番外編:『小話:シャイフとハルワ』に関するめも

『小話:シャイフとハルワ』の結末について質問を頂戴しました。及ばずながらお答えします。

「これはもともとシャイフが支払いをするつもりがなかったということでしょうか。少年が泣き懇願したことですべてが動いたという解釈ですか。」

一体、どうするつもりだったのでしょう。自分の身内にこんなおじいちゃんがいたら、ちょっと困っちゃうかもしれません。

ご質問の1つめ:「シャイフが支払いをするつもりがなかったということでしょうか」

冒頭(391行目前後)でシャイフは「神様は400ディナールほどお持ちではないだろうか」とお伺いを立てているので、支払うつもりがなかったわけでも無さそうです。その場にハルワ売りの少年が居合わせたのも、シャイフが彼のハルワを買ったのも、神様のしつらえであったと解しても間違いではないでしょう。シャイフは全てをすっかり神様に捧げ、神様の道に生きていた人として描かれています。もしも神様に「支払うな」と命じられれば、シャイフは支払わなかったかも知れません。

ご質問の2つめ:「少年が泣き懇願したことですべてが動いたという解釈ですか」

すべてを動かすのは神様ですが、金貸し達に対しては、神様の慈悲の海は動きませんでした。一方で物売りの少年の泣き声は、スイッチの役割を果たしました。(神様にお願い事をするのに最良の方法は、恥も外聞も無くひたすら泣いて訴える事なのだそうです)

ご存知の通り、イスラムはもともと売買による利潤追求は奨励しますが、貸借による利潤追求は控えめに言っても称賛されていません。そうした事情も、物語の背景にあるかも知れません。また、金貸し達はシャイフの行いやそれに対する自分達の反応を、「モーセとハディル」になぞらえています。コーラン18章60節〜82節を参考にしてみてください。

シャイフ・アフマド・イブン・ヒズルヤーという人はルーミーに遡ること約400年前、ルーミーと同じバルフに生まれました。死の床にあるシャイフの借金が、周囲の人々が思いもつかなかったような方法で清算された話は、ルーミーの時代には既に民間伝承のような形で定着していたようです。得られる教訓(という言葉もちょっと問題がありますが)は複数考えられますが、ひとつには「人は奇跡を欲する( ≈ 奇跡を見ない限り、改心しない)」というのがあるでしょう。

この小話は「イエスに、骨を生き返らせるようねだった男の話」の途中に挿入された栞のようなものです。これ以降、本題に戻りますので、そちらも併せてよろしくお願いします。

質問を下さったこと、また読んで下さったことありがとうございました。

追記:後日、質問を下さった方からシャイフ・アフマド・イブン・ヒズルヤーについて「『自我を捨てる』とは、つまりこういうことなのですね」という旨のお返事を頂戴しました。スーフィズムにおいては確かにその通りだろうと思いました。そしてまた、それは当のスーフィー達にとっても必ずしも容易なことではなく、だからこそこうして何度でも物語として語られ続けているのだろうとも思います。