泥中の蓮

『ルーミー詩撰』
メヴラーナ ジャラールッディーン・ルーミー

「泥中の蓮」1

 

愚か者が贋金をつかまされるのは、それが本物によく似ているからだ。
この世には、贋金ではなく本物の金貨も確かに存在している。
そうでなければ、贋金作りの仕事は成り立たなくなってしまう。

人は正しいものを愛する、真実を恋い焦がれる。
けれど正しいものへの愛、真実への恋慕が、
一歩間違えれば、人を虚偽と悪へと導いてしまう。
砂糖に、ほんの少しだけ毒薬を混ぜ合わせてみるといい。
人は争ってそれを口に詰め込んでしまうだろうから。

ああ、友よ叫ぶな、教義の虚しさに嘆くな。
暴くな、戒律の空々しさを。
贋金のうちにもほんの一枚、本物の金貨が混ざることもある。
ほんのひとつまみでも真実がある。そうでなければ、
どうして人がこれほどまでに執着するものか。

夢の全てを虚しいと言うな。
君の見る夢、世の中の見る夢の全てが、
消え去る幻に過ぎない、とも言い切れないのだから。
そこに真実などひとかけらもない、などと
決して言い切れるものではないのだから。

修行者達の群れの中に、真のファキールが隠れている。2
たった一人だけ見つければよいのだ、大勢見つける必要はないのだ。
よく探せ、そうすればきっと見つかるだろうから。

 


*1 『精神的マスナヴィー』2-2928. 過失や虚偽、悪といったものの全ては、それのみでは成立しない。それらは常に、真に正しいもの、善いものとは何かを判別するために用意されているに過ぎない。そして過失を犯すとき、人々は常にそれが正しく善であると思い込んでそうするのである。ソクラテスの言にもあるように、「彼らは決して邪悪を欲してそうするのではない、彼らは彼ら自身の本質を見誤ってそうするのである。善を欲するあまりに悪を働くのである」。

*2 ファキール(Faqir)とは「貧者」の意。修行者を指す。