盗みを疑われたダルヴィーシュ、あるいは船上の奇跡

『精神的マスナヴィー』2巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

盗みを疑われたダルヴィーシュ、あるいは船上の奇跡

あるダルヴィーシュが船に乗っていた。持ち物は、聖なる者に備わった美徳のみ。これが彼の枕だった。黄金の入った袋がひとつ盗まれた。そのとき、彼は眠っていた。船に乗り合わせていた者たちは、総出であちこちを探しまわった。すると彼の姿が目に入った。

3480. 彼らは言った、「物乞いが眠りこけているぞ。こいつも調べよう」。黄金の袋の持ち主は、焦燥に駆られ欲に目を血走らせて彼を起こした。「この船で、貴重な品の入った袋が失われた。わしらは全員を調べているところだ。あんたにも疑いがかかっている。逃げられやせんぞ。さあ、おまえが纏っているダルヴィーシュの外套を脱げ。着ているものは、何から何まで全部脱ぐんだ。そうすりゃ、皆の疑いも晴れるだろう」。彼は叫んだ。「おお、主よ!あなたのしもべは、みじめな悪党どもに罪人扱いされております。あなたの望むところを命じられよ!」。疑われたことへの悲しみが、ダルヴィーシュの心に生じるや否や、たちまち無数の魚たちが、深い海の底から海面へ頭を出して船を取り囲んだ。

3485. 魚たちは、それぞれの口に素晴らしく美しい真珠を咥えていた ー それはそれは見事な真珠を!たった一粒でも、一国を購えるかと思われるほどだった。「受ケ取ラレヨ」「受ケ取ラレヨ」、魚たちは口々に言った。「受ケ取ラレヨ、だるゔぃーしゅヨ。案ズルナ、コレハ神カラ下サレシモノ、神ノ他ニハ誰ニモ属サヌモノ」。ダルヴィーシュは、受け取った山ほどの真珠を船上にまき散らすと、そのまま身を翻して船の外へ飛んだ。彼の体は海に落ちることもなく、そのまま空中にとどまった。跳躍したその先に、まるで彼の椅子が用意されていたかのよう ー 彼は「そこ」に腰を下ろした。ゆったりと座して脚を組み、その様子はあたかも玉座につく王者のようだった。彼は天辺にいた。そして船は、彼の下にあった。

3490. 彼は言った、「発つがいい。おまえたちには船、私には神。安心しろ、おまえたちの船には、物乞いの泥棒はもう居ないのだから。見届けようではないか、この別離によって失うのは私か、それともおまえたちか?創りたまいし神と共に在れる喜びを思えば、創られしものからの別離など私には雑作も無いこと ー 御方は、私を盗人と咎めたりはなさらない。私を繋ぐ引き綱を、中傷者たちの手に渡したりはなさらない」。船上に残った者たちは口々に叫んだ。おお、貴き師よ、いったい何がどうなって、こんなにも高い階梯があなたに授けられたのか!」彼は答えた。「それもこれも、おまえたちがダルヴィーシュに疑惑を投げかけたことによる。そうした卑劣な振る舞いによって、知ると知らざるとに関らず、おまえたちは神に敵対したのだ。

3495. ああ、そうとも!否、私が階梯を授かったのではない。私はただ、魂の王について証言したのみ。私はただ、精神の道における導師たちについて証言したのみ。私の中には、悪しき思考が棲みつく余地は無かった ー ダルヴィーシュについて、また彼らのうちとりわけ優れた者たちについて、彼らを導く甘き吐息と純粋なる精神について ー 『アバサ(註1)』が啓示された人々の威光についても」。ダルヴィーシュの、このような状態を得るにはどうすれば良いか。現世との関わりを断ち切れば良かろうか?否、否。それは真の契機ではない。真の契機はただ神のみにある。神の他に何も無し ー その神が、第七層の天界の財宝を託した者たちを、どうして疑うことなど出来よう?疑念は、常に我欲から生じるのだ、崇高なる理性からではなく ー 疑いを呼び覚ますのは感情であり官能である。だが明晰なる光に、疑いの余地は生じない。

3500. 我欲は詭弁を弄する。我欲が頭をもたげたなら、これを打ち据えよ。遠慮は要らぬ、絶えず打ち据えよ。何故なら打ち据えることこそが、我欲との最も優れた付き合い方だからだ。我欲と議論して何になる。それ(我欲)が奇跡を目にすると、その一瞬は顔を輝かせる。だがほんの数日も過ぎれば、「あれはあの場限りのまぼろしに過ぎなかったのだ」などと言い出す。「だってそうだろう、もしもあれが現実だったなら、いついつまでも昼となく夜となく我らの目の前に現れたっていいはずだ」。実際のところ、純粋のままに保たれた者たちの目には昼となく夜となく奇跡は見えている。それは見る者の目を選ぶ。感情の赴くままに物事を行う者の目では、捉えられないだろう。奇跡は、肉体の感覚を羞恥して避けるもの。でなければ、どうして孔雀が狭い檻を好むだろう?(註2)

3505.  ー いやいや、ひとの話は真面目に聞け。私のことを口の軽い奴だ、おしゃべりな奴だなどと思うてくれるな。これでも、百ある髪のうちたった一筋を語っているに過ぎぬ。

 


註1 『アバサ』:「’Abasa(眉をひそめる)」という語から始まるコーラン80章を指す。人をその印象や身分、性別、年齢などで選り好みしてはならないという、預言者に対する神の訓告から始まる章。

註2 「孔雀は狭い檻を好む」:スーフィー文学において、孔雀は「自我」や「高慢」を象徴する。また孔雀には一度決めたテリトリーから離れない習性があり、放し飼いにしても逃げることがない。自我に執着する者は、自らの領域を離れて見知らぬ世界を訪れることもなければ、逆に奇跡が訪れることもない…というほどの意味。