イエス(平安は彼と共に)と、骨を生き返らせるよう頼んだ男

『精神的マスナヴィー』2巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

イエス(平安は彼と共に)と、骨を生き返らせるよう頼んだ男

ある一人の愚か者が、道を行くイエスと共に歩き始めた。歩くうちに、彼は深く掘られた穴の底に何がしかの骨を見つけた。彼は言った、「おお、同胞よ。私に『偉大なる御名』を教えてくれ。あなたがそれを唱えれば、死者も生き返るそうではないか。私にも教えてくれ、善いことをしたいのだ - あの骨を、生き返らせてやりたいのだ」。イエスは言った、「余計な事を!口を閉じていなさい、それはおまえの仕事ではない。おまえの吐息、おまえの言葉はそれにふさわしいものではない。

145. それを唱えるには、雨よりも純粋な吐息と、天使よりも凛とした行為を必要とするのだ。呼吸を浄化させるためには一生涯を必要とする、それで初めて、天界の宝庫を信託として預かれるようになる。さあ、私が今話したことは杖の握り手、しっかりと掴みなさい - おまえの手を、モーセの手のように清いものとしたいのなら」。彼は言った、「ああ分かった、私が聖なる秘密にふさわしく無いってことですね。それならあなたが唱えて下さい。偉大なる御名を、あの骨にむかって唱えて下さいよ」。イエスは叫んだ、「ああ、主よ。一体、何をお望みですか。何を意図しておられるのですか。何故に浅はかな者というのは、実を結ばぬ無意味なことに夢中になるのですか。

150. 病人でありながら、治療を避ける者があるのは何故なのですか - この男、自らの死せる魂には何の関心も払わず、それでいて見ず知らずの骨を生き返らせようというのです」。「堕落する者というのは、常に自ら求めて堕落する」、神は応えて言った。「彼自身が蒔いたアザミの種が、彼自身の中で育ち生い茂っている - ごく当然の成り行きだ」。彼は世にアザミの種を蒔く者、彼を薔薇園で見かけることは無いだろう。彼が薔薇を手にすればそれはアザミとなり、友を訪れればそれは蛇となる。

155. 学ばぬ愚か者は悪しき万能薬のよう、毒にもなれば蛇にもなる。神を畏れる者の万能薬とは、まるで正反対に働く。


寓話:スーフィーとロバと下働きの男

一人のスーフィーが、世界中を放浪したその果てに、スーフィー達の修道場を訪れて一夜の客となった。彼は一匹のロバを連れていた。彼はロバを厩舎につなぎ、自分は同胞達に加わって、最上部にあたる席に座した。それから、彼は同胞達と瞑想を共にした。(神の)友とはあたかも書物か、あるいはそれ以上の存在である。スーフィーにとり、書物とは黒いインクと紙によって出来たものを指すのではない。雪のように純粋な白い心こそ、スーフィーの書物と呼ぶにふさわしい。

160. 学者達が世に遺すものは筆の跡、文字と言葉の連なりだ。ではスーフィー達が世に遺すものとは何か?足の跡だ。彼(スーフィー)は狩人のごとく獲物に忍び寄る。ジャコウジカの足跡を見つけ出し、その足跡に続く。しばらくの間は、シカの通った痕跡こそが彼にとり好ましい手がかりとなる。しかし時が経てば、やがてはシカの中心にあるもの(香りを放つじゃこう腺)こそが、彼の導き手となる。道を示す痕跡に、与えられた知識に感謝を捧げつつ行くべき方角へと旅を続けていれば、自ずと辿り着くべきべき目的地に辿り着くこと必定である。じゃこう腺の放つ芳香を知り、その導きによって一足飛びに目的地に辿り着くことは、あちらからこちらへと足跡を追いかけ、歩き回り、百の寄り道をするよりももよほど優れている。

165. 月の光(神の光)が放たれる場となった心は、神的知識を求める者にとっての開かれた扉(コーラン39章73節)である。あなた方にとっては壁のようでも、彼らにとっては扉なのだ。あなたにとっては石ころのようでも、慕わしき彼らにとっては真珠なのだ。あなた方は鏡に映し出されているものをはっきりと見る。ピールならば、鏡がれんがであろうと、あなた方よりもなお多くを見ている。ピール達の精神は、この世界の出現よりもはるか以前から恩恵の海原を泳ぎ、身体が創造されるよりもはるか以前にいくつもの生を渡って来た。彼らは種を蒔くよりも以前に収穫された小麦を受け取りし者達、

170. フォルムの創造よりも以前に精神を受け取りし者達、創造の海原よりも以前に真珠を受け取りし者達。ヒトについて、在らしめるべきか否かの議論(コーラン2章30節)が未だ終わらぬうちから、彼らの精神はすでに全能の神の海原からその喉首を突き出していたのである。天使達がヒトの創造に反対するのを見て、彼らはこっそりと手を叩き、天使達を鼻で笑った。<ひとつ>であった魂が、物質という容れ物に縛られるよりも以前に、彼らは存在を形造る全ての物質について、知識を得ていたのである。宇宙の創造よりも以前に土星を目にし、小麦の収穫よりも以前にパンを口にしていたのである。

175. 脳髄も、知覚も無しに彼らは思索に満ちており、軍勢も、戦争も無しに彼らは勝利を手にしていた。即座に閃く直観も、彼らに起こることならばそれは熟考であり、彼らの視界には(神から)遠く離れた人々には見ることも叶わぬものが映っていた。思案とは、過去か未来に属するもの。これら二つから解放された時こそ、困難からも解放されるだろうに - 精神は葡萄の裡にワインを見る、だが精神は物質という器を見ない、つまらぬものには眼もくれない。精神の前では、あらゆる条件、あらゆる前提が無効になる - 実存の鉱山を目の前にすれば、そこに本物の金貨と贋金とを同時に「見る」のだ。

180. 葡萄の創造よりも以前にワインを痛飲して酩酊の興奮を隠そうともせず、酷暑の七月に十二月を眺めて涼やかにしている。太陽の日差しの裡に陰を見出す者達、葡萄の心の裡にワインを見出す者達。彼らは、完全無欠のファナー(消融)の裡 - 客観的実存の消失点 - にこそ実存を見出す。彼らの杯がからからと廻れば空に風吹き渡り、太陽はその身に彼らが織った金糸の衣まとう。もしもあなたが、彼らのうち二人が友として会っているのを見たならば、実のところそれは二人では無く一人なのだ - そして同時に、彼らは六十万人でもある。

185. 彼らを数えるのは、波を数えるのと良く似ている。風が吹けば一から多へ - <ひとつ>であった彼らから大勢を連れ出してくる。太陽が<ひとつ>の精神ならば、光を切り離す窓は身体だ。あなたが太陽の姿をよく見つめれば、それがひとつの球体であるのが分かるはず、だが窓という身体に囚われている者は、差し込む光線が実は<ひとつ>なのだと言われても疑わしく思うことだろう。多、すなわち分離は動物的精神の産物である。人間の精神は本質において<ひとつ>だ。そもそも、彼ら人類の上には神が御自らの光を降り注ぎたもうたのだ。別々の身体をまとおうとも、御方の光は決して切り離されることは無い。

190. おお、道を共にするわが僚友よ。疲労を脇に置け。疲労についてほんの一瞬だけ忘れておくれ、かの「美」について、ほんの一粒だけ語らせておくれ。主の美しさというもの、これは言葉で語り尽くすことは出来ぬ。二つの世(物質的世界、精神的世界)とは何であろうか?いずれも、御方のほくろの反射なのだ!主の美しきほくろ、と、こうして口にするために息を吸い込み、そして声にして吐き出す、ただそれだけで私の体は歓喜のあまり破裂しそうだ - 私はまるで穀物蔵を這うアリのよう、ちっぽけな身に余る一粒を背負って運ぶこの私の、何と幸福なことだろう!


- さて、そろそろ光を羨んで、私に指図する者が言い出す頃だ、「汝の話すべきことを話せ」、と。

195. 海の表面に、波が泡立ち障壁となる。潮が引き、引いた後には再び寄せて満ちる。今はわが語りを中断しよう、そしてわが語りを中断したものに耳を傾けよう - 思うに、その聞き手の心はここに在らず、一夜の宿を求めたスーフィーの客の行く末が気になって仕方がない様子。喉元まで、すっかりその一事に浸かりきっている。そのようなわけで、ここはひとまず講義を中断し、何が起きたのか、寓話の続きに戻って聞かせてやるのが私の務めというものだろう。おお、わが親愛なる友人達よ - 上っ面でスーフィーを判断するな。見かけに騙されるな。、あなたは一体いつまで子供のように、くるみだの干しブドウだので満足するつもりなのか。

200. 息子よ、私達の身体はくるみや干しブドウのようなもの。いつまでもその二つを欲しがるな。大人になったなら、大人らしくきっぱり断ち切れ。そしてもしも自分自身だけでは、到底断ち切ることが出来ないとしても、案ずるな、神の恩寵が助けとなろう。九つの(天の)階梯を追って、必ずや引き揚げたもうことだろう。さて、物語の、外側に顕れる部分について語るとしよう - 聞け、だが注意深くあれ。もみ殻と麦粒とを選り分けるのだ。


精神の糧を求めて執り行われたスーフィー達の瞑想が、やがて恍惚と熱狂に包まれて終わりを告げると、彼らは食物が載せられた皿を客人に運んできた。それで彼は、自分の連れであるけものの事を思い出した。

205. 彼は下働きの男に言った。「厩舎に行って、あのけものに干し草と大麦を十分に与えてやってくれ」。「ラー・ハウラ(なんてこった)!」、彼は答えた、「そんなにがみがみ、口うるさく言わんでも。もうずいぶんと長いこと、それが私の仕事ですよ」。スーフィーは言った、「大麦は、いったん湿らせてから与えるのだよ。何しろあのロバはすっかり年老いて、歯もぐらいついているからね」。「ラー・ハウラ!」、彼は言った、「だんな、何だってそんなことをわざわざ私に言うんです?これが私の仕事なんだから、私が自分で決めますよ」。スーフィーは言った、「何より、まずは鞍を外してやってくれ。それから、傷んでいるだろう背中に、マンバルの膏薬を塗ってやってくれ」。

210. 「ラー・ハウラ!」、下働きの男は声高に叫んだ。「物知りでいらっしゃいますなあ!私ゃあなたみたいなお客人ばかり、今までにも何千人と面倒を見てきたんです。誰もかれも、翌朝にはすっかり満足して旅立って行きましたさ。何しろお客人というのは、私らにとっちゃあ命も同然、家族みたいなものですからね」。スーフィーは言った、「水を飲ませてやってくれ、ただしぬるめに温めたものを」。「ラー・ハウラ!」、彼は叫んだ、「あんた、いい加減にしてくれよ。こっちが恥ずかしくなるじゃないか」。スーフィーは言った、「大麦には、短く切った干し草以外は混ぜるなよ」。「ラー・ハウラ!無駄話も短く切って下さいよ」、彼は答えた。スーフィーは言った、「寝床には、小石や糞が混じらないよう掃き清めるんだ。地面が湿っているようなら、乾いた柔らかい土をかぶせてやってくれ」。

215. 「ラー・ハウラ!」、彼は叫んだ、「神様、お助け下さい!だんな、私ゃ自分の仕事についてはようく分かっていますよ。だからこれ以上の小言は勘弁して下さい」。スーフィーは言った、「くしを持って行って、ロバの背中を梳いてやってくれ」。「ラー・ハウラ!だんな、あんたはとんだ恥知らずだ」、彼は言った。下働きの男はそう言い残すと、腹を突き出し身構えた。「私ゃ行かせてもらいます」、彼は言った。「まずは干し草と大麦を取りに行きますよ」。彼はその場を立ち去り、厩舎には近づこうとも思わなかった。ウサギのそら寝のごとく、彼はスーフィーをぺてんにひっかけてやった。下働きの男はまっすぐに悪友共の許へ行き、スーフィーが与えた訓戒について罵倒した。

220. 一方のスーフィーは、旅の疲れをいやそうと、手足を伸ばして横たわった。眼を閉じると、彼は夢を見た。彼のロバがオオカミの群れに襲われて、助けも無いまま八つ裂きにされる夢だった。「なんてこった!」、彼は叫んだ、「なんと不吉な。ああ、あの親切な下働きの男はどこにいるのだろう?」。またもや、ロバが夢に出てきた。今度は道を歩いているのだが、井戸に落ちたり、溝に嵌まったりしている。ありとあらゆる悪夢にうなされ、彼はファーティハ(コーラン1章)とカーリア(コーラン101章)を唱えた。

225. 彼はひとりごちた。「助けてやりたくとも、私に何が出来ようか?同胞達もあわただしく去ってしまったし。私は一人取り残されて、扉も全て閉め切られている」。それから、彼は再び言った、「ううむ、何かが引っ掛かる - あの下働きの男め!あいつはくわせ者だ。あいつ、私達とのパンと塩の友誼はどうなっているのか。私は彼に、あくまでも礼儀正しく穏やかに接したはずだぞ。それなのに、どうして彼はお返しに憎悪を差し向けるのだろうか?何であれ、憎悪には必ず理由があるはずだ。お互いに同じ人間なのだから、友人同士になれないはずがない」。しかしまた、彼はこうも考えた。「優しく寛大なアダムが、一体いつイブリースを成敗してのけただろうか?

230. 死と苦痛をもたらすことを生業とするヘビやサソリを相手に、未だ人間は手も足も出せないでいるではないか。結局、オオカミはオオカミ以外の何ものにもなれない。切り裂くことがあれらの本能なのだ、ヒトから見れば、妬み深いことこの上も無い」。それからまた、彼はこうも考えた。「いやいや、疑うのは間違っている。自分の兄弟について、こんなふうに悪く考えるのはよくない」。しかし彼は再び思い直した。「思慮分別とは、まさしく思考することによって身に付くものではないか?悪について思考しない者が、悪から無傷でいられるという保証も無いのだ」。ロバが苦境に陥っている間も、スーフィーはひたすら悶々と苦悩し続けた - このような状態こそが呪われるべき最悪の敵だ!

235. 哀れなロバは石ころだらけの場所にいた。鞍は重くのしかかり、おもがいが食い込んで裂けそうだった。旅のおかげで死にそうに疲れ切っているのに、食物も与えられず、息も絶え絶えになって長い夜を過ごした。一晩中、ロバは繰り返し祈った、「ああ、神様!大麦はあきらめますから、せめて干し草を一握りだけでもお与え下さい」。言葉をもたぬこの生きものは、沈黙の雄弁さをもって訴えた、「シャイフよ、どうか憐れんで下さい!粗野で厚かましい悪者のせいで、私は苦悶のうちに命をすり減らしております!」。まるで飛べない家禽の類いが洪水に苦しむかのように、ロバは苦しみ、痛みに身悶えした。

240. それから一晩中、哀れなロバは飢えのために眠ることも出来ず、夜明けまでのたうち続けた。やがて日が昇った。朝になり、下働きの男がやって来た。彼は素早く鞍をつかみ、ロバの背中に載せ直した。それから、ロバを売り買いする商人達がするように二発、三発と殴りつけた。彼がロバにしたことは、まさしく彼のような野良犬にこそふさわしい仕打ちだった。鋭い痛みに、ロバは跳ね起きた - たとえ彼に言葉が話せたとしても、今のこの感情をどう言い表せば良かっただろう?スーフィーが彼にまたがり出発すると、ロバは幾度となく頭から前のめりに倒れ込んでしまった。

245. そのたびに、行き交う旅人達がロバを抱き起こした。彼らは皆が皆、ロバが病気なのだろうと考えた。ある者は耳を強く引っぱり、またある者は隠れた傷は無いかと口をこじ開けた。別のある者は石が挟まったのではないかとひずめを探り、また別のある者は、塵か埃でも入っているのではないかと目の中を覗き込んだ。彼らはまた、こうも言った、「おお、シャイフよ。一体、何があったのですか。昨日は、ロバのためにちゃんとお祈りを捧げなかったのじゃありませんか?『神様、おかげさまで今日も私のロバは健やかです』と、ちゃんとお祈りしなくっちゃあ駄目ですよ」。彼は答えた。「一晩中『ラー・ハウラ』を食べ続けたこのロバには、他にどうすることも出来ないのだよ。

250. 『ラー・ハウラ』以外に食べるものもなく、夜はお祈りで過ごし、昼はひれ伏しながら過ごしているのだ」。ヒトのうち、その殆どはヒト食いだ。「サラーム(平安あれ)」と言われようが信頼するな。口先だけなら誰にでも言える、すべからくヒトの心は悪魔の住まう館だ。悪魔のごとき者どもの無駄話を受け入れてはならぬ。悪魔の口から出た「ラー・ハウラ」を飲み込んだ者は、戦いの最中に頭から倒れ込むだろう - あのロバのように。誰であれ、この世において悪魔の働く詐欺を受け入れて飲み込み、友のふりする敵どもの世辞と虚偽とを受け入れて飲み込む者は、

255. イスラムの道で、スィラートの橋(天国への架け橋)で、その頭上をめまいが襲いかかることだろう - あのロバのように。用心せよ!悪しき友の媚へつらいに耳を貸すな。罠に気を配れ、身の用心も無しに軽々しく地上をうろつくな。見よ、「ラー・ハウラ」を口にする幾千、幾万もの悪魔どもの群れを!おお、アダムよ、ヘビの裡にイブリースを見抜け!彼は何の足しにもならぬ無駄な言葉の数々を、あなたに浴びせるだろう、「おお、わが魂よ、おお、わが愛しき者よ」と。それから彼は、彼の「愛しき者」の皮膚を剥ぎ取ろうとするのだ、肉屋が肉にそうするように。甘い言葉をかけるのも、あなたの皮膚を剥ぎ取ろうと目論んでいるからだ。敵の口から流れ出たアヘンを飲む者の、何と悲惨なことか。

260. あなたの足許に這いつくばって追従し、肉屋のように甘い言葉でそそのかし、容赦なくあなたの血を流そうと企んでいる。ライオンのようであれ!狩られるな、餌付けされるな - 餌が欲しければ自ら狩れ!他人であろうが知人であろうが、媚を売られても買うな、素知らぬふりでその場を立ち去れ。知っておけ、他人の評価をあてにするのは、あの下働きの男に頼るのと同じことだ。取るに足らぬ者の世辞や追従を受け入れるくらいなら、いっそ人交わりせずに孤独である方がよほどましというものだ。他人の評価などあてにするな、他人の土地に自分の家を建てるような真似はするな。自らの仕事に精を出せ、見知らぬ他人の仕事に手を出すな。「見知らぬ他人」とは誰のことか?あなた自身の肉体のことだ。現世におけるこの器、あなたを悲しませる全てが生じるところのことだ。

265. あなたが長らく自分の身体を、脂肪(金銭)と砂糖(食事)で甘やかし続ける限り、あなたは自分の(霊的な)本質における肥満に気づかないだろう。身体にじゃ香をたっぷり使っても、死んでしまえばその悪臭は隠しようもなく漂う。じゃ香は心にすり込むものだ、体ではなく。じゃ香とは何か?栄光の御方の、聖なる御名がそれだ。偽善者はその体にはじゃ香をつけても、その精神は灰溜めの底に置き忘れる。その舌で神の御名を唱えはしても、魂は不信の匂いを漂わせる。

270. 彼にとり礼賛もそのようなもの、薔薇と百合とを肥桶に花を生けるようなもの。疑う余地なくそれらは借り物、どこか別の処に育った花々。祝宴、祭礼の場こそが、それらの花々の真に属する処だ。「善き女は善き男のために」、そして書物には続けてこう記されている、「悪き女は悪き男のために(コーラン24章26節)」。用心せよ、用心せよ!悪意を抱きかかえていてはいけない。悪き者とは悪意を受け入れ、悪意の後を追って堕落した者。悪き者の隣こそ、彼らの墓穴となろう。悪意の出処は地獄である。これぞあなたの宗教の敵、あなたの悪意も例外無く全体の一部分だ。悪意を通じ、私達自身が地獄の一部分なのである -

275. 用心せよ、あなたも地獄の一部分であることを注視せよ!部分は、その全体へと引き寄せられるもの。憎悪に満ちた者は、必ずや憎悪に満ちた者の方へと引き寄せられるだろう。無駄な呼吸(虚偽の言葉)が、どうして真実と繋がれるだろうか?わが同胞よ、あなたの思考があなたの全てだ。あなたの思考が、あなたという人物そのもの - それ以外は骨と筋の残骸に過ぎない。あなたの思考が薔薇ならば、あなたは薔薇園となろう。けれどもしも(思考が)棘ならば、あなたは(地獄の)窯の薪となろう。もしもあなたが薔薇水ならば、頭に、胸に振りかけられよう。けれどもしも(悪臭を放つ)小水ならば、あっという間に追い払われよう。

280. 薬剤師の前にずらりと並ぶ受け皿を見よ - 薬は一種類づつ受け皿に盛られ、似たもの同士で隣り合わせに並べられている。系統立てられ、秩序に従い同質のもの同士が組み合わさることにより、一定の洗練が生じるのだ。もしも薬剤師の、沈香と砂糖とが混ざってしまったとしても、彼にはそれら一粒一粒の違いを見分けることが出来るだろう。 - 受け皿は壊れ、魂はこぼれ落ちてしまった。善と悪とが、互いに混ざり合ってしまった。そこで神は、散らばった麦の粒を再び皿へ拾い集めようと、預言者達に(啓示の記された)巻物を授けて遣わしたもう。

285. それより以前、私達はひとつの群れだった。善悪の区別も無く、私達自身が善であるか、悪なのかについて誰ひとりとして知らずにいた。明けることの無い夜の闇の中で、贋金と純金を見分けるすべもなく、どちらも同じ価値持つ貨幣として世の中に出回っていた。そして私達は、まるで夜を旅する者のようだった - 預言者達という太陽が昇り、「贋金よ、立ち去れ!来たれ、純粋なる者達よ!」と告げるまでは。眼はルビーと石ころの違いを見分ける、眼は宝石とがらくたの違いを知っている - がらくたの破片は目を刺すがゆえに。

290. 鉱山から生じる金は昼を愛する者、けれどがらくた造りの模倣者達は、昼を憎んでその敵となる。昼の日の光は純金とは何かを知らせる鏡だ。何に価値があり、何に価値が無いのかを知らせる。アシュラフィ(金貨)も昼の光に照らされてこそ、輝きという名誉の贈り物を受け取るのだ。それゆえ、神は復活に「日」という称号を与えたもう、光あふれるその日、赤や黄の色とりどりの美が鮮やかに顕されよう。聖者達の奥深くにある意識とは、実に日の光そのものである。彼らにあっては日の光は、月に反射する影のごときもの。昼とは、神の人の知識が顕された覚醒の状態だ。対して夜は目も閉ざされ、神秘は神秘のままに隠蔽された状態である。

295. ゆえに神は告げたもう、「朝にかけて(コーラン93章1節)」と。朝とはすなわちムスタファ(ムハンマド)の、隠されていた意識の光を意味している。また別の言い方をするなら、「朝」という現象もまた、愛する者(神)の反映であることを示している - それを知らずに、移ろい変わりゆく現象それ自体に誓いを立てていると解するのは明らかな過誤である。神の御言葉は永遠不変であり、消え去ることも無いのだから。かの友(アブラハム)は言っている、「私は沈むものを好まない(コーラン6章76節)」。栄光の主が、昇っては沈んで過ぎ去る何かに誓いを立てるはずが無いではないか。そしてまた「静まりゆく夜にかけて(コーラン93章2節)」 - 夜、それは彼(預言者)の隠蔽を指す。彼を覆う、現世における身体という錆を示している。

300. やがて彼の太陽があの空を昇るとき、それは夜という身体に告げる、「汝の主は汝を見捨てたもうたわけではない、汝を憎みたもうたのでもない(コーラン93章3節)」と。見捨てられたかのような別離の苦しみを知ってこそ、合一の本質が明らかになるのである。憎まれたかのような悲しみを知ってこそ、愛の、合一の甘美を知るのである。言語とは象徴だ - 実に、あらゆる言語表現とは何がしかの状態を象徴に置き換えるということである。状態が手ならば、表現とは手に持つ道具だ。金細工師の使う道具を靴職人に持たせても、砂漠に種を蒔くようなもの、革なめし屋の道具を農夫に持たせても何も生まれず、犬の目の前に藁を積んでも、ロバの目の前に骨を投げても何の足しにもならぬ。

305. マンスール1の唇から出た「われは真理なり」という言葉は真理の光であった。だがファラオの唇から出た「われは神なり」という言葉は虚偽であった。モーセの手に握られた杖は(真実の)証言者となり、魔術師の手に握られた杖は宙に散る塵となった。イエスが、旅の道連れとなった未熟者に主の御名を教えなかったのもこのためだ。正しい使い道を知らず、悪用するだろうと考えたのである。石を土に打ち付けたところで火花が散るだろうか?手と道具とは石と鉄、これぞ正しき一対。何かを生じせしめるには、正しき一対の存在が不可欠である。

310. <ひとつ>、すなわち対偶を持たず道具も要さぬ存在は御方のみ。複数ならば問いの生じる余地がある、だが<ひとつ>は問いも疑いも超越している。「ふたつ」「みっつ」、あるいはそれよりも多く数える(多神を奉じる)者達は、<ひとつ>について、存在の一性について疑うこと無く同意する者達である。目を細めて見る(偏見をもって見る)こと無く、公平に正しく見れば理解出来るだろう。二、または三を奉じる者達は、<ひとつ>を奉じる者達となろう - 御方のポロの球ならば、球打つ御方の木槌に打たれるがまま競技場中を転がりまわれ。王の御手により打たれて踊れ、それ以外に、球が正しく完成する法は無い。

315. これらの言葉に、注意深く耳を傾けて聞け、おお、目を細めてもの見る者達、偏見を持つ者達よ。耳に塗るのと同じように、あなたの目にも膏薬を塗れ。でなければ閉ざされた心には、言葉の純粋な意味が染み渡ることも無く、光の方へともと来た道を引き返してしまう。その間にも、狡猾な悪魔のひねくれた言葉が、心を狭めてしまうだろう、出来の悪いゆがんだ靴が、足をゆがめるように。知識を学ぶのに丸暗記を続けても、あなたがふさわしく無いと思えば、知識の方が丸暗記されることを拒むようになる。知識を書き付け、注釈を付け、それで身に付いたと思い込み、得意げに語り、説明してみせようとも、

320. 知識それ自体は顔を引っ込めて肩をすくめる - おお、論争好きの者よ。それはあなたとの絆を断ち切り、あなたから飛び去ってゆく。けれどもしも、あなたが読み書きは出来ずとも、心に愛の情熱があるならば、知識の方があなたの愛を読み取るだろう。知識の方があなたの手にとまるだろう、おとなしくなついた小鳥のように。それ(知識)はヒトを選ぶ。学んだからと言って誰も彼もの許に留まることは無い - 農夫の鶏小屋に、孔雀が住まわぬように。


寓話:王の失われた鷹

王の手許から逃げたタカの場合は違った。タカが逃げた先にいたのはすっかり腰も曲がった老婆で、子供達にシチューを食べさせてやるつもりなのか、小麦粉をふるいにかけている最中だった。美しく生まれの良いタカを見た老婆は、

325. タカの小さな足を結えて翼を短く刈り込んだ。それからかぎ爪を切って藁を与えた。「とんでもない連中がいたもんだねえ」、老婆は言った。「おまえの世話も、手入れもしないでほったらかしにするなんてさ。羽根も爪も伸ばし放題に伸びているじゃないか。そんなろくでなしの飼い主の許にいたら、おまえ、病気になってしまうよ。母さんのところへおいで、あたしがちゃんと世話をしてあげるからね」。ああ、わが友よ。知れ、これは愚者の愛である。愚者はいつでも、道をまっすぐには歩こうとしない。王はタカを探し回って長い一日を過ごした。そしてついに、老女の住まう天幕に辿り着いた。

330. 立ち込める煙と埃の中で、王は唐突にタカを見出した。変わり果てたその姿に、王は嘆き悲しんだ。彼は言った、「私への信頼を揺るがせにしたおまえへの、これが懲罰だとしても、楽園に住まう身であったおまえが、地獄を新たな住処にするとは何ごとか。不用心にもほどがある、『煉獄に住まう者と楽園に住まう者は同じではない(コーラン59章20節)』と書物にもあるものを。おまえを良く知る王の手から逃げ出して、見知らぬ老人の手へと住処を替えたおまえに、これほど似つかわしい褒美もあるまい」。王が語っている間、タカはその手に自らの翼をこすりつけた。無言のうちにも、「私は罪を犯しました」と言っているのだった。

335. おお、寛大なる王よ - もしもあなたが善きもの以外は何ひとつ受け入れて下さらぬなら、悪きものは何処へ向かえばよいものか?罪びとは、いつ、どこで自らの罪を嘆き、許しを乞い願えばよいものか?魂が自らの罪に気づくこと、これこそが王の与える恩恵である。王は全ての悪きものを善きものへと転じる。 - 行け、罪から身を守れ。たとえ私達の善き行いが、ご立派な人々の眼には悪き行いと映ろうとも。あなたは、あなたの奉仕には価値があると考えている。だがそれにより、あなたは罪の旗を掲げることになる。あなたに賞賛や祈りの言葉が与えられる。だがそれにより、あなたの心に虚栄が宿ることになる。

340. あなたは自分を、神と人知れず対話する者と考えている。ああ、実に多くの者がそのような考えを持っている、そしてそのような考えのために、神との分離に陥るのだ。王があなたと、共に同じ地に坐しているならば、尚更のこと自らを弁え、姿勢正しく坐さねばならぬ。タカは言った、「王よ、私は悔いております。改心し、新たにイスラム(服従)の徒となります。あなたにしたたかに酔わされ、酒の勢いで大胆不敵に振舞ってしまいました - 酩酊のために道を踏み外した者に、どうか容赦をお与えください。わが鉤爪は失われようとも、あなたが私を受け入れてさえくれたなら、太陽の前髪だって引き千切ってみせましょう。

345. わが翼は失われようとも、あなたが私に優しくしてさえくれたなら、天空も私に味方して、時間の流れを変えることでしょう。獲物の動きは鈍くなり、私は素早く捕えることでしょう。あなたから帯を授かれば、私は山をも根こそぎにしましょう。あなたから筆を授かれば、私は旗をも引き裂きましょう。いずれにせよ、私の体はブヨほどにも劣ってはおりませぬ。私はわが翼をもって、狩猟の名手と謳われたニムロード王の王国に混乱を投げ込んでみせましょう。たとえ私が、この身をか弱き小鳥の群れに落とそうとも、たとえ私の敵が、「象の仲間(コーラン105章1節)」であったとしても、そして私の「焼け土のつぶて(コーラン105章4節)」が、はしばみの実ほどに小さなものであったとしても、私のつぶての一粒は、百の投石機に優るとも劣りはしないことでしょう」。

350. モーセは一本の杖を持って戦いにやって来た。そしてファラオと、ファラオの持つ全ての剣を相手に事を起こした。あらゆる預言者はたった一人で(神の援助を求めて)あの扉をたたき、そしてたった一人で全世界を相手に戦い、勝利したのだった。ノアが神に剣を授けてくれるよう願ったとき、洪水は主の命じられるがまま、剣のように波を振るった。おお、アフマド(ムハンマド)よ、地上における真の軍勢とは何であろうか?天に浮かぶ月を見よ!あの月の眉間に一太刀浴びせて真っ二つに切り裂いてくれ、無知な天文学者達に知らしめてくれ、これはあなたに属する暦、月に属する暦ではないのだ、と。

355. これはあなたに属する暦、神と言葉を交わしたモーセでさえも、絶えずあなたの暦を恋焦がれていたのだ。夜明けの啓示がたち昇り、あなたの軌道が輝きを放つのを見たとき、モーセは言った、「おお、主よ、あれは一体どのような慈悲でしょう?もはや慈悲を超えている - 御方よ、あれの裡には、あなたのヴィジョンが在る。御方よ、あなたのモーセを時間の海に突き落として下さい、それからアハマド(ムハンマド)の暦の裡に、私を連れ出して下さい」。神は告げたもう、「モーセよ。そのために、われは汝に見せたのだ。そのために、われは精神の小路を汝に開放したのだ。

360. おお、カリーム(モーセの尊称)よ。この(今現在の)暦から、汝ははるか遠い彼方にいる。汝の足を引き返せ、何故ならこの衣は、汝が身にまとうには長過ぎる。われは慈悲深い。われはわがしもべにパンを見せる、それにより生ける者は欲求をおぼえてすすり泣く。母親は赤子の鼻をつつく、起きやしまいか、食べ物を欲しはしまいか、空腹のまま、疲れて寝入ってしまったのではないことを確かめるために。もしも赤子が目覚めれば、母親の胸乳も眼を覚ます、赤子に乳を飲ませるために。 - われは財宝であった、隠された慈悲であった。そこでわれは、正しく導かれたイマム(導師)を世に送り出した」。

365. あなたが魂を傾けて探し求める美の全てが、あなたが欲するところを知悉する御方が開示したもうものである。一体、この世のどれほど多くの偶像が、アハマド(ムハンマド)の手によって破壊されただろう、「おお、主よ!」と、人々が叫んだことだろう。アハマド(ムハンマド)の尽力無しには、今頃はあなたも偶像を崇拝していたことだろう、あなたの祖先がそうしていたのと同じように。彼が仲間達に語りかけたのも、これ、あなたのこの頭、かつて偶像に向かって下げられていたこの頭が、宗教に対する感謝とは何かを理解することもあろうかと思ってのことだ。だからあなたも、何ごとかを語る際には彼の導きに感謝して語れ、そうすれば、彼はあなたを、あなたの裡にある偶像からも救い出すことだろう。

370. 彼はあなたの頭を偶像から解き放った。あとはあなたが、あなた自身の心を偶像から解き放つことだ、彼がかつてあなたにしたように。あなたは宗教に対する感謝を知らず、宗教に感謝を捧げることもしない。何の代償も支払わず、父から相続するように宗教を手に入れてしまったからだ。どうして相続する者に、富の価値がわかるだろうか?ザールが何の労苦もせずに得たものを、ロスタムは、魂を引き裂かれるような苦しみを経て手にしたのである。 - 「われが誰かに涙流させるとき、わが慈悲は立ち上がる。涙流す者は、喜びをもってわが恩恵を飲むだろう。われは与えるつもりも無い贈り物を見せたりはしない。だがわれがその者の心を悲嘆で閉じたときには、必ずや歓喜によって開くことだろう。

375. わが慈悲は、その者の流す善き涙によって立つのである。誰かが涙を流すとき、わが慈悲の海に波が高く立ち上がる」。


寓話:シャイフとハルワ

あるところに寛大なシャイフ(アフマド・イブン・ヒズルヤー、高名なスーフィー、854没)がいた。その寛大さゆえに、彼は絶えず借金を重ねていた。彼はいつも貴人から莫大な金を借りてきては、その全てを現世の貧しき者達のために費やしていた。彼は借金をかき集めて(スーフィー達の)修道場を建てた。彼は人生を、金を、修道場を、全て神に捧げていた。彼があちこちでこしらえた借金の、ひとつひとつを神は清算したもうた。彼のため、かつて神の友(アブラハム)にそうしたように、神は砂を小麦粉に変えたもうたのだった。

380. 預言者が伝えている - 市場では、二人の天使が絶えず祈りを捧げている、と。「神よ、気前良く散財する者には祝福を!」「神よ、惜しんで貯め込む吝嗇な者には災禍を!」 - 中でもとりわけ、その魂を惜しみなく費やし、創造の御方に喜んでその喉首を犠牲として差し出す浪費家に、惜しみない祝福を、と。まるでイシュマエルがそうしたように、惜しみなく喉首を差し出す者達がある。だが彼らの喉首は、短剣では傷ひとつ付けることが出来ない。殉教者達が歓喜の中で生きているのはそのため、異教の者でも無い限り、ヒトが肉体のみで生きると思うな -

385. 神は彼らに、嘆きや悲しみ、痛みや惨めさとは無縁の永遠の精神を授けたもう。借金持ちのシャイフは、もうずいぶんと長い間、この調子で物事を行い生きてきた。まるで給仕をするように、こちらから受け取ってはあちらへ差し出した。やがて死を迎える日まで、彼はそうやって種子を蒔き続けたのである。彼が死ぬ日、それは彼が最も幸福な王子として迎えられる日となるだろう。さて、とうとうシャイフの命尽きる日がやって来た。彼の肉体が、明らかに死の兆候を見せる頃、金貸し達は揃ってシャイフの許を訪れ、彼の周囲を取り巻いた。シャイフはと言えば、横たわる彼自身の肉体の上で、まるでろうそくのように穏やかに溶けてゆくところだった。

390. 金貸し達は絶望し、苦々しげに顔をゆがめた。貸した金の事を思うと胸が痛んだが、彼らにとり「胸の痛み」とは、文字通り肺のあたりがきりきり痛むという意味なのだった。「見よ、見よ、この悪党どもめ」、シャイフは言った、「ううむ、神は四百ディナールほどお持ちでは無いかしらん」。外で物売りの少年の声がした、「ハルワだよ!ハルワだよ!」。稼げるだけの金を稼ごうと、少年はハルワの美味しさ、素晴らしさを売り込んでいる。それを聞いてシャイフは頭を小姓の方へ傾け、行って少年からありったけのハルワを買い取るように命じた。「金貸し達とてハルワを食べている間ぐらいは、わしを嫌な目で見ることも無かろう」。

395. ハルワを全部買い取ろうと、小姓は金を持ってすぐさま戸口の外へと出かけて行った。彼は少年に言った、「このハルワ、ひっくるめて全部で幾らだい?」。少年は言った、「半ディナールと、あと幾らかだよ」。「いやいや」、彼は答えた。「スーフィーにふっかけようったって駄目だよ。半ディナール払おう、それ以上は無しだ」。少年はハルワの盆をシャイフの枕元に差し出した。さあ、ここからがシャイフの摩訶不思議の見せどころ - シャイフは金貸し達に合図してみせた。あたかも、こう言っているかのようだった、「さあ、これはあなた方へのおもてなし。遠慮せずに召し上がれ、安心してよろしい、これは合法な食べ物だから」。

400. 盆がすっかり空っぽになると、少年はそれを脇に抱えて行った、「賢者様、お代を払って下さい」。シャイフは言った、「払おうにも金が無い。あるものと言えば借金ばかり、残りわずかな命も尽きかけようというところだもの」。少年はこれを聞くと嘆きのあまり盆を床に叩き付けた。悲しみのあまり声をあげて泣き、うめき声をもらした。ぺてんにひっかけられた少年はすすり泣きながら言った、「こんなところへ来る前に、僕の両足が折れてしまえば良かったのに!風呂焚きのかまどの周りをぶらぶらしていれば、こんな修道場の門をくぐらずに済んだのに!

405. おべっか使いの卑しいスーフィー達め!犬の心臓の持ち主め、猫のように顔を洗うのがお似合いだ!」。少年が散々に罵倒すると、その場にいた者達も少年の周囲にわらわらと集まった。彼はシャイフの耳元近くで言った、「おお、無慈悲なシャイフよ。僕の主人は僕を殴り殺すだろう、何もかもあんたのせいだ。稼ぎも持たず手ぶらで帰れば、絶対に殺されてしまう。一体、どうしてくれるんだ」。集まっていた金貸し達も、揃ってシャイフに向き直り、不信と疑念で一杯になって口ぐちに言った、「一体、これは何のお遊びですか?

410. 私らの財を散々に食い散らかして、負債はあの世まで持って行くおつもりですか?散々に不正を働いておきながら、一体何だってまた、最後にもうひとつ不正を重ねるような真似をなさったのですか」。それから午後の礼拝まで、少年は泣きじゃくり続けた。シャイフの目は閉じられ、彼の様子を見ることも無かった。争いや諍いには全く無頓着なシャイフは、月のようなその顔を引っ込め、布団に潜り込み、うきうきしながら永遠を待ち、死を待っていた。あまりの楽しさに、罵詈雑言も、あれが悪いのこれが悪いのといった言葉も、気にも留めることが無かった。愛する者の方へその顔を向け、にっこりとほほ笑む者の前でしかめっつらをして見せようとも、ほほ笑む者にはかすり傷ひとつ負わせることも出来ない。

415. そのまぶたに愛する者の接吻を授けられた者が、その楽園で怒りのあまり嘆き悲しむことなど起きようはずが無いのである。月の輝く夜に犬が吠え声をあげる。スィマークの宮(星座の呼び名、スピカを指す)に住まう月が、何を案ずることがあろうか?犬は犬の役割を果たす。月は月の役割を果たす。輝く光のかんばせで照らすこと、それが月の仕事なのだ。彼女は滞りなくその仕事を成し遂げる。誰しもが、ささやかなりとも役割を担っている。塵や芥がわずかに混ざったとしても、水の純粋さが失われることにはならない。藻屑は水面に浮かんで水を覆い隠そうとする、だが水をせき止めることは出来ない。純粋なる水はよどむこと無く湧き出でる。

420. 真夜中に、ムスタファ(ムハンマド)は月を断ち割った。アブー・ラハブは憎悪にまかせて罵った。メシア(イエス)は死者を蘇らせた。ユダヤの民は怒りにまかせて彼の口髭を引き裂いた。犬の遠吠えは月の耳に届くだろうか - ましてやその月が、神に選ばれし者であったならば。王は葡萄酒の杯を重ねる、夜明けへと流れる岸辺に佇みながら。その耳に響くのは天上の楽の音、しわがれた蛙の声などではなく。少年に支払われるべき代金は、金貸し達で折半すればほんの些細な額に過ぎなかった。しかしシャイフの寛大さは、彼らに何かしらの影響を及ぼすことを止めていた。

425. そのため誰ひとりとして、少年に幾らかを支払おうとはしなかった - シャイフの力は、それよりももっと大きなところで働いていたのである。やがて午後の礼拝の時刻になった。一人の従者が、その手に盆を抱えて訪ねてきた。彼が仕える主人というのが、ハーティムのごとく財産と地位を備えた貴人で、彼はシャイフを良く知っており、自らの導師への贈り物を持たせ、従者を送り出したのだった。盆には四百ディナールが載せられていた。そしてそれとは別に、盆の片隅に半ディナール、これは紙にくくるまれてちょこんと載せてあった。従者は一歩前へ出ると、シャイフを褒めたたえる口上を述べ、それから抱えてきた盆を、比類なきシャイフの傍へ置いた。

430. 彼が盆にかけられた覆いを取り、そのおもてが明らかにされた時、人々はそこに彼の奇跡を見た。たちまち、全員が悲嘆と哀悼の泣き声をあげた。「ああ、シャイフの中のシャイフよ、魂の王よ。一体、これはどういうことなのですか?何という不思議、何という神秘。種明かしをして下さい、一体、これはどういうことなのですか。おお、秘密をつかさどる人よ、秘密を制する人よ。私達は何も知らなかったのです、どうか私達をお許し下さい。私達は、とてもひどい言葉の数々を吐き散らかしてしまいました。私達ときたら、まるで目が見えぬかのようにめったやたらとこん棒を振り回し、ランプをぶち壊しにしてしまいました。

435. 私達ときたら、まるで耳が聞こえぬかのように、ただの一言も聞こうとはせず、勝手な憶測で無駄な口答えをしてしまいました。モーセの教訓をすっかり忘れておりました、導師ハディルを信じずに、かえって恥をかくことになったモーセの教訓を - ハディルは何もかもお見通し、彼の目に宿る光ははるか彼方の天国をも貫いていたというのに。おお、我らがモーセよ。私達は愚かなネズミのよう、群れになって一つ所をぐるぐると回りながら、狂ったようにあなたへの敵意を燃やしておりました」。シャイフは言った、どんな言葉も、無駄話も全て許そう。それはあなた方にとり合法だ。

440. 秘密も神秘もありはせぬ、私は神に願いごとをしただけ。そして神は、正しき道を私に知らしめて下さった。また神はこうも仰った、『取り分こそ少ないものの、その少年の泣き叫ぶ声が無ければディナールが下されることも無かったであろう。ハルワ売りの少年が涙するまでは、わが慈悲の海も動きはしなかった』、と」。おお、同胞よ。この少年こそはあなたの目に住まう者、あなたの裡なる子供である。あなたが欲するところを得るか否かは、あなたがどれほど嘆き悲しみ、苦しんだかにかかっている。もしもあなたが栄誉を欲し、手に入れんとするならば、あなたの目に住まう者に涙流させよ。裡なる子供に身体を明け渡し、悲しみの泣き声をあげさせよ。(註:『寓話:シャイフとハルワ』に関する覚え書き参照


小話:涙を流すことについて

445. 宗教の勤めを共にする胞輩が、禁欲の修行者に言った、「あまり泣いてばかりいると、そのうち涙で目が見えなくなってしまうぞ」。禁欲の修行者は答えた、「起こり得ることは二つにひとつ、(神の)美を見るか、あるいは見ないかのいずれかだ。もしも神の光を見ること叶うならば、何を悲しむことがあろうか?神の光を見、合一を果たすには、目では小さ過ぎて背負いきれぬ。そしてもしも神の光を見ること叶わぬならば、そんな目など要らぬ、そんな惨めな目は持って行ってくれればいい」。イエスと共にあるならば、見える、見えぬと嘆き悲しむ必要はない。右往左往することは無い、彼が二つの正しき(心の)目を与えてくれるだろう。

450. あなたの心のイエスは、いつでもあなたと共に在る。彼に助けを求めよ、何故なら彼は素晴らしい助け手、守り手だから。けれど四六時中、何でもかんでも押し付けて良いというものではない。無益なことに、彼の心を浪費してはいけない。彼という心の清廉さ、純粋さは、骨ばかり詰まったこの身体のためにあるものではない。イエスを悩ます愚か者のようではいけない、外の景色を案ずるな、裡なる魂についてイエスの助けを求めよ。あなたの身体、あなたの現世について、あなたの裡なるイエスを求めるな。あなたは、あなたの裡なるモーセに、あなたの裡なるファラオの望みを叶えろと頼むだろうか?日々の糧、生計のために心を犠牲にしてはならぬ。日々の糧は決して途絶えはしない、(神の)聖なる法廷に座せ、欠かすこと無くその場に在れ。

455. 身体とは精神のために張られた天幕、あるいはノアのための方舟である。たとえ天幕が失われようとも - 聞け、テュルクの民よ - 何を恐れることがあろうか、あれほどまでに恋しがった法廷に座すること叶うならば。


続:イエス(平安は彼と共に)と、骨を生き返らせるよう頼んだ男

青年が懇願するがゆえに、イエスは骨に向かって神の御名を唱えた。愚かな男が望んだがゆえに、神の定めるところに従い、骨は命を吹き返し、かつての姿を取り戻した。それは黒毛のライオンであった。姿を取り戻すやいなや勢い良く青年に飛びかかった。

460. 前足の一撃を食らい、彼の頭は砕けて飛び散った - 残ったのは殻にあたる頭蓋だけ。しかしそもそも中味など無かったし、あったとしても彼の役には立たなかったようだ - 多少なりとも中味があれば、容れ物たる肉体にほんの少しばかり、かすり傷を負う程度で済んだことだろう。イエスは(ライオンに)話しかけた、「何ゆえに、あれほど素早く彼を引き裂いたのか」。ライオンは答えた、「汝を悩ませていたがゆえに」。イエスは尋ねた、「おまえはこの男の血を啜らないのか(餌にはしないのか)」。ライオンは答えた、「主のお許しが無い以上、その血は私の取り分ではない」。ああ、多くの人々がこのようであった - 激情のライオンのごとき人々よ、自らの餌を食べることも無くこの世を去った人々よ!

465. 山よりも大きな欲望を抱えながら、藁一本よりも多くを取ろうとはしなかった人々よ。どれほど積まれようとも、彼らは手を出そうとはしなかった。自らの欲望を満たそうと思えば出来たのに、彼らはそうはしなかった。私達のために物事をたやすくするという仕事を引き受けながら、報酬も見返りも受け取らずに去って行った人々 - ああ、私達をあなた方の許へ連れて行ってくれ!物事を、あるがままに見る目を与えてくれ!餌は魅力的に見える、だが真実のところ、それは釣針なのだ。ライオンは言った、「汝、救世主たる者よ。私が殺めたのは人々に対する警告に他ならぬ。この犠牲に、それ以外の意図は無い - もしも私のための取り分がこの世にあるとするならば、それがこの男で無いことは確かだ」。

470. 清らかな水流を汚す者への、それはふさわしい罰だった。もしもロバに物事の価値が理解出来たなら、清い水流に脚を突っ込むような真似はせず、その頭をひたしたことだろうに。愚か者が預言者に出会えば必ずこうなる。(生命の)水の保持者、祝福を授ける者と知れば必ずこう言う、「おお、(生命の)水の持ち主よ。『在れ!(コーラン16章40節、15章21節)』と命じて、私に永遠の命を授けて下さい」。これではどうして彼の前で、命を落とさずに済まされようか。用心せよ!ゆめにも願うな、卑しき自我を生き存えさせてくれ、などと。それはずいぶんと長いこと、あなたの精神の敵であったのだ。

475. 精神という狩りの場にあっては、猟犬を惑わす骨など捨ておけ!どうして骨を愛おしむのか、野良犬でも無いはずの者が。どうして血肉を愛おしむのか、蛭でも無いはずの者が。一体これはどういう目なのか、開いていながら何ひとつ見もせず、試練にあっても何ひとつ学ばず、得るものといえば過ちばかりとは。なるほど、私達は時として過ちを犯すだろう。しかしそもそも正しき道を見なければ、過ちを犯したことにすら気付かないだろう。ああ、眼よ。おまえは他人のために哀悼の歌を奏でる。だが今はここに座せ。そしてしばしの間、おまえ自身のために涙を流せ。

480. 木の枝は、雲が流す涙によって新しい緑を繁らせる。蝋燭もまた、流す涙によってより明るく照らし出す。嘆く者あればどこへでも赴いて、共に涙流して嘆け。何故ならおまえほど、嘆き悲しむのにふさわしい者はいない。ほんの束の間、すれ違っただけの諸々との別離ばかりを惜しんでいれば、神の鉱脈に輝く永遠のルビーについては忘れがちになる。形だけなぞった模造品、目くらましの偽物は、あなたの心にかけられた鍵となる。鍵を開けよ、涙は閉ざされた心の鍵を開け放つだろう。偽物は、あらゆる善きものにとり禍の元である。どれほど大きな山と積もうが、偽物は所詮は偽物、ただの藁くずに過ぎない。

485. どれほど大きかろうが、どれほど意地が悪かろうが、本物を見分けぬ者ならただの肉の塊、何故なら何ひとつ見ていないのだから。何ひとつ見もしない模倣者が、たとえ髪の一筋よりも繊細な語を話すとしても、その心には口にした語の意味も知識も備わってはいない。そうした者は自分自身の言葉に、ある種の酩酊を覚えている。だがその者と聖なる葡萄酒との間には、ずいぶんと大きな隔たりがある。まるで川床のようなもの、少しの水も飲むことがない。川の水はただ通り過ぎてゆく - 水を欲し、水を飲む者の許へと。川の水は川床の許には留まらぬ。何故なら川床は水を飲まぬ、喉の渇きなどこれっぽっちも覚えてはおらぬ。

490. 彼らはまるで空っぽの葦の笛だ。悲しげな音色を響かせてはいるが、実のところこれっぽっちも嘆いてなぞいない。音色をより高い値で買う客はいないか探しているだけ、崇拝者達を増やす算段をしているだけだ。後追いする盲信の模倣者達は、葬儀に雇われる泣き女や泣き男と変わらない。不愉快な連中だ、あれらには、貪欲の他に何の動機も持ち合わせが無い。それが仕事の泣き女、泣き男達は熱を込めて嘆きの言葉を口にする。しかし一体、心はどこに置いてきたのか。着ている衣を引き裂いてしまうほどの、悲しみがどこにあるというのか。本物を知る者と、盲信の模倣者の間には、大きな隔たりがある。前者はダビデの声のようなもの、その他は全て遠いこだまに過ぎない(コーラン34章10節)。輝きそのものに根差し、輝きそのものから発せられた言葉と、既に書かれた言葉を丸暗記し、それを真似て発せられた言葉が、同じであるはずが無いではないか。

495. 用心せよ!模倣者は上辺だけで憂いつつ、悲しげな言葉を吐いているに過ぎないのだ。荷車は悲しげな音をたてて軋む、だが実際に荷を運んでいるのは黙って荷車を引く雄牛である。盲信する模倣者達もこれと同じだ、まるで雇われの泣き女、泣き男のよう、報奨欲しさに涙を流す。時が経ち葬儀が終わってしまえば、賃金を受け取り去ってゆく。信じぬ者も信じる者も、いずれも同じく「神」という語を口にする。しかし両者には、明らかな違いがある。物乞いはパン欲しさに「神」という語を口にする。聖なる人は魂を満たすために「神」という語を口にする。もしも物乞いが「神」の語の、真の意味を知るならば、「これは多い」だの「これは少ない」だの、二度と思いもしなくなるだろうに -

500. パンを求めてうろつく者が「神よ!」「神よ!」と口にする。彼はコーランを背に載せて歩く、餌の藁欲しさに荷を運ぶ驢馬のように。彼の唇から出たその言葉が、燦然と輝いて心を照らす。照らし出された罪の深さに畏れ戦き、彼の肉体を形作る粒子までもがうち震える - 魔術師は悪魔の名を用いて大金を稼ぐ。模倣者は神の名を用いて小銭を稼ぐ。

 


*1 「マンスール」マンスール・ハッラージュ(857・59-922)
神秘家。フサイン・イブン・マンスールの名で呼ばれるが、生業であった絹梳き人(ハッラージュ。この呼称はのちに”神秘の解明者 harraj al-asrar”の意でも用いられた)の別称も普及。主要作品の『タワースィーン』は特異な文体の散文詩で、どくにこのなかで展開されるイブリース(悪魔)擁護論は、その後のスーフィー文学の重要なテーマの1つとなったと同時に、彼とヤズィード派との影響関係を疑わせる一因となっている。(中略)”アナー・アル=ハック(我は神)”に類したシャタハート(神秘家の酔言)で、”絶対的本質(神)”と被造物との融合の諸相を大胆に語った彼は、受肉論(フルール)、神人合一(イッティハード)を説くザンダカ主義者として法学者たちから断罪されたばかりか、バグダードのスーフィーたちからも疎まれる存在となった。(中略)庶民階層への彼の布教の影響の波及を恐れたカリフ側は彼に不信仰者先刻(タクフィール)を発した(09)。13年に逮捕され、裁判により8年間の投獄が命じられたが、21年、出獄を前に7ヶ月に渡る尋問ののち、22年3月27日バグダードで処刑。バグダードのスーフィーで唯一、イブン・アター(22年殺害)のみが彼の支持を公言したという。(『岩波イスラーム辞典』p140. 岩波書店)