十と二の福音

『ルーミー詩撰』
メヴラーナ ジャラールッディーン・ルーミー

「十と二の福音」1

 

イエスの宗教に仇なす輩が、十と二からなる書簡をしたためた。
書簡は最初から最後まで、互いに打ち消し合い矛盾し合っていた。

ある書簡では禁欲主義の道が説かれた –
断食こそが悔悟の証し、改悛に必要欠くべからざるものと綴られた。2

別の書簡では、禁欲主義の無益さが説かれた。3
「禁欲は無益なり」
「この道における救済は、惜しみなく与えることにある」

また別の書簡では、節制と贈与が同時に説かれた。4
「節制も贈与も、あなたが真に奉仕すべき主との紐帯」
「ただ主のみを信じ、悲哀と歓喜を断ち切れ」
「感情は、あなたを陥れる罠に他ならない」

また別の書簡では、感情は神への導きであると説かれた。5
「それはあなたを神に奉仕させんがためにある」
「全てを神に委ねるという考え方には疑念の余地がある」

また別の書簡では、聖法は方便に過ぎないと説かれた。6
「神命と禁令は実践するには及ばない」
「それらは人間の不完全さを知らしめるために下されたのである」
「ゆえに自らの無力を知り、全能の主の大権を賞賛しなさい」

また別の書簡では、無力の克服が説かれた。7
「無力であることが何ほどのものだろうか」
「無力なままに留まることは忘恩の振る舞いである」
「持てる力を行使せよ、絶対の主により授けられし力を」

また別の書簡では、そのいずれもが否定された。8
「強さも弱さも忌むべき二元論から生じる」
「感覚から立ち去れ、それは偶像崇拝の元凶である」

また別の書簡では、感覚という蝋燭の炎を保つよう説かれた。9
「この蝋燭の炎が放つ光が、内観への導きとなるのである」
「感覚や感動を早々に捨て去るのは、闇の中で合一のランプを消すに等しい」

また別の書簡では、早々に捨て去るよう説かれた。
「恐れることは何もない、早々に捨て去るべきだ」
「引き換えに、幾千倍もの価値ある感覚を手に入れられるだろう」
「捨て去ってしまえば、精神の光が限りなくいや増すだろう」
「あなたのライラが、マジュヌーンとなってあなたにかしずくだろう」

また別の書簡では、導師を探すよう説かれた。
「導きの師に教えを請いなさい」
「父祖の判断に委ねていては、終末を予見する真の眼識は得られない」

 

– 終末論を叫ぶ宗派集団は無数あるが、彼らの言う「終末」以前に
「終末」を迎えたのは常にそうした彼ら自身であった。
彼らは、彼ら自身の終末を予見しているに過ぎない。

終末を知るということは、そう簡単なことではない。10
でなければ「終末」について、
こんなにも多くの異論が混在するはずがなかろう。
敷物でも織るように仕上げられるものでもなければ、
敷物の山から好みの一枚を選び取るようなことでもないのだから。 –

 

また別の書簡では、独立した人間であるよう説かれた。11
「人間であれ、誰かの奴隷になってはならない」
「導きの師を探し求めて奔走するのは馬鹿げている」

また別の書簡では、一元論が説かれた。
「多様性は一に収束する、一を多と見る者は木偶の坊だ」

また別の書簡では、多元論が説かれた。
「百と一の区別もできないとは、多を一と見る者は狂人だ」

 

– 書簡の書き手は、一番肝心なことを理解していなかったとみえる。
一番肝心なこと、すなわちイエスの純粋さについて。
百の色持つ布でさえ、浸せば光の一色に染まるイエスの染め桶から、12
彼はわずかな染みひとつ、何ひとつ持ち帰りはしなかったのだ。

 


*1 『精神的マスナヴィー』1-463. ある偏狭なユダヤの王がキリスト教信仰を根絶やしにしようと決心した。だが多くの信者たちが王の禁令に背き、処罰を恐れて自らの信仰を隠匿するのを察知すると、王は腹心である宰相に相談した。宰相の進言は以下のようなものであった。 – 宰相が実はキリスト教徒であったことが露見したため、罰として不具者とし追放する。そうすれば、宰相はキリスト教徒たちの内部へやすやすと侵入できる。そして彼らの信頼を得、彼らを内部から破滅させるのだ – はたして策略は実行された。宰相は徐々に、だが確実にキリスト教徒たちを掌握し自らの支配下に置いていった。やがて機が熟したのを見計らい、宰相は十二人の司祭を一人づつ呼び出し、自分の後継者に指名した上で一通の書簡を手渡した。司祭たちは、その書簡には「キリストによる真の福音が記されている」と告げられたが、実際にはそれぞれが互いに矛盾し合う埋め尽くされていた。全てを終えると、宰相は自ら命を絶った。彼の死後、「自分こそは真の後継者である」と主張して譲らない十二人の司祭の間にたちまち熾烈な抗争が始まった。こうして宰相は、彼らが互いに相争い自滅するに任せたのである。

これよりも古い年代のムスリムたちが語る伝説においては、登場する宰相と聖パウロが同一視されているが、これは聖ペテロを支持していたキリスト教神学者たちによる(聖パウロへの)熾烈な批判を反映したものと考えられる。偽クレメンス文書に所収されている『ペテロの講話集』においては、十二使徒の信仰告白を含む十二の福音を改ざんした者としてパウロが激しく糾弾されている。

*2 以下、ここで羅列される教条には、キリスト教神学や実践の影響下において発展を遂げたとおぼしき点も見受けられるが、とは言えあくまでもスーフィーのそれである。

*3 「惜しみなく与える(jud)」、すなわち慈悲と寛大の魂が、禁欲主義の外面的要素と対比されている。

*4 どのような形態を伴おうとも、自己決定に基づく行為、自己を中心とする思考は「隠れた多神崇拝(shirk-i khafi)」に他ならない。

*5 「神への全き信頼(tawakkul)」という教義は、論理的に突き詰めれば、それは善良なムスリムならば看過し得ない宗教的・社会的義務と相反する結論に達しかねない。

*6 「jabr」の持つ異端的要素への言及である。「倫理のつとめ」、「『何であれ、神の思し召すままに』」、「定命と自由意志」参照。

*7 前掲「倫理のつとめ」註1ならびに「定命と自由意志」註5参照。

*8 「偶像」とは、神的統一を阻む障害物に他ならない。

*9 人間には、その創造の目的を達成するのに必要な精神的・身体的能力が授けられている。これら無しには神に関する完全な知識を会得することはできない。同時にこうした能力はあくまでも現世(物質的世界)に属するものであり、人間の真の目的地にまで同行することは不可能である。とは言え人間は、目的地に達する以前の途上において早々に目を閉ざしてしまうよりも、感覚や知性の助けを借りられる間はこうした光を存分に駆使するべきである。

*10 「終末の予見(’aqidat-bini)」、いわゆる「千里眼」といった類いの能力や普遍の霊知は、スーフィー覚者の手ほどきを受けた者に伝授される。その他の人々は、自らがそれぞれに考えるところの「終末」を主張する。

*11 「人間であれ」、すなわち「完全なる人間」を目指せという意味。預言者たち、聖者たちは完成された「人間(mardan)」と看做される。「礼節の祈り」註3参照。

*12 ムスリムの著述家たちは、イエスが染色職人の徒弟だった頃、彼が色とりどりの布を桶に浸すと雪のように純白に変わったという逸話を伝えている。触れるもの全てを浄化・純化する「完全なる人間」の心の状態を示す寓話である。