不思議の梨の木

『ルーミー詩撰』
メヴラーナ ジャラールッディーン・ルーミー

「不思議の梨の木」1

 

この梨の木とは原初の利己心、自我である。
これが目を眩ませ、ものごとを歪ませる。
この梨の木から降りたとき、
ものの見方も考え方も、発する言葉も、
二度と不首尾を起こさなくなる。
降りることで謙譲の意を表すれば、
神がほんものの視覚を授けてくださる。
ひとたび降りてこれ、この梨の木を振り返れば、
それが運命の大木であることも、
その枝が七層の天にも
届かんばかりであることが知れるだろう。
変容を遂げた大木を再び登れ、
今度は、神の御慈悲にすがりつつ登れ。
今や大木は光輝に包まれ、
かの燃える柴のように叫ぶ、 –– 「われは神なり!」。2
欲するところ全ては、この木陰で満たされよう。

これこそは神の錬金術である。
全能者たる神の御目を通してものごとを見ることにより、
あなたは自らの個性を、自らの存在を、
あなたに属する正当なものとして受容するようになる。
歪んだ木は、直立する大木へと成長したのである。
神は告げたもう、 –– 「その根は堅く、その枝は天にも届く」。3

 


1. 『精神的マスナヴィー』4-3562. ボッカチオ『デカメロン』(第7日第9話)やチョーサー『貿易商人の話』(『カンタベリー物語』収録)にも、梨の木によじ登り、これのせいで幻覚が引き起されたのだと称して、妻の不貞をその目で目撃した愚か者の夫に妻の無実を信じ込ませようとした伊達男の話が登場する。ルーミーの解釈は上述の通りである。彼は同じ物語を神秘主義に応用してみせた –– 魂による自意識からの「下降」は神的意識への「上昇」である、という具合に。しばしば彼はこのような拡大解釈をありとあらゆる物語に施し、どのような冗談や漫談からでも見事に箴言を引き出してみせる。

2. コーラン28章29、30節ならびに創世記3章1節から6節。

3. コーラン14章29節。 (邦訳者註:これはフリューゲル版での節番号であり、現在の一般的「標準エジプト版」では14章24節に相当する。)