貪欲な破産者

『精神的マスナヴィー』2巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

貪欲な破産者

585. 家も無ければ家族も無い、一文無しの破産者の男がいた。彼は刑務所の中、冷たい格子に閉じ込められていた。囚人たちに与えられる食事を、男は途方もなく食べた。男の食欲のすさまじさは、刑務所の人々の心にカーフ山のように重くのしかかった。一人のひったくりがありったけの食物を奪い去ってしまうせいで、他の誰もがたった一口のパンにすらありつけずにいた。神の慈悲の晩餐から遠ざけられてしまえば、たとえスルタンであろうと、卑屈な物乞いの目つきになる。男は美徳を足の下に踏みにじった。パン泥棒のために、刑務所は地獄と化した。

590. 希望を、ささやかな安心を得たいがための逃避の場とし、その中に身を隠そうとすれば、あなたはその中でさえも災難に出会うことになるだろう。野獣無き一隅などというものは無い。一人きりで神と対峙する場を持とうとしない限り、休息というものは持ち得ない。逃れえぬこの世の狭苦しい独房では、訪問客を断りえぬ。彼らをもてなすのにも、暖を取るのにも、支払わねばならぬ代価がついてまわる。ネズミの穴に逃げ込んだところで、今度は猫のごとき爪を持つ誰かに悩まされるに決まっている。人はあれこれ夢想する。美しいまぼろしばかりを描き続ければ、夢想は再現も無く肥大する。

595. そしてもしも夢想の中に、美しくも何とも無い何かが紛れ込めば、たちまち火のついたろうそくのように溶けて消えてしまう。たとえヘビやサソリの群れの真っ只中にいようが、もしもあなたが彼らを美しいものと思い込み、神もあなたを夢想の中に置き去りにし続けたなら、ヘビもサソリもまるで友のように好意を示すようになるだろう。何故ならあなたの描く夢想が、銅を黄金に転じる万能薬として作用するからだ。美しい夢想が施されさえすれば、忍耐も甘みを持つようになる。苦痛からの開放という夢想が現実の前に立ち、心の守りとして働くためだ。こうした安寧を心にもたらすのが信仰である。信仰が弱ければ、もたらされるのは絶望と苦悩である。

600. 信仰は忍耐に王冠を授ける。忍耐無き者は信仰無き者である。預言者は告げる、「性分として忍耐を持たぬ者に、神は信仰を授けたまわない」。同じ一人の人物が、あなたの目にはヘビのような者と映り、別の者の目には、絵のように美しい者と映る。何故ならあなたが見ているのは、あなた自身から生じる夢想だからだ。あなたの夢想の中では、その人物は不信の徒として描かれている。別の者は別の者で夢想を見ている。その夢想の中では、その人物は信仰の友として描かれている。同じ一人の人物に、信仰と不信仰、二つの趣きが存在する。ある時は魚、ある時は釣り針。

605. 半分は信仰者、半分は不信の徒。半分は欲望、半分は忍耐と節制。あなたの神は告げたもう、「あなた方のうち幾人かは信じる者である」。またこうも告げたもう、「あなた方のうち幾人かは信じぬ者である」、まるで年老いた拝火教徒のように。あたかも雄牛のよう、左半分は黒々としており、残りの右半分は月のように白く輝いている。前者を見た者は誰でも拒む、後者を見た者は誰でもその後を追う。ヨセフは、彼の兄弟達の目には、使役するべき家畜のように見えていた。同時にヤコブの目には、フーリー(天女)のように見えていた。

610. 二次的な目(身体の目)も、始源の目(精神の目)も、悪い夢想を通して物事を見たがゆえに、ヨセフを醜い者として映し出したのである。身体の目などというものは、内側の目の影に過ぎぬということを知れ。たとえ何を見ようとも、外側の目は内側の目が見るものの方を向く。あなたは何処という場所に在る者、あなたの始源は何処という場所無しに在る者。こちら側の、何処という場所の店を閉じよ。あちら側に、何処という場所無き店を開け。逃げ出そうとて無駄なこと、六方いずれも逃げ道など無い。どちらへ逃げてもあるのは六つの扉だ、どれを開けようが王手詰みには変わりがない。


- さて、囚人達は、カーディーの使者に訴えることにした。この人物は、洞察力を備えていた。

615. 彼らは言った、「今すぐに、カーディーのところへ私達からの言葉を伝えに行って下さい。そしてあのひどい男が、どれほど私達を苦しめているかを訴えてきて下さい。いつまでもこの刑務所に居残り続けられちゃかないません。怠け者の放蕩者、おべっか使いの不愉快な男です。まるでハエのよう、招待もしていないのに、サラームの挨拶無しにあらゆる食卓で厚かましく振る舞う。六十人分の食事だって、あいつにとっては何ということもない。『もう十分だろう』と声をかけても、聞こえないふりをして食べ続ける。百のたくらみを以て食物の在り処を嗅ぎ付ける。他の囚人達の口には、ひとかけらの食物も入らないという有り様です。

620. 地獄の喉元のようなあいつと、一度口論になったことがあるのですよ。あいつは言いました、神は『食え(コーラン7章31節)』と命じたではないか、と。正義を!三年に及ぶ私達の飢餓に正義をお示し下さい!我らが主の御影に永遠あれ!どうかあの水牛野郎を刑務所から追い出して下さい。それか、あいつに食事の手当を払ってやるなり、公金で賄うなりして下さい。男も女も、あなたの働きあってこそ幸福になるというもの。どうか正義を行なって下さい。あなたの助力が必要なのです、どうか私達の嘆願を聞き入れて下さい」。そこで礼儀正しい使者はカーディーの許へ赴いた。そして嘆願について、点と点とをつなぐようにして仔細に説明した。

625. カーディーは一文無しの男を呼び出した。そして役人達にも命じ、直々に彼について調べ、尋ねた。すると囚人達が述べたという不満の全てが、事実であることが明らかになった。カーディーは男に告げた、「立て、そしてこの刑務所から去るのだ。全くの一文無しかと思えば、おまえには遺産として所有する小さな家があるというではないか。そこに蟄居しなさい」。男は答えた、「あなた様の恩恵こそが、私にとっての家であり家族でございます。異教の者にとって現世がそうであるように、こここそが私にとっての楽園です。もしもあなた様が私を引っ立てて、刑務所から追い出すなら、私はたちまち極貧に陥り、物乞いをする羽目になることでしょう」。

630. 悪魔は「主よ、審判の日まで私に猶予を下さい」と懇願した(コーラン7章14節)というが、この男もまた、悪魔とさほどの違いも無かった。「現世においては、私の幸福はこの牢獄にあります。こここそが私の居場所なのです。もしも私からこの喜びを取り上げると仰るなら、私は何を仕出かすか分かりません。私をここから追い出すと仰るなら、私を追い出した敵共の、子供の首を刎ねるかもしれません。来世への旅路を歩む旅人達の、一切れの信仰と一切れのパンを、策略と姦計を用いて奪い取るかも知れません。私は、自分の貧窮を武器にしてやる。時には脅し、時には誘惑し - 女が、編み上げた髪とほくろを用いて誘惑するようにね」。

635. 現世という名のこの牢獄においては、信仰という名の食物は常に不足している。ただでさえ少ないというのに、縄にかけられ野良犬の鼻先にぶら下げられ、いつ食いちぎられてもおかしくない有り様だ。祈りと斎戒、百の服従がもたらす精神の食物も、悪魔はあっと言う間にかっさらっていく。私は神に悪魔からの庇護を求める。ああ、私達を滅ぼすものは実に悪魔がもたらす自惚れと不服従である。彼(悪魔)が入り込む者なら誰であれ彼(悪魔)そのものになってしまう。誰であれ、あなた(の精神の熱情)を冷たく凍らせてしまう者があるなら、知れ、それこそ悪魔の棲む者である。

640. 悪魔は、皮膚の下に隠れるもの。自らを隠す姿形が見つからなければ、悪魔は、あなたのふとした思いつきの中に忍び込む - その思いつきが、あなたを悲痛へと導くように。楽しい夢想に隠れたかと思えば、あなたの店(職業を指す)に忍び込む。知識に隠れたかと思えば、家に、家族に忍び込む。用心せよ!言え、「神よ、私を助けたまえ」と。舌だけではなく、魂そのものから何度も、何度でも言うことだ。 - カーディーは言った、「おまえが一文無しの破産者であることを証明してみせよ」。「他の囚人達にお尋ねください」、男は答えた。「彼らが、私の証人ですよ」。カーディーは言った、「囚人達はおまえに不信感を抱いている。おまえのために血を流し、おまえから逃げ出したがっている。

645. おまえを追い出してくれ、助けてくれと訴えているのも彼らだ。囚人達は当事者だ、彼らには彼らの利害がある。従って、彼らの言葉を証言として採用することは出来ない」。正義の法廷にいた全ての人々が口ぐちに騒ぎ立てた。「そいつは一文無しの破産者ですよ、持っているのは返しきれない借りばかりだ。私達が証人になります。そいつは堕落した嘘つきの背徳者です」。カーディーが男の在りようについて人々に尋ねると、全員が口を揃えてこう答えた、「閣下、かの破産者には関わらぬ方がよろしゅう御座います。どうぞ閣下の手をお浄め下さい」。そこでカーディーは言った、「男を連れて市内を一巡せよ。全ての住人に、この男について知らしめよ。そして『この男は一文無しの悪党だ』と布告せよ。通りという通りにおいて声高く宣言せよ、広場という広場において太鼓を叩け。この者が破産者であることを知らしめよ。

650. 商いをする者は、この男につけ売りをしてはならない。金貸しをする者は、この男に銅貨一枚も貸してはならない。この男が詐欺を働いたと訴え出る者があったとしても、私は二度と再びこの男を、私の刑務所に預かることはないだろう。今やこの男が破産者であることは証明済みである。彼は何ひとつ持たない男だ。彼には支払う金も無ければ、売りさばく品も無い」。 - 全てのヒトは破産者である。故に全てのヒトは、等しく現世という名の牢獄に繋がれる*1。イブリースも同様だ。

655. 我らが神は、我らがコーランにおいて宣言する、「かの者は破産者、詐欺師である」と。「かの者は嘘をつく。故に汝らはかの者といかなる関わりも持つな、いかなる取引もするな」と。あなたが彼(悪魔)と関われば、彼をのさばらせる口実を与えることになる。彼は支払不能の破産者なのだ。どうして彼から、利益を得ることなど出来ようか。騒擾が持ち上がった。彼らは薪売りのクルドからラクダを取り上げ、その場へ連れて来た。困り果てたクルドは大声で抗議した。(ラクダを連れてくるよう命じられた)役人をおだて、呪いの贈り物(註:賄賂)を渡そうともした。しかし哀願も虚しく、朝から晩まで、彼はラクダを取り上げられてしまった。

660. 飼い主がその踵にすがりつく間にも、かの破産者の男 - 怒れる飢餓、生ける傷口 - はラクダの上に乗せられた。全ての住人達に知れ渡るよう、区画という区画を、通りという通りを彼らは練り歩いた。あらゆる公衆浴場から、あらゆる市場まで、通り過ぎる男の顔に人々の視線が注がれた。とりわけ大きな声を持つ十人のテュルク、クルド、アナトリア、アラブが高らかに宣言した。「この男は一文無し!この男は一文無し!この男に、びた一文でも貸してはならぬ!

665. 逆さにしても裏返しても、ノミの一匹すら持ち合わせておらぬ!一文無しの破産者、嘘つきのごろつき、役立たずのアブラムシ!ご用心!ご用心!この男と取引してはならない!この男が雄牛を売りつけに来たなら、汝の財布の口をきつく閉じよ!再びこの男が法廷に連れだされたとて、牢獄に屍体は繋げない!弁舌爽やかなこの男、その喉は何もかもを飲み込んで底が無い!それらしく見せかけるために新しい下着を身につけ、ぼろぼろの外衣をまとう者!市井の民を安心させて、それから騙すために借りてきた衣裳を身につけているに過ぎぬ!」。

670. おお、無邪気な人々よ!知れ、愚者の舌から生じる知恵の言葉は、賢者から借りた衣裳に過ぎぬ。どれほど見事な衣裳を身につけていようが、盗人は盗人、手を切り落とされし者に過ぎぬ。手を切り落とされし者が、どうしてあなたに救いの手を差し伸べることなど出来ようか? - やがて夕暮れが訪れ、破産者の男はラクダから降ろされた。ラクダの飼い主のクルドが言った、「おれの住処は、ここからずっと離れた遠いところにある。あんたは朝早くから、おれのラクダに乗っていた。大麦を買ってくれとまでは言わないが、せめて干し草の分くらいは払ってくれよ」。「おやおや」、破産者の男は言い返した。「今日の一日中、私ら全員が一体何をやっていたと思っているんだね。あんたにはものを考えるってことが出来ないのかね。それとも、頭の中がお留守なのかね。

675. 私が一文無しだってことは、一番高い天の、そのまたてっぺんまで知れ渡ったはずだ。けれどすぐ近くにいたおまえさんに、悪い報せは届かなかったようだね。愚にもつかないそら頼みは、大事なことから耳を塞いでしまうんだよ。教えてやろう、お若いの。人の耳っていうものは、自分に都合の悪いことは聞かないように出来ているんだ」。土塊から小石にいたるまで、耳にしたはずだった、「この男は一文無し!この男は一文無し!この男は支払不能の破産者である!」、との宣言を。布告者達は、日が暮れるまで宣言を繰り返した。それでもラクダの飼い主には何の気づきも与えることは出来なかった、彼が愚かな望みを抱え続けていたが故に。神の封印は、聞く耳、見る目に施される(コーラン45章23節)。覆いの内側は、様々な事物、様々な物音で満たされている。

680. 御方は、そうと決めたもう目に、そうと決めたもう物事を見せたもう - 愛の在りよう、美の在りよう、そして完全の在りよう。見るもの全てが、御方が見せたもうものである。そして耳が聞くものも同様である。御方は、そうと決めたもう耳に、そうと決めたもう物音を聞かせたもう - 音楽を、吉報を、歓喜の泣き声を。世界は救済で満ちあふれている。しかし神があなたのための窓を開けたもうまで、あなたに救済は届かない。ょうど今この瞬間には、救済について、あなたは知らず、また気付いてもいない。けれど神は、それが必要とされる時に、それを減らしたもうのである。 - 預言者は告げた、いと高き神は、あらゆる苦痛を取り除く治療を造りたもう、と。

685. しかし主が命じたもうこと無しには、あなたは苦痛を取り除くその治療の、影も形も見ることはないだろう、と。来たれ、おお、治療を探し求める者よ。あなたの目を、見えざるものの方へと転じよ - たった今息を引き取る間際の者が、最後に全てを見るかのごとくに。「何処」という場所を持つこの世界も、元はと言えば「何処」という場所とは関わり無きところから生じている。こちら側の世界は、あちら側の世界から多くを受け取っている。こちら側から、あちら側へと引き返さねばならぬ - もしもあなたが主を探し求める者ならば、もしもあなたが主に属する者ならば。逃げ出すな、有から無へと引き返せ。何故なら無のあちら側こそが、あなたに有をもたらす。多いの、少ないのと移り変わるこちら側は、費やす他には何の実入りも無い。

690. 無こそは神の工房。工房の外にあるものなど、役立たずのがらくたばかりだ。おお、御方よ。我らが心に精妙なる言葉を与えたまえ - 我らは与えられた言葉もて祈るだろう、おお、栄光の<ひとつ>なる御方よ、あなたの慈悲がもたらされますように、と。祈りも、祈りへの応えも、いずれもが御方の許より届けられるもの。平安も、畏怖も、いずれもが御方の許より届けられるもの。我らが過ちを語ったなら、主よ、我らをただしたまえ。御方こそは過ちをただす者、御方こそは言葉を統べるスルタン。あなたの錬金術を用いて、何であれ如何様にも変じたもう - ナイルの川を、血の川に変じたように。

695. そうした錬金術の御業こそは御方に属するもの、万能薬の秘密は御方の御手の裡にある。あなたは水と土とを共にこね、水と土からアダムの身体を造りたもう。あなたは彼に配偶を与え、血縁を与えたもう。母方を造り、父方を造り、千の思考と感情を、歓喜を、悲哀を与えたもう。そしてまた、その中の幾人かには救いの手を差し伸べたもう - 彼らを悲哀と歓喜から切り離し、移ろい乱れる感情から解放したもう。あなたは、彼らを親族や縁者から、また彼ら自身の性質そのものからも切り離して解放したもう。彼らの目には、美しいものも醜いものと映る - 彼らの目は、もはや美醜に囚われない。

700. 見えるもの、感覚が与えるものを全て断ち切ることを選び、見えざるもの、純粋なるものの方へと歩み寄る。顕われるのは御方の愛。御方を愛する者は隠される。我らが友は外側に在る。けれどその美は内側に在る - 一切を捨てよ、此処を立ち去れ。形有るものに注ぐ愛に、何の価値があるだろうか?女の顔の美醜が、女自身のためになった試しがあっただろうか?愛とはフォルムに注ぐものではない。フォルムはあなたに愛を返しはしない、愛はフォルムを持たない。姿形に惹かれて愛そうとしたところで、魂が伴わなければ引き下がるだろう。何故に引き下がるのか、何故に捨てるのか?

705. 姿も形も、未だにそこにあるというのに。何故に嫌気をさしたのか?わが友人よ、自らに尋ねよ、あなたが真に愛するものとは何なのか、あなたを真に愛するものとは誰なのかを - もしも我らが「愛する者」が、身体の感覚によって捉えられるものならば、感覚を持つ誰しもが、愛を知らずにはおれないだろうに。変わることのない忠誠をいや増すのは、目には見えぬ愛の為せるわざ。やがては消える姿形に、愛を深まらせることなど出来はしない。太陽の光が壁を照らす、借りものの光で壁が輝く。単純な者よ、あなたはいつまで煉瓦に心を奪われ続けるのか。輝きの根源にこそ目を向けよ。

710. 一方で、自らの知性を愛する者よ。偶像を崇拝する者達よりも、自分の方が優れているとみなす者よ。あなたが「知性」と考えるそれは、あなたの所有ではない。全的知性の光によって、あなたの感覚認識が照らされているに過ぎない。あなたという銅貨を元手に、金貨を借りているに過ぎないのだと心得よ。ヒトの美というのは金メッキのようなものだ。そうでなければ、どうしてあなたの恋人が、年老いたロバのように成り果ててしまうのか。かつては天使のようだった恋人も、やがては悪魔のように醜く変わる。何故ならヒトがまとう美は、ほんのひと時、借りてきただけのものだからだ。御方は、少しづつ、貸し出していた美を連れ去りたもう。若木は、少しづつ枯れてゆく。

715. 行って書物を読め、「長寿を授けてやった者の、体力を衰えさせることもできる(コーラン36章68節)」。魂を探し求めよ。魂を、骨と骨の間に置き忘れたままにするな。何故なら魂の美こそは、変わらずに永続する美なのだから - その唇は、生命の水を飲むために与えられたもの。真実のところ、それは生命の水であると同時に、生命の水を注ぐ者でもあり、更に水を飲む者でもあるのだ。酔わせる水、酔わせる者、そして酔う者 - あなたが「あなた」という名の古い護符を捨て去った時にこそ、ばらばらであった三者が<ひとつ>になる。この統一、この<ひとつ>は、理論によって推し量ることが出来るものではない。奉仕をするならば神にこそせよ、おお、分別を弁えぬ愚か者よ!

720. あなたがリアリティと呼ぶものは、時間と空間に区切られたフォルムに過ぎない、そしてそれさえも借り物に過ぎないのだ。あなたは未だに自らの理解出来る範囲でのみ喜び、二番煎じの韻を踏んでは喜ぶ。あなたを夢中にさせるお遊びを全て奪い去り、あなたを囲むあらゆるフォルムを剥ぎ取るもの - それこそがリアリティである。リアリティとは、あなたの目を奪い、あなたの耳を塞ぐものではない。フォルムへの執着を増やすようなら、それはリアリティなどでは断じてない。見ようともせぬ者に与えられる分け前など、苦痛をいや増す気まぐれだけだ。精神の目が開いた者なら、分け与えられるのはファナー(自我の消滅)の夢である。見えぬ者には大量のコーランが、それもコーランの文字ばかりが詰まっている。コーランの字義にしがみつく者は鞍にしがみつく者、ロバそのものを見失った者。目の見える者ならロバをこそ見よ、あなたから逃げ出したロバの後を追え。一体いつまで鞍にこだわり続けるつもりか、おお、鞍を崇拝する者よ。

725. ロバ無しに鞍を持って何になるだろうか。ロバを手に入れさえすれば、鞍など後からいくらでも手に入る。あなたにその気があって初めて、パンもあなたの力になるのだ。ロバの背には、店(仕事)と財、戦利品とが積まれるだろう。心に宿された真珠の粒は、百人の胃を満たすだろう。ぐずぐずするな、とっととロバに乗れ!鞍が無かろうが構うものか。預言者でさえ、鞍無しのロバに乗っていたではないか。預言者は裸のけものの背にまたがった。そしてまた、預言者は自分の足で旅することも厭わなかった。ロバ - あなたの我欲 - を野放しにするな。あなたの我欲を杭につなげ。一体どれほどの長い間、為さねばならぬ仕事から、運ばねばならぬ重荷から逃げ続けるつもりなのか - 一体いつまで逃げ続けるのか。

730. ロバは調教せねばならない、百年だろうが、三十年だろうが二十年だろうが、忍耐と感謝という積み荷を運ばねばならぬ事には変わりがないのだ。荷を負う者は他の者の荷を背負うことは出来ない、何かを植え付けない限り、収穫を得ることも出来ないだろう。ただで手に入れようなどと思うな、甘いが不合理な夢など見るな、それは生(なま)のままの食べ物のようなものだ。生の食べ物は食べるな、おお、若者よ。生の食べ物は病気をもたらす。「誰それが宝物を見つけたそうだ。俺にも同じ事が起きてくれたら良いのに!一生働かずに遊んで暮らせるぞ」などと言うものではない。それは天命の為せること、しかも極めて稀なこと。体が動いている限り、生計は立てねばならぬ。生計を立てることは、宝物を掘り当てることの邪魔にはならぬ。

735. 仕事は続けねばならぬ、身を引いてはならぬ。何故なら真の宝物は、まさに仕事の後ろにこそ控えているからだ。あなたが「もしも」の牢獄に、囚われることのないように!決して口にするな、「もしも私が…していたら」「あるいは…だったなら」などと。誠実なる預言者は人々に、「もしも」と言うことを禁じた。そしてこうも告げた、「それは偽善から発せられる言葉である」と。「もしも私が…していたら」「あるいは…だったなら」。偽善者は、死の間際までそう言い続ける。「もしも」という言葉によって彼らが一生のうちに得るものなど、後悔の他には何も無い。

 


*1 当時のイスラム法下では、破産者の債務超過が証明された場合、禁固刑の可能性は取り消された。