六. 諸属性についての教え

『スーフィーの教え』
著 アル=カラーバーズィー
訳と解説 A. J. アーベリー

 

六. 諸属性についての教え

スーフィーたちは、神は実在の資質を持ち、また神が、それらに適いたもうことに同意している。それらとは、すなわち知識、強さ、権威、権能、慈悲、知恵、壮大、全能、永遠、生命、欲求、意志、そして発話である。それらは身体ではなく、偶有でも要素でもないことは、ちょうど神の本質が身体ではなく、偶有でも要素でもないのと同様である。またスーフィーたちは、神が(通常の)聴覚や視覚、手や足とは異なる聴覚や視覚、手や足を有していることにも同意している。彼らは、それらは神の諸属性であって、身体の部位や器官の一部ではなく、またそれらが神そのものではなく、神と別物でもないこと、またそれらの存在についての言明が、神がそれらを必要としているとか、神がそれらを伴って物事を行うといったことを意味するものではない、という点にも同意している。それらの意味するところは、それらの反対に位置するものの否定であり、それらが自存し、かつ神を通して存続しているという言明である。知識とは、単に無知を否定するというだけにとどまるものではなく、強さとは、単に弱さの否定を暗示するものではない。ひとつには知識の言明であり、もうひとつには強さの言明である。1 もしもある人が、無知を有さないがゆえに知識を有するとか、単に弱さが欠けるという理由で強いとされるなら、まさしく無知や弱さの否定こそが、知識や力があることを意味する、ということになる。そしてそれは、その他すべての属性についても同様にあてはまる。神がこれこれしかじかのあらゆる属性を有している、と我々が表現するという事実が、神にこれこれしかじかの属性を付与するのでは断じてない。我々の表現とは我々自身に帰属するものに過ぎず、神を通して存在するある属性についての口上に過ぎない。もしも誰かしら、神こそは真の属性の所有者であるという点を併せて申し述べることなしに、神についての自らの叙述が神の属性であると主張する者があるならば、それは誤った形容をもって神に言及していることになり、彼は神に対する本物の虚偽者である。この問い立ては、言及にかかる問題のようなものではない。「言及」とは言及される者にではなく、言及する者に帰属するのであって、ある誰かが、他の誰かの中に起こっている「言及」を通して「言及される」かもしれない。言及される者は、言及する者の言及を通して言及される。だが権能を有する者とは、(権能を)解説する者の叙述によって権能を与えられるのではない。実際、もしも解説する者の叙述が神の属性であるとするなら、例えば妻や息子、競争相手を神に帰属させる多神教徒や異教徒の解説も神の属性ということになる。2 しかし神は「神に栄光あれ。神は彼らの述べたてているところを超越して、高きにいましたもう」1と述べたまい、彼らの解説をご自身から取り除きたもう。いと高き神は、神を通して存続し、かつ神から分かたれていない属性を通して神たるにふさわしくあられる。神は告げたもう、「人間は、神の知恵の一部でも、み心にかなわなければうかがい知ることはできない。」2 また、神はこうも告げたもう、「神は御自らの知識をもって啓示したもう。」3 こうも告げたもう、「いかなる女も、神の知りたもうところなくしては、はらむことも生むこともできない。」4 こうも告げたもう、「強大無双の力を持つお方、5 偉大なみ恵みの所有者、6 神のみもとにこそあらゆる栄光はある、7 気高くも尊ぶべきお方。」8

またスーフィーたちは、神の諸属性が多様でもなければ、均質でもないことに同意している。主の知識は主の威力と同一ではなく、といって主の威力以外のものでもない。それはすなわち聴覚、視覚、顔、手といった神のあらゆる属性についても同様である –– 神の聴覚は神の視覚と同一ではなく、しかし神の視覚と別ものではない。同様に、神の諸属性は神ではないが、神以外の別ものでもない。

神の介入、来臨、降臨に関する彼らの見解は多様である。スーフィーの大部分は、神にふさわしいものである限りにおいて、それらもまた神の属性であると断言するが、しかしそれらは、暗誦と連鎖9の大部分には書き述べられてはいないことである。それでも、人は彼らを無条件に信頼すべきである。ムハンマド・イブン・ムーサー・アル=ワースィティーは、次のように述べた。「神の本質が生起せしめられたものではないのと同様に、また神の諸属性も生起せしめられたものではない。永遠なるものを指し示そうと試みるなら、諸属性に関する真実あるいは(神の)本質の玄妙に関しては、何であれ理解することをあきらめる他はない。」これらの諸属性に対し、スーフィーのある者は、以下の神秘的な解釈を捧げている。「神の『介入』の意味するところとは、神は何であれ望むところを御自らにもたらすということである。神の『来臨』とは、すなわち物事を御自らの方へ引き寄せるということである。神の『接近』とは神のご好意を意味し、神が遠ざかるとは神の軽蔑を意味する。この通り、神の諸属性はおしなべて感知すること容易ならざるものである。」10

 


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9. それぞれ、コーランと伝承を意味する。

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