八. 預言者の両親について

『真理の天秤』
著 キャーティプ・チェレビー
訳と解説 G. L. ルイス

 

八. 預言者の両親について

この話題を本書に含めることにしたのは、これも議論百出の、戦場のひとつだからである。

注意。一部の、不運にも知性に欠ける者たちは、こうした議論は預言者を軽視し彼の栄誉を損ねるものであり許されない、と考える。批判を免除されるのは預言者の特権であるが、彼らはこれを彼の家族にまで拡大し、そしてこの誤りゆえに議論の扉を閉ざしたがる。彼らは問題を正確に討論するに足る十分な知識を得ておらず、単なる雑談、おしゃべり以上のことは望めない。危険な話題というのは存在する。創造主の本質、属性、行為に関わるものなどだが、それに比べればこれなど全く影の薄い、取るに足らないものである。偉大なる学者サアドッディーン・タフタザーニーは、ナサーフィーの著 Aqa’id の注釈において、コーランの章句「もし神以外に天地のあいだに神々があるとすれば、天地は崩壊するであろう。それゆえ、彼らの述べているようなものとはかけ離れた玉座の主なる神を讃えよ(21章22節)」は神の唯一性の決定的な証明であると書いて名声を博した。だが当時の偏狭な専門家たちは、それは証明として決定的ではないと断言した。神の唯一性の決定的な証明が存在しないとなると、今度は皆が皆そろって彼に襲いかかり、彼を不信仰者呼ばわりした。1彼は多くの説得力ある議論をもって彼らを黙らせた。

いつの時代も、戦士たちは剣と槍をもって互いに戦った。それと同じで、論争や思索の主唱者たちも絶えず筆と舌をもって戦っている。これこれのたぐいの問題を議論するのは許されない、などと考える者は小心者の馬鹿であるから議論に干渉すべきではない。厳しい議論の場においては、こうした輩は足下に踏みつぶされる。

さて本題に入ろう。かの地上の栄光(神よ、彼を祝福し平安を与えたまえ)はアレクサンダー暦八八一年、キリスト歴五七八年に誕生した。彼の父アブドゥッラー・イブン・アブドゥル=ムッタリブは、カラヴァンと共にメッカからガザに行き、その帰路、メディナもしくはアル・アブワ2で死没した。アブドゥッラーの死の日付については諸説ある。歴史家は、彼は息子の誕生した年に、しかし息子を目にすることなく亡くなったとしている。その他の説は、預言者の生後二ヶ月からに十ヶ月の間に亡くなったとしている。一人だけ、彼が亡くなったのは預言者が二歳の時のことだとしている。

預言者の母はアーミナといい、ワフブ・イブン・アブド・マナーフの娘である。夫に先立たれた後、預言者が四歳または六歳になる頃にアル・アブワでこの世を去った。彼らが生きていたのは jahiliya ジャーヒリーヤ、すなわち土着的な無知のはびこる時代であり、同時に預言者不在の fatra ファトゥラ3、預言者と預言者の合間の小休止と呼ばれる時代であった。

最も高貴な預言者が、その務めを授かったのは四十歳の時のことである。彼が召喚を受けてから逝去するまで、最も少なく見積もっておよそ二十年になる。

ものごとの多くには、満場一致で申し分のない伝統が築かれている。それ以外について以下、論争における主だった要点を質疑応答の形式で延べよう。

問. 預言者の両親や子孫なら、絶対に信仰者と決まっているのか。
答. アブラハムの父であり、歴史上ではテラとも呼ばれたアーザルや、ノアの息子カナーンは信仰者ではなかった。こうした事実とは全く別に、コーランに記され明らかに示されていることであるが、預言者たちの両親や子孫は必ずや信仰者である、と断言する者は誰であれ、預言者には何が許されており、また何が義務であり、そして何が不可能であるか、自らの無知をさらけ出しているのである。もしもこれらを分かった上での主張なら、ただの論争好きである。何を言い何を行なおうが、最後にはこの言葉「死者から生者を出し、生者から死者を出すのは誰か(コーラン10章32節、30章18節)」、これがここでも当てはまる。これは主の全能と、完全な知恵を示している。預言者性とは完全に神からの贈り物であり、生まれや育ちとは関係がない、という点に疑いを差しはさむ余地はない。それは強烈な恩寵である。それに比べて、反対の意見をとる者たちが想像する「恩寵」など全く重要ではない。

問. 預言者の時代の合間に生まれ、預言者がその務めを始める前に死んだ人々はどのような状態にあるのか。
答. これについて、イマームたちの見解は一致していない。アシュアリー神学者4とシャーフィイー法学者は、「われらはあらかじめ使徒を遣わさないかぎり、けっして懲罰を下すことはない(コーラン17章16節)」との言葉を証拠に、彼らは許されており、罰せられることもない、と述べている。マートゥリーディー神学者5とハナフィー法学者は、彼らは業苦の中にいる、と述べる。彼らには、創造主の唯一性を観察し演繹することもできたはずだが、それを怠った、というのがその理由である。一部の解説者によれば、人々のうち何種類かは審判の日に赦しを請い、そして彼らの弁解は神に受け入れられるという。「弁解を受け入れてくれるのは神か、心やさしい者のどちらかだ」と、昔から言われている通りである。祝福された者と、そうでない者を分別する試練が課される。すなわち、めいめい自分の魂を持って、地獄へ行くように命ぜられるのである。祝福された者たちも同様だが、しかし彼らはためらいながらも救済を求める。ところが地獄へ落ちる者たちというのは、勇気を出して自ら前に進もうとはしない。こうして彼らの反抗と不服従が確証され、彼らは地獄に集められる。

問. Fiqh akbar6 は最も偉大なイマームであるアブー・ハニーファの著書ではないのか。
答. イマームの足許でじかに学んだ人々の伝えるところによれば、その通りである。 Tabaqat Hanafiya 7には、一九九年(814-5年)に死没したバルフのアブー・ムーティーが、師である最も偉大なイマームから聞いたことを書きとめたのが Fiqh akbar の書である、とはっきり述べられている。私は自著 Taqwimal-tawarikh 8の初版に、バルフのアブー・ムーティーが Fiqh akbar の著者である、と誤って書いてしまった。その後、私は「著者」を「編者」に修正したが、私の最初の写本は相当に広く読まれた。すると同じ町に住む説教師の一人がやって来て、本題に関する見解ゆえに、 Fiqh akbar の信ぴょう性を貶めたがっている偏屈者たちの手にわが書が渡り、彼らの強力な武器になっていたことを指摘し、修正するよう私に懇願してきたのである。そこで私はアブー・ムーティーは編者であることを最初の写本に書き加え、説教師にそれを贈呈した。

書物を通じて知る者たちとは別に、学びを得ている人々は、昔も今もアブー・ハニーファの著作として Fiqh akbar に言及している。彼らは道に従う善良な者たちの手本であり、中でもとりわけ、九五八年(1549年)に亡くなったシェイフ・ムハンマド・イブン・バハーウッディーンは、三十年の隠遁と崇拝ののち、イスラムの教義に対する関心をよみがえらせようと Fiqh akbar の解説を書く準備をしていた。彼は私のいとこで、ビルギリ・メフメト・エフェンディの父にあたるピール・アリー・エフェンディに助言を求め、彼と相談し合い、彼の賛同と励ましを得て注釈書を執筆したが、その書は今もなお学識者の間で用いられ、好評を得ている。

Fiqh akbar はアブー・ハニーファの著作ではない、との申し立ては虚偽であり、狂信の産物であり、根拠なき単純な否定でしかない。この説を支持しようと、ある種の漠然とした想像力に富む考えを述べる者たちがいるが、しかしこれは非の打ちどころなき目撃者たちの談とは相反する言明であって、明らかに却下されるものである。

問. Fiqh akbar において、アブー・ハニーファは「預言者の両親は不信仰者として死んだ」9、と言わなかったか。
答. シェイフ・バハーウッディーンザーデ10によれば、この項が信仰に関する章の中に含められた理由は、一部の人々が、預言者の両親が不信仰者であったことを極端に否定するようになったためである。この否定は明らかに信仰の原則に反しているため、アブー・ハニーファはイスラムの教義の中に、特にこの項を設けて Fiqh akbar に収録した。預言者の両親には行き過ぎた尊崇を示しておきながら、信仰の原則にはほとんど示そうともしない人々の誤りを立証するのがその目的である。イマーム・ファフルッディーン・アル=ラーズィーは、その偉大なるコーラン注釈書の中で、この過剰な尊崇は、過去にシーア派ラーフィディーの徒たちが、預言者無謬説を説き始めたのと、ちょうど時を同じくして広まったのが始まりである、と述べている。その後に、一部のスンナ派たちがこれを模倣した。11

問. 何を基準として不信仰と判断されるのか。
答. 信仰と不信仰はふたつながら内面のものであり、神の他にそれを知る者は誰ひとりとしていない。外面の特定の兆候から推論されることもあるにせよ、しかしその兆候も事実とは異なる場合もあり得る。たとえば外面の兆候が信頼を得れば、偽善者が真の信仰者と見なされるかもしれない。そうしたわけで誰かが死んだとき、信仰者として死んだのかあるいは不信仰者として死んだのか、その人についての明白な啓典の記述があるのでもない限り、確かなことは何も言えないのである。もしも信仰者が悪の状態に悩んでいたなら、不信仰者として死ぬかもしれないし、その一方では不信仰者が、良い結末を勝ち得ているかもしれない。ほんものの信仰も不信仰も、それは心に書かれていることである。法の定義においては、しかしながら外面の兆候は考慮に入れられる。外面の兆候が信仰を示すものであれば、信仰が推定され彼は信仰者と見なされる。不信仰を示すものであれば、不信仰が推定され彼は不信仰者と見なされる。そうしたわけで信仰と不信仰とは、ほんものの場合もあれば単なる推定の場合もあり、しかもそれらは遠く離れた両極に位置しているのである。預言者の両親に関する問いは、推定に基づいて発されたものである。真実に到達するには啓典の決定的な文言が必要だが、それに相当する文言はない。この主張は、バハーウッディーンザーデによるものである。

エジプトの偉大な学者であり、その時代に並ぶ者はいなかったシェイフ・マクディースィーが、その論の中でこう述べている。『偶像崇拝者が地獄の住人となることが明らかになった以上、預言者も信仰者も、たとえ近しい親戚の者であっても、これらのために赦しを乞うことなど、けっしてあるべきではない(コーラン9章114節)』という章句の啓示が示す状態について、解釈者たちは二つの異なる説を述べている。ひとつめは、イブン・アッバース12を権威とした注釈者や伝承主義者たちが形成する大集団による説で、これは預言者の両親についての章句であるとしている。これは一般に広く認められた伝統の域に達しており、そのためファフルッディーン・ラーズィーやその他の学者たちにも好まれている。幾人かは、これのみが啓示の意図するところである、とまで述べている。ふたつめの説によれば、これはアブー・ターリブに関連づけられる啓示である。博識者ジャールッラー13やその他の人々はこの説明を退けているが、「東と西のシェイフ」と呼ばれたシェイフ・アブドゥルカディール・ジュルジャーニーは、これをひとつめと融合させている。彼が言うには、もしも信頼に足る権威の伝承に相違があったなら、できる限り和解させねばならない。その章句が一個人についての啓示であるかもしれないにしても、総意としては広く一般にも当てはまるものであるとする。

「あまねく世界に向けての警告の域に達しているものを、あえて個別具体的なものに限定する必要はない。更に『偶像崇拝者』『近しい親戚』といった語は普遍的なものであって、父や母、伯父やその他の近しい者もそこに含まれている」。

シェイフ・アリー・マグディースィー13aの判断は以下の通りである。誰であれ、「預言者の両親は信仰者であった」との伝承を真実と断言する者は、コーランの章句の真実の否定に陥らざるを得ない。全人類に適応されるという特徴はコーランの章句の有であり、伝承の有ではない。啓示の目的についてこの見解を認めるならば、上述の伝承には真実が欠けている。

Multaqa 14の著者やその他の人々も、これと意見を同じくしている。

問. 人はなぜこの話題について論争するのか。
答. イマーム・クルトゥービー著 Tadhkira15 には、これに関する無数の伝承が収録されている。伝承の事実確認には関心を払わない一部の伝承主義者たち、例えばスユーティー16などは、検証もせずにそれらを額面通りの真実として記録した。彼らの著書は単なる風聞と自分たちの先人への盲信に基づいており、批評的認知力の欠如があらわになっている。こうした著者の何人かは、自分が何を書いたり言ったりしているのか、考慮もしなければ耳も貸さない、偏見に満ちた狂信者である。彼らは誤りの道を選んだ。憶測の脇道に入り、正確さという地から遠ざかったのである。再び多くの人々が、預言者の両親を良く言うことは正しいことだと考えるようになった。関連する物語がひとつがふたつ造られたが、たとえばケマルパシャザーデ17のように真実の追及を試みようとするでもなし、社交儀礼に終始した何の役にも立たないものである。しかし一般的には、彼らの作品には立派な目的があると考えられている。

問. この話題について、最も優れておりかつ適切な見解とは何か。
答. 学びを得た少数の者、すなわちこの対立の起源を知り真実に到達する能力を持つ者であれば、自分で答えを導き出せる。その上で、何を選び取るかは、状況に応じて自分で決定するだろう。一般の信仰者たちには、無駄話を慎み、問題について議論するのを控えることが義務となる。ものごとを最良に考え、「預言者の両親が、信仰者であったなら良いのにと思います」、と、(それも薄弱な伝承が根拠であると承知して)言ったりすることである。無作法であってはならず、不信仰の非難を浴びせたりしてはいけない。そのような言葉は、もしも侮辱を意図してのことであれば –– 神よ、赦したまえ! –– 大罪である。ハンバリー学派のイマームであるイブン・クダマはその著書 Muqni 18において、もしも派閥主義をハワーリジュ19の反逆的教義と結びつける者があれば、預言者に対する中傷者として裁かれ処刑されることになろう、と述べている。

そうしたわけで、彼らにとって最も優れた方策とは、議論に干渉せず、そこから離れることである。

 


1. これと類似して、アフマド・イブン・ハンバルは、教義上のある特定の見解について、学問上の論敵が自分と同意見であると聞き、その人物は罪深い bid’a –– 「革新」 –– を犯していると断定した。伝統的権威に拠らず、理性に基づいて結論を導き出したから、というのがその理由である。

2. メッカとメディナの中ほどに位置する。

3. コーラン5章22(19)節。「あなたがた啓典の民よ、使徒たちが中断 [fatra] された後、わが使徒がやって来て、あなたがたに対し(事物の)解明をする。これはあなたがたに、「わたしたちには吉報の伝達者も警告者も来ない。」と言わせないためである。今、吉報を伝え警告を与える者が、正にあなたがたの処に来たのである。誠にアッラーは凡てのことに全能であられる」。

4. ムウタジラ派の合理主義の侵入から正統性を護持した神学者、アブゥル・ハサン・アリー・イブン・イスマイル・アル=アシュアリー(バグダード出身、935没)の門下生たち。アシュアリー神学は、スンニ派イスラムの神学として認知されている。

5. 最重要の正統派神学者、アブー・マンスール・アル=マートゥリーディー(サマルカンド出身、944没)の門下生たち。マートゥリーディーの教えるところは、本質的にはアシュアリーのそれと一致する。だが彼らの門下生たちの間には、いくつかの議論において分裂があった。

6. Fiqh akbar(『大法学』)とは、著名な教義学の書二冊に与えられた名称である。翻訳ならびに全注釈については、Wensinckを参照(序言の注13)。キャーティプ・チェレビーは、この二冊を混同するという、誰もが犯す過ちを犯した。Wensinckによれば、Fiqh akbar 1巻がアブー・ハニーファ本人の言に依拠しているのに対し、Fiqh akbar 2巻(キャーティプ・チェレビーが参照しているのはこの2巻である)の方は、アブー・ハニーファの没後およそ二世紀を経た頃のものであるという。

7. ハナフィー学派の導師たちの伝記は、同名のものが複数存在する。

8. 結語を参照。

9. Fiqh akbar II巻の一部、第27章はこれらの言葉をもって始まり、預言者の叔父アブー・ターリブの名もここに加えられる(Wensinck, pp. 197, 239-40)。しかしながら後のイスラム教は、この教義を拒絶するようになった。本章がイスタンブル版『真理の天秤』(1888-9)から削除されたのも、この理由によるものである。

10. バハーウッディーンザーデとは、既出のムハンマド・イブン・バハーウッディーンと同一である。ペルシャ語の接尾辞である zade ザーデは、「〇〇の息子」という意味で、これはアラビア語の ibn と同様である。

11. 預言者は、啓示を伝えるときを除いては、自分は聖なる直観を得たとも、あるいは日常生活において完璧であるとも決して主張することはなかった。しかしながら彼の支持者たちは、彼は罪無き状態にあり、また彼自身は決して欲しがりもしなかった奇跡を起こす力を有するとまで信じるようになっていった。

12. イブン・アッバースは預言者のいとこで、伝承の語り手として知られている。

13. ジャールッラー(「神の隣人」)とは、偉大な文法学者、コーラン解釈者のアブゥル・カーシム・マフムード・イブン・ウマル・アル=ザマフシャリー(1075-1144)。メッカに長く住んでいたことから、このあだ名で呼ばれた。

13a. この「アリー・マグディースィー」は、イブン・ガニム(1514-96、カイロ)の名で知られたハナフィーの神学者で文法学者を指している可能性がある。

14. Multaqa’ l-abhur –– 『大海の合流』 –– は、アレッポのイブラーヒーム・イブン・ムハンマド(1549没)によるハナフィー法学の概説書。

15. Tadhkira は、コルドバのシャムスッディーン・ムハンマド・イブン・アHマド・アル=アンダルースィー(671/1272-3没)による死と来世に関する伝承を集めた書。

16. ジャラールッディーン・アッ=スユーティー –– アスユートのジャラールッディーン(1445-1505) –– といえば、あらゆる分野にまたがり精力的に執筆した多産の文筆家であり、一般のムスリムたちの間では、本著者によるそれよりもはるかに高い評価を得ている。

17. 1526年から1534年にかけてシェイヒュル・イスラムを務めたケマルパシャザーデは、注目すべき詩人であり、多芸多才の学者でもあった。彼の頌詩作品は全部で三百近くにのぼり、「宗教諸学」の他にも歴史、文学、辞書学を修めていた。

18. ムワッフィクッディーン・アブドゥッラー・イブン・クダーマ(1223没)による Muqni は、ハンバリー学派の諸分野を網羅した書。

19. ハーリジー、ハワーリジュ派とは、もともとはカリフ・アリーを支持していたが、アリーがムアーウィヤとの争いを仲裁者の手に委ねることに同意したときに彼の許を立ち去った人々を指す。彼らには、アリーに反逆して武器を取ったムアーウィヤと妥協するのは、ムアーウィヤ同様の不信仰者の証しと考えたのである。以降、数世紀に渡りハワーリジュ派は、あらゆる既成の権力に対立して戦いを繰り広げた。