イエスの庵の扉の前に、人々が治癒を求めて集う話

『精神的マスナヴィー』3巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

イエスの庵の扉の前に、人々が治癒を求めて集う話

霊知の卓とはイエスの庵のごときもの。ああ、悩める者たちよ、用心せよ、用心せよ –– この扉から離れぬように!あらゆる処から人々が集う –– 目の見えぬ者が、足引き摺る者が、病める者が、ぼろをまとう者が。

300. イエスの吐息によって苦しみから救われたい一心で、朝早くから彼の庵の扉の前に列をなす。善なる教えに従うかの男(イエス)は、夜明けの祈りを終えるとすぐに(扉の外へ)姿を現す。そして扉の前で待つ人々、苦しみに喘ぐ弱き人々、一縷の希望と期待を胸に彼を待っていた人々に告げる。「ああ、悩める人々よ。神は今ここに集うあなた方全ての願いを聞き届けたもう。さあ、行きなさい –– 痛みと苦しみを去り、神の赦しと慈悲に向かって歩みなさい」。すると(その場にいた)全ての人々が、彼の祈りと共に立ち上がり自らの足で走り出す。

305. まるでつながれていたラクダが、膝を縛っていた綱を注意深く解かれたかのように –– 喜び、嬉しそうに自らの家へと急いで帰ってゆく。あなた方もそうではなかったか –– 何度となく病に苦しんでは、教えの王(聖者)たちからの治癒を得たではないか。何度となく足を引き摺っては彼らの許を訪れて健やかさを取り戻し、軽やかな足取りで帰っていったのではないか。何度となく魂の痛み、苦しみから解き放たれたのではないか。ああ、軽卒な者よ –– いっそ自分の足を縄で結わえておけ、学ばぬ者は何度でも自分を見失うことになろうから!

310. 忘恩と忘却ゆえに、かつて飲んだ蜜の味も思い起こすことができない。「心に生きる人々」の、心を深く悲しませたがゆえに、この道 –– 魂の喜びへと至るこの道 ー へと至る手立ても閉ざされた。急げ、彼らの許へ。彼らに追いつき、神の赦しを請え。そして嘆け、雲のように涙の雨を降らせ。(雨が降れば)薔薇の園ではつぼみが花開く。果実は熟し、はじけて果汁をしたたらせる。同じひとつの扉の前を巡れ、かの洞窟の犬の仲間になりたいのなら。犬より劣る者にはなるな。

315. 犬でさえ仲間の犬を叱りつける、「おまえを最初に世話した者の家に帰れ」と。「あちらこちらへ心を移すな。ひとつ扉の許で踏みとどまれ、与えられた骨の恩に報いて勤めを果たせ」と。そうして新入りの犬を噛む、果たさねばならぬ勤めを思い出すようにと。最初の扉の前に戻り、恩恵に預かれるようにと。彼らはひたすら噛み続ける、「おお、立ち去れ、ならず者の犬よ!恩人に仇なす敵となるつもりか。ひとつ扉の前から離れるな。扉について鉄輪のごとくへばりついていろ。そして見張り番となれ、いつでも飛びかかれるように身構えていろ。信頼を裏切る類いの輩には決してなるな。

320. 我ら忠義の者の名が、おまえ一匹のために汚されるようなことがあってたまるものか。我らは犬、忠義の勲章によって名を知られた者。今すぐ立ち去れ、我らの名誉が汚れぬうちに、悪評が我らの上に降り掛からぬうちに」。不誠実さは、犬にとり常に恥以外の何ものでもない。あなた方はどうか。不誠実な振る舞いが正しいなどと、どうして思えるものだろう?いと高き神は御自らの誠実さを示したもう –– 「だれが神よりも忠実に契約を果たすだろうか(コーラン9章111節)」。知れ、神より他に忠誠を捧げるなら、それは神への不忠であることを、神の大権に先んずるものなど無いことを。

325. 「母」なるものの正当性は、神の恩寵によりやがて「あなた」となる胚が、彼女の胎内に宿って初めて生じたもの。彼女の胎内において、慈悲もて「あなた」をかたち造りたもうは御方、また「あなた」を身ごもることを彼女に赦したもうも御方。身ごもっている間じゅう)彼女は「あなた」を、あたかも自らの一部であるかのように看做す。やがて時が満ちる頃、御方は彼女と「あなた」を引き離したもう。神は幾千もの手立てや仕掛けをしつらえたもう、それらを用いて「あなた」の母となった者が、「あなた」に愛を注げるようにと。故に神の正当性こそ、母のそれに先んずるのである –– この(神の)大権を理解できぬ者はロバにも等しい愚か者と心得よ。

330. 母も乳房も、乳房から溢れる乳も、誰が創ったと心得るのか。そも、母と父とが巡り会うよう導きたもうは誰なのか。ああ、主よ。永遠の恩恵を授けたもう御方よ。私が知るものも知らざるものも、いずれも全てあなたの有なるもの。あなたは我らに命じたもう、「神を想え」と。「わが大権は決して錆びることが無い故に」と。「あの朝、ヌーフ(ノア)に授けた方舟もて汝らを守ったわが恩寵を想え」と –– 「あの朝われは繭に包むがごとく、汝らの祖先を洪水と波から保護した。

335. 水の本性は炎と何ら変わるところがない –– それが危険であるという点において。あの日、水は炎のごとく地表を覆った。波は最も高き山頂をも押し流した。われは汝を守った。われは汝を捨てなかった、汝の祖先の、その祖先の、その祖先の体内にいたかつての汝を。そして長い時を経て、今こそ汝は(人間の)階段を昇り、最も高き処に辿り着いた。その汝の足元を、どうしてわれが躓かせるだろう?どうしてわれが汝を拒むだろう?われの工房において創られた汝を、どうしてわれが打ち捨てたりするだろう?何ゆえに悪意を募らせ、不信の輩と交わり、自らもまた不信の輩となってゆくのか。われは不信とも怠慢とも無縁である。にも関わらず、汝は不信の念や邪念と共にわれに近づこうと試みる。

340. 悪意ある者と交わっておきながら、その悪意にさらされるや汝はわれに悪意を抱く。何ゆえに、その悪意を元の持ち主に返さずわれに向けるのか。汝、二つの顔を使い分ける者となったか。そのようにして汝は、力ある友や仲間を –– 汝に良く似た仲間を –– 大勢こしらえたと見える。われが『何某は何処へ行ったか』と問えば汝は言うだろう、『あいつか。あいつなら、去って行った』と。汝の友のうち佳き者は、最も高い天の上に去って行った。汝の友のうち悪しき者は、最も低い地の底に去って行った。今の汝はその中間に、なすすべもなく置き去りにされた。まるでカラヴァンが去った後の、焚き火の残滓のように」。ああ、友よ!勇気を出してその手を伸ばせ、そしてしがみつけ –– 「天の上」も「地の底」も超越したもう御方の衣の裾に!

345. 御方はイエスのごとく天に昇り給わぬ。コラのごとく地の底へ落ち給わぬ。御方はいつでもあなたと共に在る –– 時には「場」もてあなたと共に在り、また時には「場」無くしてあなたと共に在る。あなたが今いるそこにおられる。そしてあなたが今いるそこを去っても、それでもあなたと共におられる。汚濁と混沌から清廉を生じせしめ、あなたの過ちを受け入れたまい、正しき行いへと転じたもう。あなたが悪しき行いに手を染めれば、お叱りを授けて未完成から完成へと至る道に連れ戻したもう。途上で祈りを怠れば胸が痛み、燃え盛るような(神への)希求がズィクル(唱誦)となって迸る。

350. 神は我らの過ちを正したもう、我らを正しき道へと連れ戻したもう –– 「古くからの約束を違えるな、汝の轡が鎖となり、汝の心痛が足枷となるその日まで。汝の魂の痛みは、やがて形ある何かとしてその貌を現すだろう。故にその痛み、見て見ぬふりをしてはならぬ –– 罪の苦悩を引き受けるは汝の心のみ。心痛も苦悩も、汝の死後にはまさに鎖そのものとなる。『われの訓戒に背をむける者には、窮乏の生活があるとともに、復活の日に、われらはその者を盲目にして召し寄せるであろう(コーラン20章124節)』」。

355. 盗人が誰かの財を盗むとき、心痛と苦悩が内側から責めてくる。盗人は言う、「この胸騒ぎは何なのだ」。教えてやれ、「おまえの悪事ゆえに傷つき、涙した人の痛みだ」と。この胸騒ぎ、この知らせに意識を向けること無ければ、悪しき風は止まず吹き続け、じりじりと炎を煽るだろう。心の襟首を掴むこの胸騒ぎ、これこそが盗人を捕える警吏となるもの。何であれ心に浮かんだことは、放っておけば必ずや実現する。必ずや実体を伴わずにはおれぬのだ。良心の呵責は牢獄となり磔刑となる。罪の意識は根のようなもの、根は枝を育てるもの。

360. たとえ根が姿を隠そうと、育った枝は隠しようもない。内奥の葛藤に目を向けよ、根の状態に注視せよ –– 枯れつつあるのか、育ちつつあるのか?「収縮」と「拡張」1を見極めよ。それが悪しき根ならば、今すぐに引っこ抜け。そうすれば、悪しき棘持つ茨が庭に育つこともないだろう。「収縮」を感じ取ったならば、それをもって治癒とせよ。低きところあってこそ高きところがある。葉も果実も枝も、根あってこそ育つもの。「拡張」を感じたならば、急ぎ水を与えて育てよ。そして果実がみのる頃、友人と分かち合うが良かろう。

 


*1 「収縮」と「拡張」 『マスナヴィー』1、2巻を主にシャリーア(聖法)についての解説とするならば、3、4巻はタリーカ(修行道)についての解説であると言える。「収縮(qabd)と拡張(bast)」は、タリーカを歩み始めたばかりの者たちが到達する階梯を指す一種の術語。「qabd」とは握りしめられた状態、緊張状態、負荷のかかった状態を示す語。スーフィーたちは、個々人がその創造の根源、霊的な糧や光から一定の期間以上に離れたが故に陥った状態を指すのにこの語を用いる。

これと対極にあるのが「bast」である。緊張状態や閉塞感から解き放たれ、再び慈悲を得ることにより、探求者は喜びをもって存在を受け入れる準備が整う。以降、探求者はあらゆる階梯においてこうした両極を絶えず反復することになる。

「収縮と拡張」とは、別の言い方をすれば「畏怖と希望(期待)」であり、これ無しに神へと至る旅は始まらないが、旅人には意図してこの出発点を訪れることはできない。「その手を握りたまい、開きたもう(コーラン2章245節)」は神であり、それ故に、むしろ出発点とは旅人にもたらされる一種の恩寵であるとスーフィーたちは考える。