倫理のつとめ

『ルーミー詩撰』
メヴラーナ ジャラールッディーン・ルーミー

「倫理のつとめ」1

 

我らが矢を放つとき、その行為は我らの有ではない。
我らは弓に過ぎぬ。矢を放つ真の射手は神である。

これはジャブルについての話ではない。ジャッバールたる全能の御方の、
「謙虚であれ」とのご命令について話している。2

我らの裡に眠る謙虚さが、神の全能を証明している。
一方で、罪の意識は自由意志の存在を告げる。

もしも我らが自由でないなら、この恥の意識は何なのか?
この悲しみ、この疾しさ、この混乱と当惑は何を意味するのか?

導師が弟子をたしなめるのは何故か?
心がうつろい、新たな何かを求めるのは何故なのか?

「自由意志を主張する者は運命に従わぬ者
彼らに対し、神は月を雲間に隠す」と言う者がある。4

これに対する正しき答えはこうだ –
「不信仰を手放し、真の宗教に目覚めよ」。

病に冒され苦しめられれば、人の裡には良心が目覚める。
後悔と自責の念がわき起こり、犯した罪を神に悔悟するようになる。

罪の汚れは道しるべとなり、正しき道へと人を連れ戻す。
約束をし、誓いを立て、神に従う道以外は選ばぬようになる。

知れ、理法の探求者よ – 痛みや苦しみによって、人は神に気づく。
目覚めた者であればあるほど、更なる熱情を傾けて神を意識する。3

神の全能を知った者が、どうして心砕かずにいられようか。
自らを繋ぐ鎖の在り処に、どうして気付かずにいられようか。

鎖に繋がれている者が、浮かれてなどいられようか。
牢獄に繋がれている捕虜に、自由な振る舞いなど許されようか?

やりたいと思えば何でもできる、たとえそれが何であろうと。
あなたはそう考えている – あなた自身が良く知る通り。

だが意に染まぬことに出くわすと、あなたは宿命論者になる。
「無理だよ。だって全能の神様がそう定めたのだから」

預言者たちは、現世については宿命論者のごとく働き、
来世については自由意志を働かせた。

一方で不信の者たちは、現世については自由意志を働かせ、
来世については宿命論者のごとく放り出した。

 


*1 『精神的マスナヴィー』1-616. 「あなたが射たとき、あなたが当てたのではなくアッラーが当てたのである(コーラン8章42節)」。ここでルーミーはムスリムの正統派教義を擁護している。すなわち「被創造物はその行為を創造し得ないが、行為を強制されているのでもない。神は行為を、被創造物に備わった自由意志(ikhtiyar)による選択と共に創造する」。

*2 ジャブル=宿命(Jabr)、ジャッバール=強制する者(Jabbar)。神の名のひとつに「強制者」があるのは、我々が主の奴隷に過ぎないこと、また主の意志の影響を避けられないことを思い起こさせるためである。

*3 苦痛は、罪を犯した者に悔悟をもたらす。真の悔悟とは自我を放棄を意味する。自我の放棄とは、神の知と愛を得ることでもある。宿命論者たちが、自分たちは「強制されている」と真に悟ったなら、彼らは苦悶に陥り、取り乱した恋人のように嘆いて神に縋りついているはずなのである。

*4 邦訳者註:「月を雲間に隠す」=ここで言う「月」は真理、「雲」は憶測の意。