祈りと答え

『精神的マスナヴィー』3巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

神を求める者の祈りと、求める者への神の答えは本質において<同一>であることの解き明かし

ある夜のこと。その男は、一心に神を念じていた –– 「アッラー!」。繰り返される御方への賛美が、男の唇を甘く染めた。

190. 「何とまあおしゃべりな男よ」。話しかける者があった。悪魔である。「『ラッバイカ(我ここにあり)』とのお返事はどこだね?アッラー!アッラー!そうやっておまえが幾度呼んだところで、玉座からお返事が届いたことなど一度もないじゃないか。いつまで『アッラー』と叫ぶつもりだね、そんな険しい顔をして」。男はすっかり心砕かれ、あきらめて横になり眠りについた。男は夢を見た。夢の中で男は、深緑の森に佇むハディルに出会った。彼(ハディル)は言った –– 「おまえに問う。何ゆえに神への賛美をためらうのか。何ゆえに悔いているのか、御方を呼び続けたことを」。男は答えた。「『ラッバイカ』とのお返事が頂けないものですから。開かぬ扉を前にして、立ち去るべきかと思ったまででございます」。

195. 彼は答えた。「あの御方からの伝言だ –– 汝の『アッラー』は、われの『ラッバイカ』である。汝が胸に抱く嘆きも悲しみも憧れも、それらは全てわれが遣わす使者である。汝は求める。われは引き寄せる。われを求めるが故に、汝はあらゆる手立てに思いを巡らせ、また実際に行いもした。その間じゅうわれもまた、汝を現世の罠から解き放たんと汝に働きかけていたのである。畏れと愛こそはわれの好意を捉える投げ縄。見よ、汝の『アッラー』ひとつひとつに、われの『ラッバイカ』が潜ませてあるのを」。かような祈りからは程遠いのが愚者の魂。彼らは「主よ!」と叫べない、そもそも嘆きの何たるかを知りもしない。時に終わりが訪れるまで、神を求めて呻くこともないだろう –– 口にも心にも錠前が取付けられ、鍵をかけられているが故に。

200. 神はファラオの富も財も、あり余るほどに増やして与えたもう。それで彼は自らを全能と思い込み、持てる富と力を誇示してみせた。邪悪なこの男(ファラオ)が魂の悲しみ、胸の痛みを感じたことなど生涯に一度も起こりはしなかった。神はこの男に地上の王国の全てを与えたもう。しかし嘆きも痛みも悲しみも、ついに与えたもうことはなかった。悲嘆は地上の王国に優る。悲嘆を知ればこそ、人は密やかに神に祈るすべを得る。悲しみなき者の祈りは冷たく凝った凍土のごとき心に生じる。悲しむが故に祈る者の祈りはいと高き天に生じる。

205. 悲しむ者の唇は(天の)声を捉える。そして思い出すのだ、自らの根源を、何処から来て何処へ還るのかを –– 「神よ!」「主よ、嘆きを聞き届けたまえ!」「主よ、救いたまえ!」。その時、漏らされた呻きの祈りは純粋なる悲哀そのものとなる。御方を求める声には聖なる響きがある、たとえ野良犬の発する唸り声であろうと。御方を欲する者ならば、誰であれ賊の虜囚であることに何の変わりがあろうか。見よ、洞窟の犬を。死肉(を食すること)から解き放たれ、復活の日が訪れるまで(魂における)皇帝たちと食卓を共にする。まるで神を知る賢者のよう、洞窟の前に座し、器も無しに神の慈悲の水を飲む。

210. ああ、この世にはこうした人々が少なからず存在する –– 犬の姿に身をやつし、名声も持たず地位も求めず、だがその手には聖なる知が注がれた杯を隠し持つ。生涯をかけてその杯を得よ、ああ、年若き友よ。魂の葛藤と忍耐を経ずして、どうして勝利を得られるだろうか?これを得るためならば、忍耐など何ほどのものだろうか。忍耐こそは歓喜の扉を開く鍵である。いくばくかの忍耐と思慮深さ、これ無しには罠から逃れ得ることは出来ぬ。全くもって忍耐こそは、思慮の手であり足である。思慮の鍛錬には、まず飲食の節制より始めよ。これ(食べ物、飲み物)は毒草と心得よ。思慮の深さは、預言者の力であり光であると心得よ。

215. 一陣の風が吹くたびにあちらへふらふら、こちらへふらふらする者がある。まるで藁くずのようではないか。しかし山ならば安泰だ。どっしりと腰を据えていれば、風が吹いたくらいではびくともしない。ありとあらゆる処からグール(食屍鬼)があなたを呼び止める –– 「こっちだ、兄弟。ついて来い、道を探しているんだろう?おまえにふさわしい道連れになってやろう。険しく複雑なこの道を案内してやろうじゃないか」。グールはあなたの導きとはならないし、道についても知るはずがない。ああ、ヨセフよ!オオカミのごとき者の許へ行ってはいけない。思慮深さが身についていれば、柔らかく甘美な罠に満ちたこの世という名のカラヴァンサライに騙されることもないだろう。

220. 実際には、あれらは柔らかくもなければ甘くもない。魔術の呪文をささやいて、吐息混じりに耳の中へ吹き込む –– 「おいで、私のお客人。愛しいひとよ、わが目の光よ。この館はあなたのもの、そしてあなたは私のもの」。思慮深い者なら騙されはしない。「腹の調子が悪い」とでも言っておけ。「病気なのだ」「この体は納骨堂みたいなものでね。私はすっかり駄目なのだ」「頭が痛い。頭が割れるように痛い」「ちょっと母方の伯父の息子に呼ばれているもので」 –– 何とでも言って断ってしまえ。そうでもしなければ、毒針の混じった蜂蜜を食わされ、どこもかしこも傷だらけにされてしまう。

225. 五十、六十と黄金を積まれようが、釣られた魚が実際に得るものは釣り針の先に引っ掛けられたちっぽけな肉片だけだ。あれをあげよう、これをあげよう、……それが本当ならその詐欺師、一体いつ、何を与えただろうか?詐欺師の言葉は腐った胡桃のようなもの。カラカラと虚しい音を聞くうちにあなたの頭から理性が奪われる –– どれひとつ取っても価値無きものばかりだというのに。旅におけるあなたの友とは、あなたの荷物とあなたの財布だ。それ以外に、何に気を配る必要があろうか?もしもあなたがラーミーンなら、探し求めるはただあなたのヴィースのみ。あなたのヴィース、あなたの愛する者こそは、あなたの自己なるものの本質に他ならぬ。あなたにとり、それ以外は全て害でしかない。

230. 世間の俗物どもが差し招こうとも、「あの人たちは私にすっかり夢中なのだ。私は皆のお気に入りなのだ」などと言ったりはしない。彼らからの招きは、姿を隠して待ち伏せる鳥撃ちが吹く鳥笛であると心得よ。彼らは罠にかかって死にかけた哀れな鳥を装う。悲しげな声音をつかい、羽をばたつかせるふりをして鳥をおびき寄せる。そうしておいて、罠にかかった仲間と思い込んで舞い降りた鳥を捉えてその羽を毟る –– 神が思慮を授けたもう鳥を除いて。思慮ある鳥ならば、餌や誘惑に騙されることはない。軽卒さは、間違いなく後悔の因となる。次はこれについての物語を語ろう。