二つの海と、それを隔てる障壁について

『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

二つの海と、それを隔てる障壁について

やがて炎獄につながれる人と、楽園に住まうだろう人とが、同じひとつ屋根の下に集い暮らしている。一見、お互いに何の違いも無いかのように見える。それでも、彼らの間には、決して超えられることのない障壁が存在している。「二つの海を放って相まじらわせながら、両者のあいだに、越すことのできない障壁を置きたもう(コーラン55章19、20節)」。

御方は、炎の人と光の人とを分かつことなくひとつ処に相交わらせたもう。それから、御方は両者の間にカーフの山に立たせたもう。御方は彼らを、鉱脈の中の土塊と黄金のように混ぜ合わせたもう。互いに近い洋でいて、彼らの間には百の砂漠と百のカラヴァンサライ(隊商宿)がある。まるでひとつの首飾りに、真珠と褐炭を一緒に連ねたようなもの。遅からず、離ればなれになる運命だ、一夜限りの恋の相手のように。

海のうち、半分は砂糖のように甘い。舌をとろかすように甘く、月のように明るく。残りの半分は、蛇の毒のように苦い。舌を刺すように苦く、松脂のように暗い。 - こうした対立の兆しは、いつでもこのちっぽけな肉体の内側に生じる。肉体の内側で、精神が『平穏』もしくは『闘争』と混ぜ合わされた時にそれは生じる。

『平穏』の波が、お互いにぶつかり合って飛沫をあげ、ヒトの胸の中にある憎悪を探り当て、憎悪もろともに砕けて散ってゆく。そこへ別の波がわき起こる。『闘争』の波だ。『闘争』の波、これはヒトの胸の中にある愛を探り当て、これを逆さまにひっくり返し、混乱させ、愛もろともに砕けて散ってゆく。

全ての愛は、公正さを土台としている。たとえ何がどれほど苦々しかろうとも、愛はいつでも全てを甘い蜜の方へと引き寄せ、甘い蜜をふるまおうとする。ひきかえ、憤怒は甘い蜜をすら苦みの方へと持ち去ろうとする - どうして苦みが、甘みと同じであるなどと言えるだろうか?

苦みも、甘みも、いずれもこの肉体の目に見えるものではない。だが方法がある。窓越しであれば見ることが出来るのだ。『終末の日』、という窓越しであれば。誰でもいつかは必ず死ぬ。真理を見ることが出来るのは、物事の終わりを見る目を持つ者だけだ。全ては必ず変化する。目の前の安定のみを見る者というのは、要するにまやかしに目を奪われて錯誤しているに過ぎぬ。

言い添えておこう。世の中には、砂糖のように甘い者なら数多くいる。だが同時に、多くの場合、毒もまた砂糖のように甘い糖衣をまとっていることを忘れずに。

- 多くの者が、唇や歯に当てて初めてそれと知れることでも、賢い者ならば、においだけで嗅ぎ分けることが出来るだろう。喉元に達する前に、唇がそれを拒絶するだろう。たとえ悪魔がその耳元で、「食べろ、ええい、食べろというのに!」と、そそのかし叫んだとしても、自制を知る者は自制するのだ。

だがそれを知らない者には、解毒の過程を踏む必要がある。嘔吐するなり排泄するなり、いずれにせよ燃え盛るような苦痛を味わうことになる。体内から追い出す段になって、初めて自分が飲み込んだものが何だったのかを学ぶというわけだ。

だがさらにその他にも、もっとずっと後になってから毒の効き目を知ることになる者達もいる。数日後か数ヶ月後か、あるいは数年、数十年、あるいは死後。墓穴の中で知ることになる者達もいるだろう。墓穴の中、つかの間の休息を与えられているものならば、必然、復活の日に明らかにされることだろう。

こうして眺めてみると、飴菓子といい蜜菓子といい、この世で見かける欲望をそそるものというのは、止まることのない時の回転から、しばしの猶予を与えられたものばかりのようだ。ルビーが、内側から照り輝くまでに成長するには時間がかかる。長い間、太陽の光に晒されてこそ、太陽のようなあの色、あの輝きを体得する。

青菜のたぐいであれば、二ヶ月もあれば収穫を手に出来る。だがバラの花を咲かせようと思えば、十分に育てるのには一年の月日が必要となるだろう。望み通りの結果は、そう簡単には手元に転がり込んでは来ない。全知全能にして栄光の御方が、アン・ナアムの章で告げたもう通りだ、「一定の期間が、かれの御許に定められている(コーラン6章2節)」と。

さて、わが講義に集まった諸賢よ。あなた方全員の、髪の一筋ひとすじが耳となり、一言も聞き漏らすことなく受け取ってくれていれば良いのだが。私は命の水を注いでいる。これを飲んで、あなた方の渇きが癒えたならば良いのだが。わが講義が、あなた方にとり善きものでありますように!

- いやいや、これを講義と呼んだのは間違いだ。どうかこれを、命の水と呼んで欲しい。これは私からあなた方へ宛てた手紙である。古めかしい文章の中に、新たなる精神を読み取って欲しい。