蠅の解釈

『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

蠅の解釈

蠅が一匹、驢馬の小便溜まりに浮いた藁にとまっている。頭をもたげて、船長気取りだ。「これは海だ、そしてこれは船に違いない」。彼は言う、「俺は長いこと、考えに考えてこの解釈に辿り着いのだ - 見ろ、見ろ、これが海だ、そしてこれが船だ!そして俺が船長だ!ああ、俺ときたら何て賢いのだろう、立派な船長だぞ!」。

そうして、彼は藁の「船」を、意気揚々と小便の「海」へ漕ぎ出して行く。彼の眼には、果てしなく広がる光景が映っている。驢馬の小便が作るちっぽけな水たまりが、彼にとっては世界の全てだ。真に視るべき世界、視るべき展望など一体どこにあるのか。視力の届く限界が、語りうる言葉の限界となる。視野の広さが、そのまま「海」の広さとなる。

誤った解釈をまき散らす者とは、まさしくこの蠅のようなもの。あれらの想像力など驢馬の小便に過ぎぬ。あれらの思案など、藁ほどの役にも立たぬ。自らの持論への執着を捨て、自らの視野の狭隘さに気付く時。その時こそ、運命の輪は廻り蠅も火の鳥に変容するだろう。

精神と、それが宿る姿とが一致するとは限らない。誰であれ、聖なる啓示の真に意味するところを知る者こそ、蠅の領域を脱した者だ。我らが主人公、ライオンに反逆しようと試みるこの兎を見よ。彼の精神と、彼の姿を見比べてみよ。彼の勇敢さと彼の背丈は、果たして一致するだろうか?