愛する者の過ちは愛さぬ者の正しさに優る

『精神的マスナヴィー』3巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

愛されし者(ムハンマド)の眼には、愛さぬ者の正しさよりも愛する者の過ちの方が好ましく映ることについて

誠実な者ビラールは、燃えるような情熱をもって礼拝への呼びかけを行った。(彼の情熱が音になるとき、)いつも「ḥayya(来たれ)」のḥ(ح)の音が、h(ه)の音になるのだった。それで人々のうち幾人かが言った、「ああ、(神の)御使いよ、このような間違いを見過ごすわけにはゆかぬ。今はまさしくイスラム(という宗教)を打ち立てようという時だというのに。ああ、預言者よ、創造主の御使いよ。ムアッジンの役目は、もっと正しく発音できる者にやらせるべきだ。

175. 不名誉極まりないことだ、宗教と敬神の幕開けだというのに ” ḥayy ‘ala ‘l – falaaḥ(来たれ、成就せん)” すらまともに言えないとは」。(これを聞いて、)われらが預言者は怒りを煮えたぎらせた。そこで彼は(神がビラールに授けたもう)隠された恩寵のうち、ひとつ、ふたつの御しるしを示して見せた。「おお、品性卑しき者どもめ。ḥ(ح)であろうがkh(ق)であろうが、百でも二百でも並べるがいい。どのような言葉や美辞麗句よりもビラールの ” hayya ” の方が、神の御目には善きものと映るのだ。それとも私に、あなた方が隠しておきたい秘密を暴露してほしいか?自分の未来や終末が惜しければ、私を怒らせるな」。祈りの裡に甘い吐息を見出せぬようなら、純粋無垢なる者の許へ行け。そして頼むがいい、自分のために祈ってくれるようにと。