神のお引き立てを願うなら、神のしもべと共に在れ

『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

神のお引き立てを願うなら、神のしもべと共に在れ

預言者が、アリー - 神が彼を嘉したまいますように - に対して、このような助言をしている。
曰く、「神のお引き立てを願うなら、神のしもべと共に在れ」。

アリーよ。おまえこそは神の獅子、おまえほど勇敢な騎士はいない。
だが、アリーよ。おまえ自身の勇猛果敢さを、頼みの綱としてはいけない。
希望という名の、椰子の木陰に身を寄せるのだ。
道には道の賢者がいる。
屈強な担ぎ屋でも、賢者を道から動かすことは出来ぬ。

彼らの庇護を求め、その影に身を隠せ。
賢者の体が地上に落とす影は、あたかもカーフの山のよう。
その魂はあたかもシームルグのよう、天頂に弧を描いて飛ぶ。
彼らに関する話は尽きぬ。
一たび語り始めれば、復活の日まで語り続ける羽目になろう。

聖なる太陽は、ヒトをヴェイルとしてその身を隠す。
この神秘の意味を知れ。最もよく知るのは、ただ神のみである。

アリーよ。神の道における数多くの行為のうち、
いずれかを選ばねばならぬ時には、迷わず神のしもべの許へ走れ。
賢者の影に庇護を求めるのだ。

とかくにヒトは自らを救おうとする。
慈善や崇拝、献身の行為をもって自らの避難所とし、
自らが救われることの正当性を見出そうとする。
誰しもがささやかな善行に追われて奔走する。
僅かであっても、それで彼らは救われてほっと一息つく。

だが、アリーよ。そなたは違う。
行け、アリーよ。おのれの行為にすがるな。
おのれの善行に救いを求めるな。
避難所を求めるならば、賢者の影を目指して走れ。
献身と名のつく全ての行為のうち、それが最も善いものとなろう。
それがおまえを、他の誰よりも優れた者とするだろう。

一たび、ピールがあなた方を受け入れたとしても、
気を抜くな、全身全霊で服従せよ。
行け、ハディルに師事したモーセのように。
ハディルは言う、 - 
『あなたは、わたしと一緒には到底耐えられないであろう(コーラン18章67節)』。

ハディルには、偽善が一切無い。
偽善無き者の行為は、あなた方を怯えさせるだろう。
だが何があろうとも短気を起こすな、根気良くお仕えせよ。
『去れ、これで私とあなたはお別れだ(コーラン18章78節)』 - 
ハディルに、そう告げられないためにも。

口をつぐんで一言も発するな、たとえ彼が舟を打ち壊そうとも。
髪をかきむしって取り乱すな、たとえ彼が子を殺そうとも。
ピールの手は神の手と知れ、神がそう定めたもう瞬間から、
彼の手には常に神の御手が重ねられていると心得ておけ。
神の御手により死した者があれば、それが子であれ何であれ、
必ずや神の御手により再びの生を得る。
生とは、そもそも何であろうか?
御方は、魂に永遠の光を与えたもう。

たった一人でこの道を歩むというのはあり得ぬことだ。
もしも万が一、ピールに師事することなく一人で歩み、
目的地に辿り着いたかに見える者があるとしたら、
それは目には見えぬところでピールの力が、
ピールの好意が働いていたということだ。
ピールの手というものは、
目の前の弟子達のみに働きかけるだけではない。
何しろ彼の手を握っているのは、神の御手以外の何ものでもないのだ。

優れたピールであれば、不在の弟子にすらその力は及ぶ。
と、すれば、傍で仕える弟子に与えられるものはどれほどであろうか。
遠く離れて不在でいるよりも、傍でじかに薫陶を受ける方が、
はるかに好ましいのは疑う余地もない。
目の前にいない弟子にまで、精神の糧を振る舞うのが優れたピールだ。
目の前に座すれば、どれほどの饗応によってもてなされるものやら。
扉の外で体を固くしている者と、扉の中でくつろぐ者と、
果してどちらが上でどちらが下か。

ピールを選べ、選んだ後は一切の怯えを捨てよ。
水のように流されてもいけない、土のようにもろくてもいけない。
衝撃を受けるたびに、そのひとつひとつに、
いちいち腹を立てたり興奮して騒ぎ立てたりしてもいけない。
曇りに曇った心の鏡を、黙っておとなしく磨かれておけ。