理解を深めること、またあらゆる地域の国家や状態を知ることを要求している。都市の人々のあらゆる階層における習慣と流儀を知ったならばその後は、地上における居住可能な地域とその住民たちについて、また彼らの状態について概略を知る努力をするべきである。そののちに、文明の隠れた目的が徐々に明らかになるだろう。ある種の議論や論争に明け暮れる者たちが、蜘蛛の巣に捕えられた蠅と同じくらい弱く無力であることが、次第に知れるようになるだろう。

 


1. 「見え隠れに出没してささやく者」とは悪魔を指す。このフレーズはコーラン114章からの引用である。「言え、『私はお加護を求める、人間の主に、人間の王、人間の神に、見え隠れに出没してささやく者の悪からのがれて。人間の心にささやく者、ジンでも人間でも』」。

2. こうした科学の三層の区分については、フワーリズミー著 Mafatih al-Ulum(A.D.980頃、G. van Vloten, Leyden編纂、1895)p.132とも比較せよ。「純理論的な科学は、三つの部分に分けられる。一つは実体と物質を所有するものについて調べる科学であり、これは『自然科学』と呼ばれる。もう一つは実体と物質の埒外にあるものについて調べる科学であり、これは『神学』、またはギリシャ語で『テオロギア』と呼ばれる。そしてもう一つは、物質を所有するものについてではなく、物質それ自体に存在するもの、すなわち計測、形態、動作、等々などを調べる科学で、これは『数学』と呼ばれる」。

3. アリー・イブン・ムハンマド・アル=ジュルジャーニー(1339-1413)は、とりわけ文法、論理学、そして kalam(次項参照)の分野で著名な執筆家。イージーによる Mawaqif への注釈が良く知られている(注8参照)。Sayyid(サイイド)、Sharif(シャリフ)といった彼に対する敬称は、その祖先がハサン、フセインを含む預言者の子孫であることを尊崇をもって示すものである。

4. ごくふつうのムスリムにとり、falsafa すなわち「哲学」は自由思想を連想させるものである。これに対し、ムスリムが構築した「解答」が kalam すなわち「神学」であり、その専門家は mutakallim と呼ばれる。

5. 科学の分類については、J. Heyworth-Dunne著 An Introduction to the History of Education in Modern Egypt(Luzac, 1938), pp. 41-2, 78参照。

6. サアドッディーン・マスード・イブン・ウマル・アル=タフタザーニー(1322-89)は法学、伝承、文法、論理学、そして kalam に関する著作を執筆した。kalam の指南書である自著 Maqasid の注釈も自ら執筆している。

7. 西暦646年、ウマルがカリフ位にあった時代になってアレキサンドリアはようやく征服された。焚書云々は後代のフィクションであるが、それを本書の著者が注釈なしにそのまま引いているのは意外なことではある。

8. 最も偉大なムスリム神学者であり、正統派言説の範疇にスーフィーたちの神秘経験を組み込んだガッザーリー(1059-1111)については、彼の著作 Ihya ulum al-din(『宗教諸学の再興』)の概略を分析したA. J. アーベリー著 Sufism(Ethical and Religious Classics of East and West, 1950)の、特にpp. 79-83を参照。包括的な分析であれば、G. H. ブーケ著 Ih’ya Ouloum ed-Din: Analyse et index(Paris, 1955)参照。

ファフルッディーン・ムハンマド・イブン・ウマル・アル=ラーズィー(1149-1209)は著名なコーラン解釈書の著者であり、神秘主義と kalam に関する多数の著作を遺した。

アドゥドゥッディーン・アブドゥル=ラフマーン・イブン・アフマド(1355没)は、kalam に関する書 Mawaqif の著者。

シーラーズのナスィールッディーン・アブー・サイード・アブドゥッラー・イブン・ウマル・アル=バイダーウィー(1286没?)は、最も有名なコーラン解釈書 Anwar al-tanzir の著者であり、文法、法学、kalam に関する著作でも知られている。

クトゥブッディーン・マフムード・イブン・マスード・アル=シーラーズィー(1236-1311)は医者、天文学者、哲学者であり、伝承の収集家でもあった。

クトゥブッディーン・ムハンマド・イブン・ムハンマド・アル=ラーズィー・アル=タフターニー(1295-1364)は、未完となったコーラン解釈書の他に kalam 、法学、論理学に関する複数の著作を執筆した。

ジャラールッディーン・ムハンマド・イブン・アスアド・アル=ダッワーニー・アル=スィッディーキー(1427-1501)は、ファールスのカーディーを務めた人物で、教義学、神秘主義、そして哲学に関する著作を遺している。

9. スルタン・スレイマン・カーヌーニー、スレイマン一世。 qanun(法典)を整備したことから「カーヌーニー(立法者)」、また英語圏では「壮麗者ソリマン」とも呼ばれる。在位1520-1533年。

10. スルタン・メフメト二世(在位1451-81年)。コンスタンティノポリの征服者であり、自らのモスク敷地内に Medaris-i Semaniye(八つの学舎)を設立してこれを後援し、その運営に関する qanun(規則)を制定した。また waqfiya とは、waqf(ワクフ)と呼ばれる宗教目的での永久的寄贈、寄進を確証する文書を指す。

Tajrid al-kalam は、シーア派の政治家で哲学者、数学者、天文学者、ナスィルッディーン・ムハンマド・イブン・ムハンマド・アル=トゥーシー(1201-74)による著名な教理書。バグダードのモンゴル征服者フラグは、彼のためにアゼルバイジャンのマラガに天文台を建立した。彼の著書 Tajrid に関しては、数多くの解説が書かれた。ここで言及されている「 Tajrid の解釈書」とは、Mawaqifの注釈書と同様、ジュルジャーニーのそれを指している。

11. Hidaya とは、フェルガーナ出身のブルハーヌッディーン・アリー・イブン・アビー・バクル・アル=マルギーナーニー(1197没)によるハナフィー学派の標準的な指南書である。また Akmal al-atwal とは、サマルカンド出身のナジュムッディーン・ウマル・イブン・ムハンマド・アル=ナサフィー(1069-1142)によるコーラン注釈書。

12. バハーイー・メフメド・エフェンディ(1004/1595-6生)は、1649-1651年にシェイヒュル=イスラムを勤め、その後1652年から1654年に死没するまで再び同職を勤めた人物。

13. 西方からの日の出は、「時」、すなわち審判の日の前兆であると信じられている。A. J. Wensinck著 The Muslim Creed (Cambridge, 1932), p. 197参照。「……太陽の、それが沈む方角からの上昇は……その他の終末論と同様、正統派の伝承においても(審判の日に)現実として生起する兆候とされる」。(Fiqh akbar 2巻、29章の一部。第八章の注6を参照。)

14. qibra (キブラ)とはムスリムが礼拝の際に向かう方向であり、メッカ神殿のカアバの方角を指している。