ファリードゥッディーン・アッタールのガザル(叙情詩)

『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

ファリードゥッディーン・アッタールのガザル(叙情詩)

さて、聖者とはいかなる人を指すのか。我らが先達アッタール1 - 神よ、彼の魂をよみしたまえ - のガザルをひもといてみようか。このようなガザルがある -

自我に執着する者よ、地上にありて自らの生き血を飲む者よ
神秘道を行く者は毒を飲むが、彼が飲めば毒は薬となる

それと知りつつ毒を飲み干したところで、かすり傷ひとつ負うところ無き者、それが聖者というもの。禁欲の階梯にある者とは、すなわち未だおのれの欲に苦しむ者。おのれの欲を手放し、おのれの欲からも解放された者に禁欲は不要だ。真に健康なる精神、それは自由な精神である。

預言者は言った、「向こう見ずな探求者よ、心せよ!戦うな、たとえ誰に出会おうとも。それは友だ、敵ではなく」。ニムロードはおまえ自身の中にいる。ニムロードにおまえを明け渡すな、軽々しく炎に飛び込むな。炎に飛び込む前に、ニムロードを去りアブラハムの友となれ。

軽々しく海に飛び込むな。水泳の達人か、漁師か水夫でもない限り、何も好きこのんでわざわざ自分を突き落とす必要はない。自惚れの岸に、しっかりとしがみついておれ。 - だが達人が飛び込めば、海の底から真珠を持ち帰る。達人が触れれば、炎の中から薔薇を持ち帰る。失うことにより得る人々、達人とはそうした人々を指す。未だ目覚めぬ者が触れれば、大地は灰に変わる。だが達人が触れれば、大地は黄金に変わる。

達人とは、神に受け入れられた正しき人。その手は神の手ともなる。未だ目覚めぬ者の手は、悪魔の手ともなる。人々に向けられるとき、彼らの手は虐げ、貪り、欺く。未だ目覚めぬ者は、だがそれ以外の方法を知らないのだ。彼ら自身が悪魔の罠にあり、彼ら自身もまた悪魔の手によって虐げられ、貪られ、欺かれているからである。

達人の手が無知にふれれば、それは知に転じる。だが未だ目覚めぬ者の手が知にふれれば、それは無知に転じる。病が伝染するように、信仰なき者がまき散らすのは不信である。だが達人の手が不信にふれれば、やがて免疫が生じるように、それは宗教に転じる。

歩兵ならば騎馬兵に闘いを挑むな。首を取られたくはないだろう。歩兵はただ歩め、おのれ自身の足許に集中しておれ。

 


*1 ファリードゥッディーン・アッタール ニシャプール出身の神秘主義詩人。1221没。自ら詩作しただけではなく、神秘主義詩人達の伝記を著すなどもしている。