美しい死

『ルーミー詩撰』
メヴラーナ ジャラールッディーン・ルーミー

美しい死 1

それをヨセフのように慕わしく思う者なら
惜しまず魂を差し出して購いを得るだろう

それを狼のように忌み嫌い避け続けるなら
やがて救いへと至る道からも逸れるだろう

誰しもが等しく死を迎える
その者の質に相応しい死を

敵と思えば死は敵となる
友と思えば死は友となる

神の敵には死も敵となり
神の友には死も友となる2

トゥルクの人が鏡を覗けば
鏡にはトゥルクの人が映り

エチオピアの人が鏡を覗けば
鏡にはエチオピアの人が映る

死への恐怖と呼ばれるそれは
実際には自己への恐怖であり

死を直視せぬ者とは
自らを直視し得ぬ者

死からの逃亡を企てる者は
自己からの逃亡を試みる者

あなたが鏡を覗けば
鏡に映るのはあなた

あなたの魂は樹のようなもの 死は葉のようなもの
それはあなたが育てたもの 良きにせよ悪きにせよ

もしも棘があなたに刺さるなら
棘あるものを育てたのはあなた

もしも絹布があなたを包むなら
糸を巻き布を織ったのはあなた

行為の顔と結果の顔は
同一ではないと心得よ

労働者が受け取る報酬と
労働は決して同一に非ず

労働は偶然であり
報酬は実体である3

前者は血と汗と苦難であり
後者は銀と金と饗応である

祈る者が跪いて種子を蒔けば
やがて祝福されし庭園に育つ

その唇からこぼれた賛美の言葉もて
黎明の主は庭園の果実となしたもう

 


1. 『精神的マスナヴィー』3-3438. 併せて[死せる者の嘆き]参照。ヨセフとオオカミの譬えはコーラン12章13節他を暗示している。

2. それが肉体的なもの( idtirari )であれ、精神的なもの( ikhtiyari )であれ、死はあたかも鏡のように覗き込む者の姿を映し出す。善なる性質を持つ行い正しい者であれば、死を愛するだろう。でなければ映し出された自らの邪悪さを忌み嫌い、恐怖のあまり逃げ出すだろう。実際のところ、自らが生み出し育ててきたものに怖じ気づいているに過ぎないのだが。

3. 人間の行為は原因であると同時に結果でもある。好き勝手に振る舞えば、後々になって相応の報いを受ける。だがある視点からは、行為と結果がその価値において同質であるかのように見えたとしても、例えば建築家の意識に生じた館の図案のように、実際は神の知識として先在していた究極の原因と不変の行為が表出したものとも考えられよう。こうした視点からすれば報いとは、実際に行われたあらゆる人間の行為の根底に等しく横たわる真理の神的表出であり、言い換えるならばそれは隠されていた真理の、見かけ上の変化である。とするならば、それら(原因と結果)が同質であるとは断言し難く、あくまでも偶然と実体としてのみ区別されるのである。『精神的マスナヴィー』2巻938-1000行目参照。