嘆きの柱

『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

嘆きの柱

預言者の、小さな礼拝堂を支える一本の柱があった。やがて時が経つにつれ、礼拝堂を訪れる人々の数も増え、預言者の御顔が見えないと不平を言う者もちらほら出始めた。それで人々は、預言者のための説教壇を作ることにした。説教壇が出来上がり、さて礼拝堂に備えつけようという段になって、一本の柱がどうしても邪魔になることが分かった。

そこで人々は、その柱を取り除くことにした。取り除かれた柱は悲しげにうめいた。預言者からの別離を嘆いて、まるで生きているかのようにうめき声をあげたのだった。預言者は言った、「柱よ、嘆かないでおくれ。汝は何を欲するのか?」。

柱は言った、「預言者よ、ご覧下さい。私の魂が、あなたとのお別れの悲しみのために血を流しているのを。長いこと、私はあなたの礼拝堂を、いや、あなたを支える柱として誇り高く立っておりました。それなのに、今のあなたは私を追い払おうとなさる。私の居場所を取り上げて、説教壇に与えようとなさる」。

「ああ、柱よ。どうしたら良いだろう?」、預言者は言った。「なつめやしの木になるというのはどうだろうか?東からも西からも、大勢の人達が果実を求めて、おまえに会いに来るだろう。それとも、御方に願ってあちらの世界の糸杉になるというのはどうだろうか?そうすれば、おまえは枯れることもなく、未来永劫みずみずしいままで居られるだろう」。

「何だって構いやしないのです」、柱は言った。「どちらでも構いやしないのです。私は欲しいのは、永遠に終わることのない何かです」。柱は立派に言ってみせたのだ、「たかが柱と侮るなかれ」と。

たかが柱と侮るなかれ。小さな礼拝堂の、古びた柱であってさえも希求するところはかくも気高い。私達の目指すところが、この柱の志よりも低いものであってはならぬ。 - 柱の言葉を聞いて、預言者は黙して大地に穴を掘った。そして柱を埋葬した。彼の小さな礼拝堂を支えたこの柱、彼を支えたこの柱が、やがて訪れる終末の日に、預言者や人々と共に復活の瞬間を迎えるように、と。

神のお呼び出しを受けたなら、現世との関わりは後回しになる。これはあなた方もよく知っているはず。そもそも私達は皆がみな、神のお呼び出しあってこそこうしてここにいるのだから。やるべき仕事、果たすべき役割は神からじかに受け取るもの。それらを通じて現世に入場し、やがてそれらを終えたとき、それらを遺して現世から退場してゆく。

だが中には、このような知識、このような秘密の贈り物を受け取り損ねている者もある。目に見えぬ領域について思い巡らせることのない者は、決して信じはしないだろう、柱とて嘆き悲しむこともあるのだ、などとは。

あるいは彼らは、内心では嘲笑しつつ口先では「信じますとも!」と言うだろう。かくてあなた方は、偽善者とそうでない者とを見分けることなど出来ないだろう。全てをご存知である御方が、「在れ!」とお命じにならぬ限り、私の講義に彼らが耳を傾けることなど起こりはせぬ、私の講義など何の役にも立ちはせぬ。

見るがいい、大声で喚き散らすばかりの説教師と、その追従者達の群れを。互いの顔色を覗いて探り合い伺い合い、互いに順応することにのみ没頭する者が、千人も万人もひしめき合っている。そこへたった一人が、新しい思考、新しい知識を持ち込んでみたところで、千人、万人の盲従者達の心は、ただ困惑と疑念に染まるばかりだろう。

彼らには、何ごとかを証明する伎倆などありはしない。彼らは論理に依て思考することをしない。彼らが依て立つところ、彼らの支えというものは、彼ら自身が生み出した虚偽、彼ら自身の妄想に他ならない。

まことに疑念とは、追放されたる者すなわち悪魔の為せる仕事に他ならぬ。真理を見ない者達をつまづかせようと、それぞれの心に一粒づつ、疑念の種を植え付ける。真理を見ない者が、いかに理論を組み立てる真似事をしようが、そのようなものはただの空論、風が吹けばあっと言う間に崩れ去る。

空論の羽を何枚集めようが、出来上がるのは空論の翼に過ぎぬ。そのようなもの、真理を見ずに妄想ばかりを眺めて暮らすあの者共にくれてやれ。そんな翼では飛べるはずもないのだから。そして飛べない翼など、何の役にも立たないのだから。

軍に勝利をもたらす騎士がいる。さて、これが宗教であったならばどうか。宗教における騎士とは、どのような人物を指すだろうか。精神的世界について一見識を持つ者、霊的な視野を備えた者がそれだ。不可視の領域を見渡すことの叶わぬ者達であっても、不可視の領域を鋭く見渡すことが出来る者がいれば、その保護の許に彼らの道を見出し、彼らの道を歩むことが出来るだろう。

だが誰一人として不可視の領域を見渡そうともせず、精神的世界に注意を払わぬ王ばかりが支配するようであれば、精神的世界における道だけではなく、物質的世界における道をもすっかり見失うことだろう。霊的な事柄、精神的世界、不可視の領域。こうしたことから目を背け、注意を払わずにいる者達の目には、実際のところ何も見えてなどいない。何も見えていない者達に、耕して種を蒔き、育て上げ、刈取って市場へ持って行き、取引をして利益を得るということが出来ようか。

あなた方がこれぞ論理的思考、と思うところのそれ、これぞ正しい理論、と思うところのそれ。御方の慈悲と恩寵があればこそ、それはあなた方を支える杖ともなる。それ無しには、乾いた枝がそうであるように、杖はたちまちぽきりと折れてしまうだろう。

あなた方の手にあるそれは何か?あなた方が合理的と呼ぶところのそれ、原因と結果をつなぐ推論、あるいは証明。あるいは存在の理由。ふむ。それで、一体どこからどのようにして、あなた方はそれを手に入れたというのか?元を辿ればそれらは何もかも、全てを見通される御方、全てをご存知の御方、ただおひとつの御方から下されたのではなかったか?

そしてそもそも、それは全てあなた方への恩寵として下されたものであったのに。だがあなた方は、それらを道を歩むための導きの杖としてではなく、武器として手に握る。互いを痛めつけ、傷つけ合い、あまつさえそれを与えたもうた御方に向けて振り回しさえもする。ならばいっそ捨ててしまえ。いっそ粉々に打ち砕いてしまえ、恩寵を恩寵とも思わぬようならば!

御方があなた方に恩寵をもたらしたもうたのは、ひとえにあなた方を御方の傍へと導かんがため。それなのに、少しでも導かれようという者はいないのか。少しでも努めようという者はいないのか。見るべきものを見ぬ人々よ。一体、あなた方は何をしているのか?よく見るがいい。周囲ではない、あなた自身をよく見るがいい。神、と言っても分からぬようであれば、せめて神とあなた方との間に遣わされた預言者達の言葉に、ほんの少しでも耳を傾けてみよ。

預言者達を、神の、御方の衣の裾と思え。衣の裾に、しがみついて離れるな。全てを与えたもう御方を想え。御方に背いたがゆえに、アダムの身に降り掛かった苦しみを想え。モーセと、アハマド(ムハンマド)に起こった奇跡を想え。杖が蛇となり、柱が知恵となった奇跡の意味を想え。杖からは畏怖が生じ、柱からは悲嘆が生じた。聞こえないか、彼らが打ち鳴らす太鼓の音が。聞こえないか、一日に五回、繰り返し彼らが打ち鳴らす太鼓の音が。

私は音を舌でも聞く。これ、この味。宗教は味わうべきものだ。この味覚無しに、精神界の真実を知ることなど出来はしない。この味覚無しに、あの奇跡、この奇跡について語ることほど理知から遠いことはない。この味覚無しに、奇跡にどれほどの意味があろうか。精神の味覚、これを用いてひとたびしっかりと味わうことで知性は理解する。理解すれば、それ以上の証拠も議論も、奇跡も無用となる。

この方法、人跡未踏のこの道。この道を行こうなどとは、説明を尽くしたところで常人には理解し難いことだろう。だがこれを「心で」知る者、「心で」受け入れる者が皆無かと言えば、決してそうではない。祝福された人々にとり、それはたやすいことだ。

海を恐れて、船出を拒む魔物やけだものの類いを見よ。彼らはアダムを恐怖する。羨望と憎悪を胸いっぱいに抱えて、住み慣れているというだけの理由で、はるか遠くの小島にしがみつく。賢い者なら、果たして真に不合理なのがどちらであるかを知るだろう。

預言者達の奇跡を恐怖して、彼らは砂の下に潜り頭を隠す。それで彼らは、草の緑を知ることもない。地面にこすりつけるように、ただただ頭を下げる。そのように振る舞いさえすれば、ムスリムらしく装えるだろうと考えている。外面ばかりを気にする者達。評判ばかりを気にする者達。あなた方には、彼ら偽善者を見抜けはしないだろう。何しろ彼らは、欺くことにかけては人一倍の努力を怠りはしないのだから。

まるで贋金作りのよう。熱心に銀を磨いて偽りの金色した塗料を塗りたくり、表面にはそれらしく王の名を刻み込んで仕上げする。表向きには、彼らの言葉は神の不変を語り、神の一性を語っているかのように聞こえるだろう。だが彼らの言葉は、小麦に紛れ込んだ毒麦のように、内側からパンを台無しにしてしまう。

哲学者達は臓腑を持たぬ。あれらは空っぽだ。胃の腑を持たぬ。腹の底が抜けている、語という語を、しっかりと噛み砕いて消化することも出来ぬ。それでは勇気も、度胸もわき起こるはずがない。だから真の宗教を目の前にして、それについて語る言葉のひとつも持ち合わせていない。ただ沈黙する他にはない。一言でも口にすれば、彼らを支える合理がたちまち不合理に陥ると知っているのだ。

手も足も、精神の働きなしに勝手に動いたりはしない。彼らの精神が何を言おうが、彼らが何と言い訳をしようが、それらはただ彼らの命ずるままに動いているに過ぎぬ。彼らが疑念を抱けば抱くほど、彼らの舌が、手が、足が、彼らに代わって証言する。彼らが隠そうとすればするほど、彼らの舌が、手が、足が、彼らに代わって雄弁に語る。