十. 語りについての様々な見解

『スーフィーの教え』
著 アル=カラーバーズィー
訳と解説 A. J. アーベリー

 

十. 語りについての様々な見解

神の<語り>の本質に関して、スーフィーたちの見解は様々である。彼らの大部分は、神の<語り>は神の本質に含まれる永遠の属性であり、いかなる点においても被造物の語りとは類似していないと考えている。神の<語り>には、それが何であるかという詮索 ma’iyah を差し挟む余地はない。それは神の本質が、確認という目的を除いては、それが何であるかという詮索を差し挟む余地がないのとまったく同様である。彼らのうち、ある者は次のように述べている。「神の<語り>は、命令、禁止、消息、誓約、警告から成る。神は永遠に命令し、禁止し、消息を告げ、誓約を与え、警告し、賞賛し非難したもう。それゆえ、汝ら、神により造られ、知性も成熟したからには相応の行ないをせよ。何故なら不服従は非難され、服従は賞賛されるのだから。そしてこれらのすべてが、汝らが造られた時にはすでに定められていたのだから。同様にわれらは皆、造られ、存在する以前より、預言者に啓示されたコーランを通して(神により)命じられ、告げられているのだから。」

彼らの大部分は、神の<語り>は文字や音や語の綴りから成るものではなく、文字も音も語の綴りも、それらは神の<語り>を指し示すものであり、神の<語り>はそれ自体の手段と器官、すなわち喉、唇、舌を有するという点に同意している。さて、神はいかなる器官も持たず、いかなる手段も必要とはしたまわない。そのため、神の<語り>は文字や音から成るものではない。偉大なるスーフィーの一人が、その講話の中で以下の通り述べている。「その語りが、(何かしら他のものに)依存せねばならぬ以上、文字を用いて語る者とは、誰であれ原因によって生じた結果に過ぎない。」

スーフィーたちのある一派は、神の<語り>は文字と音から成ると考えている。(神の<語り>が)知れるのは、それらをまとった後においてのみであると主張し、それは神の本質に含まれる未創造の属性である、と断言する。これはハーリス・アル=ムハースィビーの見解であり、また現代ではイブン・サーリムがそう主張している。

さて、この問題の根源とは、神はあらかじめ永遠であることが確定しており、またあらゆる点において被造物と類似しておらず、また神の諸属性も、同じく被造物の諸属性と類似しておらず、したがって神の<語り>もまた、被造物の語りとは異なり、文字や音から成るものではない、ということである。加えて、神は<語り>とは神ご自身に属するものと断言したもう。神は「モーセには、神が親しく語りかけたもうた」と告げたまい、また「われらが何ごとかを欲すれば、ただこれに『在れ』と言いさえすれば、それは在る」とも告げたもう。また、「神のみことばを聞くようになるだろう」とも告げたもう。したがってそれらをもってしても、神が永遠たるにふさわしいことが必然となる。何故ならもしも神がそれらにより、永遠たるにふさわしくなかったとするならば、神の<語り>は時間の中に生じた被造物の語りとなり、永遠に先んじて神はその正反対の、すなわち沈黙と吃音にふさわしいということになる。そしてまた、神が変化したまわず、神の本質が事象の影響を受けないことは確定している。これでは、神には沈黙が不可能であり、それで<語り>を得た、ということになってしまう。したがって神は<語り>を有し、かつそれは時間の中に造られたものではないことが確定されねばならず、そうと認めることが必須となる。また他方では、この<語り>が文字や音から成るか否かについては確定されていないのであるから、そうした主張は控えることが必須となる。

「コーラン」という語については、文法的に複数の解釈があげられよう。神が「われらが読誦するとき、続いて読誦せよ」が告げたもうところの通り、「読誦する」を語幹とする動詞的名詞であると考えることもできる。また、預言者が「コーランを持って敵地を旅してはならない」と述べた通り、聖なる書物の写本に見出されるアレフバーの文字に対してあてはめることもできる。すなわち神の<語り>が、ここではコーランと呼ばれているものである。神の<語り>とは別に、すべてのコーラン qur’an は、時間の中に造られ、始められるが、神の<語り>としてのコーランは、時間の中に造られるものでも、始められるものでもない。「コーラン」という語は、しかしながら、言外に神の<語り>を意味するものという一般的な響きにおいてのみしか理解されておらず、その場合、これは造られたものではないということになる。

この問題に関して自らの見解を表明することを避ける者たちにとり、そうする理由は以下の二つのうちのいずれかである。すなわち時間の中に造られ、始められた何かとして –– コーランは造られたものである、というのが彼らの見解である –– 記述することのないよう、宗教的な良心から避けるようにしているか、あるいはそれが神の本質に含まれる神の属性であるという概念に則しているためである。この場合、(これに当てはめられる意味においての)「創造」という語について表明したり、発言したりするのを避けるにあたっての唯一の弁明とは、それは神の属性 –– そして神の諸属性は、造られたものではない –– であるという考え方に則し、肯定されるべきことをしなかったからといって罪に問われることはない、というものである。彼らは、したがってコーランとは神の<語り>であるとだけ述べ、その他については沈黙する。伝承も、読誦される章句も、それらが創造されたものではないとは示唆していないからである。そしてこの見地において、彼らは正しい。