『精神的マスナヴィー』5巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー
「ある小間使いの娘が、自らの情欲を満たすためにロバを使った話 –– ロバをヒトの男のように仕込み、あたかも雄山羊が雌羊にするように自らに奉仕させた話。度を越させないよう使役の際には瓢箪を陰茎に被せていた話。小間使いの女主人がそれを知り、だが瓢箪の使い方までは知らぬまま、口実を作って小間使いの娘を屋敷から追い出し、瓢箪を使うことなくロバと同衾した話。そのため恥多い死に至った話。その後で小間使いの娘が屋敷に戻り、泣いてうめき声をあげた –– 「ああ、わが魂よ、わが愛する光よ。あなたは私の行いを見ていたのですね。けれど瓢箪は見ずにいたのですね。あなたは陰茎を見、けれどそれ以外は何も見ずにいたのですね」。 –– 伝承にもある通り、「心眼を持たぬ者、理解のすべを持たぬ者は呪われし者」。但しコーランにもある通り肉の目は別である。「盲人は(出征しなくても)罪はない(コーラン48章17節)」。御方は彼らから罪を取り除きたもう。呪いを取り除き、災禍を取り除き、お怒りから取り除きたもう。」1
とめどない淫欲の虜となったある小間使いの娘がいた。彼女はロバを馴らし、(彼女がロバにまたがるのでは無しに、)ロバが彼女にまたがるよう仕込んだ。(彼女は)ロバにヒトの媾合を仕込んだ。ヒトの男がするように、ロバは(彼女相手に)媾合を果たすようになった。
1335. 彼女は邪知にたけており、ロバの陰茎の通り道となるよう(ロバとの間に)瓢箪を置いた。そのため(ロバの)挿入の瞬間には、陰茎の上半分のみが彼女の中に入るのだった。根元まで彼女の中へ挿入されたならロバの陰茎は、彼女の腹も腸も引き裂いてしまっただろう。ロバは次第にやせ細っていったが、(屋敷の)女主人はどうすれば良いのか見当もつかなかった。「まるで髪の毛一本のようだ。一体どうしてこのロバは、こんなにやせてしまったのだろう?」女主人はそう言って、ロバを獣医にみせて尋ねた。「こんなにやせてしまうなんて、これは何かの病気でしょうか?」。
1340. しかし何の病気であるかは分からずじまいだった。これといった原因を告げられる者は、誰ひとりとしていなかった。こうして真実の探求が始まった。ありとあ らゆるものが吟味の対象となった。真摯な探求には魂を捧げねばならぬ。真摯に探求する者は必ずや目的を果たす。ロバの身の上に何が起こったのかを探るうち に、女主人はそれを目撃したのだった –– 水仙のごときあの小間使いの娘が、ロバの下に横たわるのを。(女主人は)そこで起きている一部始終を扉の隙き間から覗き見した。年かさのこの女は、(その光景に)ひどく驚いた。
1345. まるで(ヒトの)男がするように、ロバは小間使いの娘をわがものとしていた。それはヒトの男が女にするのと全く同じやり方だった。女主人は妬ましく思った。「そんなことが出来るのなら、権利は私にあるはずだ。だってあのロバは私のものなのだから。ロバは十分な手ほどきを 受け、とても良く仕込まれている。まるですっかり整えられた食卓のよう、あとは灯火を点すだけ」。そこで何も見なかったふりをし、厩舎の扉を叩きながら 言った。「召使いよ、掃除にはあとどれくらいかかるのだい?」。そう声をかけてから付け加えて言った、「召使いよ、扉をお開け。おまえの主人のお出ましだよ」。
1350. それだけ言うと、後は口を閉ざした。彼女 自身の望みを叶えるためにも、小間使いの娘にはそれ以上は何も言わずにいた。小間使いの娘はあわてて罪の道具を隠した。それから進み出て扉を開けた。顔つきはこわばり、目には涙を一杯ため、唇を噛みしめながら(小間使いの娘は)言った。「私は断食をしておりました」。それらしく見せるために手にはやわらかなほうきを握り、「悪臭たちこめるこの場所を、こうして掃き清めておりました」。ほうきを手に扉を開けるのを見て女主人は、心の中でつぶやいた。「おやまあ、なんてずる賢い娘だろう。
1355. おまえはほうきを手に深刻ぶっているけれど、ロバの方はどうだろうね?ごちそうを取り上げられてすっかり怒っているじゃないか。陰茎を振り立てて、おまえの穴を食い入るように見ているよ」。(だが女主人は、それを)小さな、小さな心の声にとどめた。そうして小間使いの娘には自分の思うところを隠し、無垢なおとめにそうするように、優しげなそぶりでこう 言った、「さ、行ってチャードルで頭を覆い出かける支度をおし。どこそこの誰それのお屋敷へ、わたくしからの言伝てを届けてほしいのよ」。二人の女が交わした会話は省略しよう。
1360. こと細かに言わずとも分かるだろう、年かさの女主人は用心深く小間使いの娘を送り出し、それから扉を閉ざした。情欲 に酔って晴れ晴れとした面持ちになっていた。(彼女は)心の中でつぶやいた、「これでようやく一人っきりになれた。大声を出して感謝したいくらいだわ、四ダング、二ダングの呪縛2から解放されたのだもの」。快楽の予感に彼女の膣は夜鳴き鶯のごとく歌い出した。情欲の炎が燃え盛り、堪えきれなくなっていた。興奮のあまり絶頂に達し、気を失っても不思議ではなかった。
1365. 性にまつわる欲望は心の目と耳を塞いでしまう。ロバがヨセフのように見え、炎が光に見えるほどに。ああ、どれほど多くの者たちが炎に酔い炎を求め、自らを絶対の光と思い込んでいることか。彼らは取り残されたまま、(選ばれし)神のしもべか、もしくは神(御自ら)が道へと連れ戻し、その葉を再び育てぬ限りは。光と思い込んだそれが、道の途上にあらわれるかりそめの幻に過ぎぬと知らしめぬ限りは。官能の欲望は汚濁を美しいものに見せかける。道における破滅のうち、情欲に比するものはない、これほど悪しきものはない。
1370. これにより幾百、幾千の良き者の名が汚された。これにより幾百、幾千の賢き者が愚者と成り果てた。これによりロバがエジプトのヨセフのように見えるなら、いかにして(異教の)ユダヤの民をヨセフと看破できようか。それは魔術もて糞を蜜に見せる。糞を蜜と思い込む者、情欲が理性に勝る者が、ほんものの蜜を目の前にしたならば何と申し開きをするのだろうか。飲むこと、食べることは情欲をいや増す。食事の量を減らせ。あるいは婚姻を結べ、悪事と手を切るためにも。食べるにせよ飲むにせよ、度を越せば禁を破ることになる。うまい儲け話には、当然、損もついてまわる。
1375. と、なれば婚姻とは魔除けのごときもの、悪魔の誘惑に陥らぬよう「神によるほかはいかなる力もない(コーラン18章39節)」と口にするようなもの。飲み食いを断てぬ者ならば、すぐにでも婚姻に応じてくれる女を探せ。でなければ忍び込んできた猫に、いちばん美味い脂のついた羊の尾肉を盗まれる羽目になるだろうから。きかん気の強いロバに振り落とされぬよう、うんと重たい荷物を積め。炎がどのような働きをするのか知らぬうちは、炎から離れているに越したことはない。炎についてほんの少し知っただけで、炎に近づこうなどとしてはいけない。料理に使う鍋と炎の扱いを知らぬ者が、炎でもって煮物やスープを作れるなどと思わないことだ。
1380. 鍋の中身が焦げつかぬよう、無事にスープを煮込もうとするなら、水も要れば技術も要るのだ。鍛冶屋には鍛冶屋の学問がある。そのことに無知な者が鍛冶場に足を踏み入れれば、髭も髪もたちまち燃えてしまうだろう。彼女はロバを楽しもうと扉を閉ざした。そろりそろりとロバを連れてゆき、魁偉なるけものの下に横臥せんと身支度をした。欲するところを成し遂げようと、小間使いの娘が使っていたのと同様に椅子の上に腰を下ろした。
1385. 彼女が両の足を高く上げると、ロバが彼女を貫いた。その陰茎は彼女をこれ以上はないというほどに燃え立たせた。ロバは何をどうすべきか熟知しており、ゆるゆると女の中に入っていった。睾丸を打ちつけるほど押し入ったとき、彼女は絶命した。陰茎が臓腑を押しつぶし、腸を引き裂いたのである。彼女はただの一言も、何も言い残さなかった。ただ無言のうちに自らの魂を手放した。椅子が一方に倒れ、彼女がもう一方に倒れた。厩舎の地面は鮮血に染まり、その上に彼女が頭を傾げるようにして横たわっていた。これが彼女の死であった。これが彼女の魂の奉納であった。なんという悲しい運命、
1390. なんという恐ろしい死に様、なんという恥辱の極み。初耳だろう、ロバの陰茎ゆえに死に至った殉教者の話など!恥辱がもたらす苦痛が何であるかについてはコーランに学べ。あなたがたの人生を恥辱の犠牲にしてはならない。あなたがたの情欲とは、この雄ロバ同様であることを知れ。これにつき従うことは、(死に至った)彼女の振る舞いよりも更に恥ずべき振る舞いと知れ。情欲の赴くまま利己的に振る舞い死に至ったなら、それは彼女と同様の死に様であることをしかと知れ。御方はわれらの情欲に、ロバの姿かたちを与えたもう。内側にある本質に似つかわしい、外側の容姿を与えたもう。
1395. これぞ復活における秘密の開示、神の名において、ただ神の名において、ロバにも似たこの肉体を逃れよ!神は炎もて不信の輩を脅したもう。不信の輩は言う、「恥辱よりも炎の方がまだましだ」。御方は告げたもう、「否。炎こそはあらゆる恥辱の根源である」。彼女に破滅をもたらしたのも、実に情欲の炎であった。熱に浮かされたように、彼女は度を越えて食した。恥ずべき死の一口が、彼女の喉を詰まらせた。おお、強欲な者よ。節度を保って飲みかつ食え、たとえそれがさじ一杯のハルワ、さじ一杯のハービスであっても。
1400. いと高き神は、秤にもの言う舌を授けたもう。(その言葉を)聞け、コーランを読め、慈悲深き御方の章を唱えよ。用心せよ、あなたがたの中にある貪欲さに秤を委ねてはならない。情欲と強欲は、あなたがたを破滅へと導く敵である。強欲は人に全てを欲しがらせ、そして全てを失わせる。強欲の奴隷にはなるな、おお、無知より生まれた無知の子よ。使い走りの道すがら、小間使いの娘は心の中でつぶやいた。「ああ、わが女主人よ。あなたは道に長じた熟練者を追い払ってしまわれました。あなたは専門家の助言無しに事に及ぶつもりなのでしょう。そのようにして愚かにも、命を危険にさらすのでしょう。
1405. あなたはわたしから中途半端な知識を盗みました。けれど罠については、わたしに尋ねることを恥とお思いになったのでしょう」。挽き臼の小麦をついばまなんだら、鳥も網にはかからなんだろうに。小麦の量は控えめに食べよ。そんなにも多くの小麦で、あなたがたの肉体を繕う必要はない。「食べよ」と唱えたその後に、続いて「ただし度を越えないように」とも唱えよ。それであなたがたも小麦を食べ、かつ罠に陥らずに済むだろう。知識を得ること、満足とは何かを知ることがその役に立つ。結句、それが全てである。賢い者は今すでにあるものから幸福を得るすべを知っている。反対に、愚かな者は不幸を嘆き悲しみ、後悔と失望に明け暮れることしか知らない。
1410. (官能という)罠の網が彼らののどを絞めつけるとなれば、彼らにとっては小麦を食べること全てが禁忌となってしまう。罠にかかった鳥が、どうして小麦を楽しめようか?罠の中にまかれた小麦など、鳥にとっては食べても毒でしかない。罠の中の小麦を食べるのは怠惰な鳥だけだ。この世にはそうした鳥が沢山いる、世間という罠に捕われ、罠の中で食べ続けている。だが用心深く賢い鳥たちは罠から離れたところに立ち、自らこしらえた革の腰帯をひきしめる。何故なら罠の中の小麦が毒でしかないことを知っているからだ。罠の中の小麦を欲するのは、ものごとの見えない鳥たちである。
1415. 罠の持ち主は鳥の首を刎ね、離れたところにいる賢い鳥は生かしたままで連れてゆく。何故なら罠にかかる鳥など、その肉の他には何ひとつ役に立たないからだ。一方で賢い鳥たちの歌う歌、高くも低くもさえずれる声音にはそれ相応の価値がある。小間使いの娘は扉のすき間越しに、自分の女主人がロバの下でこと切れているのを見た。「ああ、なんて愚かな女だろう!」彼女は叫んだ。「何ということを仕出かしたのか。正しいやり方を知っていたなら、こんなことにはならずに済んだのに!
1420. あなたは私のしていたことをご覧になったはず。それなのに、見るべきものをしっかりと見てはいなかった。あなたはやるべきことを知らぬまま、やりたいことに手を出した。あなたは陰茎しか見ていなかった。あなたにとって、それは蜂蜜や乳脂がたっぷりと入った繊細な菓子のようにしか見えなかったのでしょう。あなたは自分の情欲の赴くままに振る舞い、そこにある瓢箪には目もくれなかったのでしょう。それともあなたはロバを愛していたとでも?ロバへの愛ゆえに目がくらみ、瓢箪が目に入らなかったとでも?せっかく私という達人がここにいて、あなたの目の前で知識を披露したというのに、あなたは学ぼうともせずただ上っ面だけを見ていた。そして私という達人についても、ただ私が得ていた快楽のみを見ていたのだ」。ああ、多くの者がこれである。導師たる(精神生活における)王から何ひとつ学ばず、(宗教上の事柄について)ほんの少し齧った程度の、ただ言葉と態度のみが王であるといった厚かましい者たち。
1425. 皆が皆お決まりのように、手にはめいめい杖を持ち「私こそはモーセである」と言い、愚かな者に息を吹きかけては「私こそはイエスである」と言う。実に悲しむべきことである。これでは試金石がいくつあっても足りない。やがて試金石の方があなたがたに言うだろう、「そもそも汝らが測らんとする誠実さについて、汝らは何を知っているのか」と。来たれ、そして師に尋ねよ、道において何が欠けているのかと。それとも貪欲に耳も目も塞がれて、何も聞こえず何も見えずにいるのだろうか?あなたがたは全てを欲しがり、それゆえに全てを失う。愚かな者は狼の餌食になるより他はない。言葉の形式のみを聞き、上辺だけはすっかり身につけたつもりの説教者たちの群れ。だが実際のところ彼らには、自分自身の語る言葉であってさえ、それがいかなる意味を持つのか理解できていない –– ただのオウムの群れであるが故に。
*1 この物語の原型については、その発祥を東洋に見出し得ておらず、わずかにディンドルフによる”Λουκιος η Ονος (『ロバのルキウス』 パリ、1884年)”, p.465 もしくはアプレイウス『変容 または黄金のロバ』10巻19-22 を参照先として挙げられるのみである。ルーミーの語りにおいては魔法の出番もなく、(詳細も含めた)全体的な舞台設定も異なるが、何らかの関連があると見ていいだろう。
*2 「四ダング、二ダング」 ダング=1/6ディルハム。「一人ひとりに取り分がある」というような意味の言い回しだが、同時に「ローマ人風のやり方」という意味でもある。(R. A. ニコルソンの注釈。”The Mathnawi of Jalalu’ddin Rumi Books III – VI Commentary” p. 253)