何であれ、神の思し召すままに

『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

何であれ、神の思し召すままに

ずいぶんと多くの言葉を語ってきた、しかしまだまだ物語は続く。

我らのこの長い旅、これはひとえに神のご好意によるもの。
神のご好意無しには、物語も我ら自身も、とっくに無に帰していたことだろう。
神のご好意もなく、神に選ばれた方々のご好意もなければ、
今ごろは天使達の記録する帳簿も、真っ黒に塗りつぶされていたことだろう。

神よ、恩寵もてあらゆる望みと願いを満たしたもう御方よ。
神は比類なき御方。赦されざるはただひとつ、神以外に望みと願いを託すこと。
慈悲深い御方が禁じたもうはただこれだけ、
慈悲深い御方が命じたもうもただこれだけ -
今の今まで我らが犯した多くの過誤も、御方はすっかり覆い隠したもう。

知識は、御方のみが与えたもう。
我らが受け取り損ねた知識の数々は、再び御方の海へと還される。
我らも海を目指そう - とりこぼした知識に、そこで再び巡り会おう。

わが魂に、まがりなりにも一滴の知識が残されているのならば、
その時はどうかわが魂をお守り下さい -
この一滴をわが肉体から、わが官能からお守り下さい、
私の肉体、この土が、知識の一滴を呑み込んでしまわないように。
私の官能、この風が、知識の一滴を吹き飛ばしてしまわないように -

- そしてもしもわが肉体、わが官能が、
わが魂からこの一滴を取り上げてしまったとしても、御方よ、
それを取り戻すことをどうか困難にしないで下さい。

知識は、御方のみが与えたもう。
御方のものである限り、たとえそれが小さな一滴でも、
御方の財宝であることには変わりがない。
風に吹かれ、土に呑まれても、
全知全能の御方にとっては探し出すことも容易なはず。

たとえそれが、無に帰したとしても、
たとえそれが、百の無に紛れ込んだとしても、
一声、御方が呼びさえすれば、
それはたちまちのうちに御方の許へと還されるのだから -

あらゆる事象にはその対極がある。
そして対極は、もう一方の対極を打ち消そうとする。
そこへ御方が一声、呼びかけると、
たちまちのうちに打ち消された無も有に転ずる。

カラヴァンに次ぐカラヴァンの列。
砂煙をあげて移動してゆく。
絶え間なく、無から有へと変容する。

毎夜、すべての思案と思考が無に帰される。
御方の海の、最も深い水底へと還される。

そして夜が明けるころ、
それらは再び水面へと戻って顔をのぞかせる。
御方の海を一晩中泳ぎ、
新たに生まれ変わった魚となって戻ってくる。

秋の季節には、無数の枝と葉が枯れる。
死の海めがけて、なだれのように崩れ落ちていく。
庭園を訪れる者もいない。
黒い喪服に身を包んだカラスだけが、
青葉の季節の死を悼んで嘆きの歌を歌う。

訪れた冬枯れに、庭園の主はむなしく抗う。
辺り一面に充満する無にむかって言う、 -

「おまえが略奪したものを、今すぐ私に還しておくれ!」
「死よ、私の庭園から去っておくれ。これ以上、むさぼらないでおくれ」
「木々の緑を、葉を、香る下草を、ひとつのこらず庭園に戻しておくれ!」

- だが抗う前に、立ち止まって少し考えてみよう。
秋と春との間に、明確な境界線など果たして存在するだろうか。
秋に春が、春に秋が、一瞬たりとも無であったことなどあっただろうか。
秋も春も、たとえ目には見えなくとも、
絶え間なく常に存在し続けているのではないか。
秋と春とを異なるものとしているのは庭園の景色ではない。
秋と春との間に境界線を引くのは、
庭園ではなく木々の死でもなく、庭園の主の心の働きなのだ。

庭園の景色ではなく、庭園の心に目を転じてみれば、 -
見えてくる、薔薇のつぼみも糸杉も、ジャスミンも、緑も、草も草露も。
木々の枝は重なり合った葉に覆われて、まるで花に飾られて隠された宮殿のよう。

知識の真の所有者、知識を与えたもう御方の言葉に耳傾けよ。
全的知識から発せられる言葉は匂いでそれと分かる。
それらの言葉からは、糸杉やヒヤシンス、花々の芳香が漂っている。

薔薇の無いところに、薔薇の芳香を感じたことはないか?
ぶどう酒の無いところに、たちのぼる泡を感じたことはないか?

- でなければ、嗅覚を訓練する必要がある。
匂いや香りというものは、求道者にとって最も重要で信頼できる導き手だからだ。
芳香は目に見えない。だが確実に、あなた方をエデンやカウサルの川に導いてくれる。

また芳香は、視野を広げもする。
心眼を開くまたとない治療ともなる。
息子ヨセフを失い、悲しみに曇ったヤコブの目を、
再び開かせたのも芳香の働きだった。
不快な悪臭は視界の妨げとなる、だがヨセフの芳香は視界の救いとなる。

ヨセフには、なろうと思ってなれるものではない。
だが我らは、ヤコブにはなれるだろう。
苦しみを引き受け、悩みを引き受け、
悲しみに涙を惜しまぬ人 - それがヤコブだ。

ガズナの聖者サナーイーの言葉に耳をかたむけてみよう。
彼が遺した言葉は、私の魂に新鮮な活力を与えてくれる。
肉体は老いて衰えても、魂は違うということを知らしめてくれる -

自分以外の何かになろうとするな
尊大な振る舞いは薔薇にこそ似つかわしい
薔薇でもない者が、薔薇のごとく振る舞えばそれは醜い
盲目であっても、美醜の見分けはつけられる

ヨセフには、なろうと思ってなれるものではない。
美を目の前にして、自分の美を競おうと挑むような真似はするだけ愚かなことだ。
出来ることと言えばヤコブになりきり、
ヨセフの美を誉めたたえ、ため息に徹することだ。

- 物語のオウムは、かりそめの生に終止符を打った。
叶えたい悲願がある時に、自分の美を、才を、
意気揚々とひけらかすことほど愚かなことはない。
むしろ自分など、とっとと捨て去ってしまうことだ。

「死ぬ前に死ね」とは、そういうことだ。
捨て去ってはじめて、イエスの息に触れることも叶う。
イエスの息は再生の息だ。
触れればその息と同じく祝福され、純粋に生まれかわるだろう。
それは春の訪れだ。
死に絶え、固くなっていた大地が、
生まれたばかりの柔らかな緑で満たされる。

この不思議、この奇跡の意味を知りたい者はいないか。
知りたければ、自らを大地としなくてはならない。
大地となって冬を越さねば、色とりどりの花は咲かない。
掘り起こして土を柔らかくしなくては、種をまいても芽は出ない。

試しに、一度でも大地になってみようと思う者はいないか。
試せば自分という土が、心が、
いかに固くなっていたかすぐに気付かされるだろう。
冬に閉ざされ、荒れ果てているのは庭園ではなく、
心であったことに気付かされるだろう。