十一. ヤズィードの呪詛

『真理の天秤』
著 キャーティプ・チェレビー
訳と解説 G. L. ルイス

 

十一. ヤズィードの呪詛

これも所論行き交う戦場であるが、他の話題よりもはるかに古式ゆかしいものである。これはウマイヤ朝対アッバース朝の時代に大流行した話題であり、それからスンナ派の民対シーア派の民を経て、現代の今もなお生き残っている。その起源は以下の通りである。

世界の栄光(神よ、彼を祝福し平安を与えたまえ)の使命の一環として、イスラム国家が誕生した。信仰箇条としてなすべき事柄を実践すべく、彼は国家運営の基礎を固めて準備した。与えられた生涯のすべてに渡り、彼は預言者としての役割とスルタンとしてのそれを一身に引き受けた。彼の言葉「カリフ制は私の死後三十年は存続する」の通り、三十年の間は正しく導かれたカリフたちが信仰の箇条を実践した。カリフの時代が終わりを迎えるころ、「その後は王や暴君が現れる」という、これもまた彼の言葉通り、権力を指向する者たちが「力こそは正義なり」といった主義に従って動き始めた。利己心はむき出しとなり、表面的には宗教の論旨に関連づけられた様々な主義主張に固執する人々が現われ、そのためウスマーンとアリー(神よ、彼らの両方に御満悦あれ)の時代には、多くの争いや諍いが起こった。その勝者たちによってダマスカスに興ったのがウマイヤ朝である。ムスリムたちの間には相違が生じ、様々な派閥に分裂していった。ウマイヤ家とハーシム家の間で統治の権限をめぐる論争1が繰り広げられ、イマーム・ハサンは自らの主張を取り下げた。こうして権力がウマイヤ家の手に残されることになった。この構図はハーシム家の一族郎党には不快なものであり、これが彼らの苦い無念の根源となった。腹に据えかねた彼らはイマーム・フサイン(神よ、彼に御満悦あれ)に、メディナを去ってアラブ=イラクへ向かい、権力を掌握するよう説き伏せた。予測されていた通りの事態としてこれを察知したウマイヤ家とその支持者たちは、利用可能なあらゆる手段をもって防御の準備を整えた。ケルベラーの事変2が起こり、これによってイマーム・フセインとその支持者たちが命を落とした。六十一年(680年)の出来事である。当時、ダマスカスを統治していたのはムアーウィヤの息子ヤズィードであった。ハーシム家は深く悲しんだが、剣による報復など論外であって到底かなえられるものではない。そこで彼らは舌を用いた。ヤズィードとその支持者たちを口を極めて罵倒し、非難し、それによって煮えたぎる怒りをいやそうとしたのである。以来、今もなおシーア派の民の間では嘆き悲しんだり罵ったりすることが慣例となり、やがてそれがスンナ派の民の間にも徐々に広まるようになった。一三二年(750年)、ハーシム家の一族からアッバース家が興り、ウマイヤ朝は滅亡3した。これにより、中傷と呪詛がさらに増加した。多くのシーア派の民がラーフィディー4の分派に加わり、最初の二人のカリフであるアブー・バクルとウマルまでをも中傷し始めた(神よ、お許しあれ!)。アリーとアリーの子孫について、ハワーリジュの徒が彼らをあまりにも軽んじ過ぎていたのとほとんど同程度に、ラーフィディーの徒もまた、彼らをあまりにも重んじ過ぎていたのである。

アッバース朝の時代を通じて、この主題にまつわる多くの論争が、スンナ派とシーア派のウレマーの間で巻き起こっていた。イスラムの教義が書き起こされ、神学に関する書物が編纂されると、全ムスリムを束ねる預言者の教友たちに関し、スンナ派の教義は以下のように公式化された。「教友たちについて言及する際には、いついかなる場合も例外なく良い点について言及すること。彼らについては、悪しき言葉をもって語ってはならない。彼ら全員について熟考すること。彼らの間に起こった軋轢や争いについては、彼らは全員ムジュタヒドであったがゆえと捉えること。ムジュタヒドは誤りを犯しうる。もしも誤っていれば、報奨は一つである。もしも正しければ、報奨は二倍である。神の御目には、彼ら全員が称賛と報奨に値する。アリーとムアーウィヤについては、ムアーウィヤは彼個人の解釈を展開したが、それは誤りであったと言うべきである。正解はアリーの側にあった」。

ヤズィードについては、しかしながら全員の合意は存在しない。二十五年(645-6年)に誕生し、六十四年(683年)に死没しているヤズィードは教友の一人ではない。総じてシーア派ウレマーは、彼に対する古くからの敵意のため、彼を罵ることは合法であると宣言している。幾人かのスンナ派ウレマーがこれに続き、「ヤズィードは放蕩者であり不信仰者であった。彼が書いたいくつかの詩が、彼が異端であったことを示す証拠である」と述べている。こうしたウレマーの中には、五〇四年(1110-11年)にこの世を去ったシャーフィイーの法学者アブゥル・ハサン・アリー・イブン・ムハンマド・アル=キヤー・アル=ハッラースィーや、最近の学者ではサアドッディーン・タフタザーニーなど、他にも多くが含まれている。しかし大多数のスンナ派の民は、彼を罵ることが合法であるなどとは考えていない。

かのイマーム・ガッザーリーは、それは非合法であると断言して詳細なフェトワを発令し、そうした行為を禁じている。いわく、「それが異端者であろうと悪魔であろうと、誰かを罵る行為は避けるのが好ましい」。かのイマーム・スィラージュッディーン・アリー・ウスマーン・アル=ウーシー5も、宗教の原則を韻詩に託してしたためたその著書 Yaqul al-‘abd(『しもべかく語りき』)においてこう述べている。

「そしてその死後ヤズィードは、二度と呪詛されることはなかった」。

しかし彼の生前から、あたかもファラオに対してするようにヤズィードを悪人ととらえ、地獄に落ちる者として見なすこの俗習は、一般の人々の間に深く根づいている。彼の名前は、悪態と罵倒の常套句になっている。事の起こりにあった情熱は無視され、「アリーへの愛でもなければ、ムアーウィヤへの憎悪でもない」としか言いようのない、全くの偽りの表現が主流となり、多くの人々が呪詛の道に陥っている。彼らはガッザーリーの言葉の深奥を掴んでもおらず、Yaqul al-‘abd の警告にも注意を払わない。幾人かの野蛮な者などは、めいめいムアーウィヤを忌み嫌うあまり、青色6の服を身につけることさえも拒否するようになった。彼らとこの主題について議論するのは無意味である。なぜなら彼らを動機づけているのはうぬぼれた狂信や無知であり、他人への盲従に他ならないからである。悪意なき中庸の道を探し求める人ならば、スンナ派ウレマーの歩んだ道を選び、またかのイマーム・ガッザーリーのフェトワに従うだろう。千年に渡り勝ちまさってきたこの理解に同意し、無駄な愚行に耽ることはないだろう。

該当のフェトワはイブン・ハッリカーンの Wafayat7 に収録されている。アル=キヤー・アル=ハッラースィーの伝記の、アインの項に記述がある。

 


1. ハーシム一族とは、預言者とその従兄弟アリーの曽祖父ハーシムの末裔である。ハーシムはアッバース朝カリフの父祖アッバースの祖父でもあり、ムアーウィヤ一世の曽祖父ウマイヤはハーシムの甥にあたる。

2. ケルベラーはバグダードから南東へ55マイルの場所。ウマイヤ朝の軍勢が、フサインとその支持者からなる小隊を殲滅した地であり、シーア派世界においては最も聖なる地とされる。

3. 「滅亡」というのは誇張である。ウマイヤ家ただ一人の生存者、アブドゥッラハマーンはスペインへ逃亡し、その地で再び後ウマイヤ朝(コルドバ朝、756-1031)を築き上げている。

4. ラーフィディーとは、シーア派の異端的分派の呼称。アブー・バクルならびにウマルの追憶に対する中傷を拒絶した、フサインの孫ザイドの許を立ち去った一派を指す。ウスマーンが中傷されずに済んでいるのは、ひとえに(アリーの黙認もあって)暗殺の最期を遂げているからである。スンナ派は、しばしばラーフィディーの語をもってシーア派全体を指すことがある。

5. アル=ウーシーはハナフィーの法律家。フェルガナに住んだ。575/1179-80没。

6. 青色に対する抗議というのは、おそらく、トルコ語での色名称 mavi が、カリフの名のトルコ式の発音 Muaviye に通ずるものがあるから、というのがその理由と思われる。

7. イブン・ハッリカーン(1211-82)は、人物伝の辞典として著名な書 Wafayat al-a’yan (『名士たちの没年と略歴』)の執筆者。アル=キヤー・アル=ハッラースィーの項については、MacGuckin de Slaneによる英訳書(パリ、1842-71) Vol. II p. 229を参照。

邦訳者注:上述のファトワの、MacGuckin de Slaneによる英訳からの日本語訳はここに。