解説

『ルーミー詩撰』
メヴラーナ ジャラールッディーン・ルーミー

解説

I

ペルシャの最も偉大な神秘詩人、ジャラールッディーン・ルーミーがこの世に生まれたのは1207年、ペルシアの北に位置するホラーサーン地方の都市バルフでのことである。当時その土地はフワーリズム・シャー朝の隆盛期を極めたシャー・ムハンマドの統治下にあった。彼の帝国は、E. G. ブラウンの言葉を借りれば「ウラル山脈からペルシャ湾まで、インダス河からユーフラテス河まで」という広大さであった。

さて、我らが詩人の一族はバルフに定住して既に5-6世代にもなる。世間からは高く尊敬され、家系を辿れば特筆に値する法学者や神学者も少なからず輩出していた。彼の曾祖父にあたる人物はもともとアラブの一部族の血をひいており、最終的にはイスラーム朝初代カリフであるアブー・バクルにまで遡る。

その他のペルシャにおける聖者と同じく、ルーミーの人生もまた東洋的な、すなわち真偽のほども定かではない巨大な伝説群に包囲されている。幸いなことに、ルーミーの残した軌跡それ自体が歴史的にも他に類を見ない圧倒的なものであるため、その中に信頼するに足る適切な情報を見いだすことができる。1 残された主要な断片を元に、彼の人生を以下に描写する。彼の神秘主義的思考と詩人としてのひらめきは、全て彼自身の実体験がその契機となっていたことが理解できるだろう。

1219年、ジャラールッディーンが12歳の時、彼の父バハーウッディーン・ワラドは彼の一族を引き連れてバルフを去り、西方へと旅をすることを決意する。この放浪を神のお告げであるとか修行のためであると解釈するのは全くの虚偽であり、これはその他多くのバルフの住人たちがそうしたのと同じく、モンゴル来襲の恐怖を避けるための移住である。モンゴルの脅威はすでにホラーサーン一帯を侵略し尽くし、彼らの土地が殺戮にさらされるのも時間の問題であった。モンゴルの恐怖より逃れるために脱出は実行された。彼らはまずバグダッドに辿り着き、更にバグダッドからメッカ、メッカからダマスカスへと逃避行を続け、最終的にルーム(トルコ)に落ち延びたのだった。

最初に住んだのはコンヤから40マイルほども離れたザランダである。ルーミーはここで最初の結婚をした。1226年、彼の長男であるスルタン・ワラドが誕生し、これを機に、バハーウッディーンは一族の定住の地を当時西セルジューク朝の中心地であったコンヤへと移した。その後1230年、バハーウッディーンはコンヤにて永眠する。彼については、著名な神学者であり教師であり、また偉大な伝道者であったと伝えられている。多くの弟子たちの尊敬の対象であり、また在位中の支配者にとっては精神的導師として丁重な扱いを受けてもいた。

彼の死と前後して、かつてバハーウッディーン・ワラドの弟子の一人であったブルハーヌッディーン・ムハッキクがティルミズよりコンヤに到着した。彼の影響下にあって、今や25歳となったルーミーはスーフィー、すなわち男女の別に関わらず、神と彼ら自身の合一を目指す修行者たち独特の規律と教義とに開眼し、一心に傾倒していったといわれる。それからの約10年間、彼は師であるブルハーヌッディーン・ムハッキクの全てを模倣し、神秘の階梯を昇ることのみに費やした。1940年に師がこの世を去った時、彼は順当にシャイフ(精神的導師)としての社会的地位を確立しており、その強烈な個性に惹き付けられた数多くの弟子たちが次から次へと集まってきた。ただし彼自身には、そのように装う意識はほとんどなかったようである。彼は単純に、道を志す多くの仲間たちと友愛を育むことを心から楽しんでいた。

彼の息子によると、ルーミーの人生はおよそ三部分に分けることが出来るという。三部分は、それぞれに異なる「完全なる人」とのごく親しい交流によって彩られている。ここで言う「完全なる人」とは、神の属性を鏡のごとく反射する聖者を指す。「完全なる人」とは「愛する者」である。神の光を通して自己を見る者であり、「愛する者」と「愛される者」が「ふたつ」ではなく「ひとつ」であることを知っている者である。ルーミーの見神論の中心に位置するのはまさしくこれらの経験であり、直接的または間接的に彼の詩全てのインスピレーションの源となっている。神秘主義者の息子であり、自らもまた神秘主義者であった人物の遺した、多分に寓話的な要素を含む韻文をどこまで信用すべきかについては十分に慎重になる必要があるだろう。だが同時に、全てを敬虔な宗教者によるフィクションとして排除してしまっては軽卒のそしりを免れるものではない。少なくとも同時期に生活を共にしていた複数の人物が、同種の言葉を以て同種のヴィジョンの証言者として語っている事実を事実として認める必要があろう。また反対に、語られていない部分についても同様に留意すべきである。

1244年、後世においてシャムスッディーン・タブリーズィー(タブリーズ地方出身のシャムスッディーン)として知られる放浪のダルヴィーシュがコンヤにたどり着いた。ジャラールッディーンは、この見知らぬ放浪者の中に「愛する者」の完全なイメージを見出す。彼はシャムスッディーンを自宅に招き、そのまま1年ないし2年、二人は片時も離れず共に行動した。スルタン・ワラドはその回想録の中で、彼の父がこの「隠れた聖者」との交流に夢中であったことに触れ、その様子を、神へと至る道においてスーフィーたちが最も重要視している「ハディルとモーセとの旅(コーラン18章(洞窟の章)、64−80節)」に模している。一方、ルーミーがあまりにもシャムスッディーン一人に傾倒したため、マウラウィー(メヴレヴィー)2と呼ばれたルーミーの弟子たちは、師の眼中から完全に疎外されてしまった。師の時間を独占し続ける新たな侵入者に対し、弟子たちはあからさまな暴力と脅迫をもって攻撃した。

最終的にシャムスッディーンはダマスカスへと逃げ落ちたが、スルタン・ワラドによって連れ戻された。親友を失ったジャラールッディーンがひどく激昂し、探し出して連れ戻すよう命じたためである。弟子たちはこの一件を「悔悟した」ために、一応の許しを得た。しかし程なくして新たな嫉妬の嵐が巻き起こり、シャムスは再び失踪した。またしてもスルタン・ワラドが呼び出されたが、今回はシャムスの行方は知れなかった。おそらく1247年を境に、この謎に包まれた人物は痕跡すら残さずに消え去ってしまった。

スルタン・ワラドは、彼の父を圧倒し自制心を失わせたこの一時期について、その制御不可能な情熱について、鮮やかに解説している。

……彼(父)は一瞬たりとも音楽と舞踏(セマー)から離れようとはしませんでした。昼も夜も、休息を忘れたかのようでした。彼がかつてはムフティー(法学者)であったことなど、いったい誰が信じるでしょうか。彼は詩人になりました。かつて彼は禁欲主義者でした。それが今では、愛に酔い痴れていました。そのワインは、葡萄から作られたものではありませんでした。彼の魂は完全に目覚め、飽くことなく光のワインを欲しました。

更にスルタン・ワラドは、父の作品である『シャムスィ・タブリーズィ詩集』に言及する。『シャムスィ・タブリーズィ詩集』とは、膨大な量の神秘主義詩を編纂したもので、ジャラールッディーンによりシャムスッディーンの名を冠され、彼の分身とも言うべき友との思い出に捧げられている。また確定的ではないが、シャムスを失ったことへの深い悲しみが、ジャラールッディーンをしてかの有名なセマー、すなわち特徴ある葦笛の響きを伴奏とするメヴレヴィー達の回転舞踏の形式の土台ともなったというのが多くの研究者の意見が一致するところである。ジャラールッディーンはその後も同じような「精神的交流」を求めては繰り返すが、いずれもシャムスッディーンとのそれに比べればはるかに微弱なものである。

シャムスッディーンの失踪からしばらくして、彼は弟子の一人であったサラーフッディーン・ザルクービーに専念するようになる。サラーフッディーンは、彼の代理者として弟子たちの指導を行なうようになった。これに対してそれと分かる方法で反抗する者はいなかったが、一人、二人と破門されるうちに敵愾心を燃やす首謀者も沈黙する他はなかった。

サラーフッディーンの死後、詩人は次なるインスピレーションの源を必死に探し求めた。フサームッディーンという新たな弟子が、詩人の熱意によく応える逸材となり、ここに最も偉大な傑作である『マスナヴィー』が誕生する。ジャラールッディーンは『マスナヴィー』を「フサームッディーンの書」と呼び、自らをフサームッディーンの唇に備えられた葦笛に例え、「私は彼の音楽を奏でた」と言った。詩人の人生のうち最後の10年間、彼が詩人の代理者となった。1237年に詩人がこの世を去ると、1284年にスルタン・ワラドがその地位に就くまでの間、彼は後継者としてメヴレヴィー教団指導者の面目を保った。

ここまでがルーミーの生涯である。最初は彼の息子によって、後に伝記作者によって書かれた韻文以外に、彼の一生について確かめられる情報源は何もなく、またそれらが信頼に値するものかどうか確認するすべも今となってはほぼ皆無である。アフラーキーやその他による伝記によれば、彼は導師であり哲学者であり、また友人であり、またセルジュク王朝に仕えたルーム地方の支配者ムイーヌッディーンとも交流があったばかりではなく、その主筋にあたる「王宮の主人」すなわちスルタン・アラーウッディーン本人とも親しかったとされる。いずれにせよ、彼と彼を取り巻くスーフィーたちの一派が持つ影響力は無視出来ないほどに大きなものであったことや、彼らの説く教義に対して攻撃する者があれば反論するなど、そうした全てを楽しんでいたことが伺える。詩人は、保守的な批判者の一群を「乳離れしていない赤ん坊」「月に向かって唸る野良犬ども」と呼び、挑発すらしている。

プラトン的な愛の発露については、いみじくもルーミーがシャムスとの交流を「二つの肉体に一つの魂」と謳うはるか以前より、多くのスーフィーたちによって言及され洗練されてきた。愛の魂が結合するとき、全ての分け隔ては消滅する。「愛する者」と「愛される者」が別個であったそれまでのアイデンティティを統一するとき、残るのは愛のみであり、それだけが真に重要なのである。ルーミーがその詩集を『シャムスィ・タブリーズィ詩集』と名付け、また詩の中でシャムスッディーンと名乗るとき、ルーミーはシャムスッディーン自身と同一であり、その逆もまた然りである。

シャムスッディーンの生涯は謎に包まれており、彼については依然として知らされる部分はごくわずかであるが、シャムスッディーンについて知りたければ、『シャムスィ・タブリーズィ詩集』を熟読することである。一部の研究者の、シャムスッディーンをいわゆる「ミューズ」と看做す見解に同意する必要はない。その種の見解はシャムスッディーン以降の、サラーフッディーンやフサームディーンのようにメヴレヴィー教団の基礎を作った歴史的にも重要な人物すらも卑小化するものである。彼ら三人は等しく実在の人物として扱う必要がある。でなければ、スルタン・ワラドが父の生涯について書き記す際に、想像上の人物を登場させることによって脚色したという結論に至りかねない。『マスナヴィー』や『シャムスィ・タブリーズィ詩集』は、西洋の学生たちにあることを発想させるようである。彼らはダンテの「神曲」を思い浮かべてこのように言う。すなわち、ダンテは「高貴なる婦人( donna gentil )」を求めてやまなかったが、そのロマンチックな情熱はやがてベアトリーチェという名の女性として実際に彼の人生に現れたではないか、と。

 

II

文学者としてのルーミーは、その質・量とともに圧倒的な作品群を遺している。約2500の神秘的頌詩から成る『シャムスィ・タブリーズィ詩集( Diwan-i Shams-i Tabriz )』や、全6巻、およそ25000対句が収録された『マスナヴィー( Mathnawi )』、そして約1600詩句の『四行詩集( Ruba’iyat )』などがその代表作として数えられる。3

自身の宗教哲学を表明するにあたり彼が採った手法は、ガズナ出身のサナーイー、ニシャープール出身のファリードゥッディーン・アッタールという彼以前の二人の偉大なスーフィー詩人によって形成されたものである。彼自身、二人の先達に負うところを隠そうともしていない。ともあれ彼の飛行はより広い範囲にまで及んでいる。主題はより豊かで変化に富み、またそうした主題を扱う彼の手さばきはまさしく「新しいスタイル」と呼ぶにふさわしく独創的である。驚くべき繊細さを含んだ複雑なそのスタイルを、一言で分析するのは非常に困難である。

それでも、全体を通して見れば疑いようもなく明らかな特徴が見てとれる。それは『マスナヴィー』において完全に開花し遺憾なく発揮されている。論理的結合を敢えて無視し、慣習に対しては果敢に抵抗し、庶民的な俗語を大胆に取り入れ、誰にでも馴染みのある生活感漂う出来事や事件などを主題としてふんだんに採用する。自由奔放を目の当たりにした読者が味わうのは興奮の感覚である。その詩は、人跡未踏の大海原である。言語の「殻」と意味の「核」を隔てる一線が、内的感覚に関わるおびただしい量の解説と教義により取り払われていく。「マスナヴィーは」、彼は言う、「合一を売る店である。唯一の御方(神)を除いて、そこにある全ての品物は偶像である」。存在という名の戦場を渡り歩き、神秘主義者のみが持ち得る認識力によって彼は喝破するのである、あらゆるものは全的な調和の中にあり、対立と不和もまたそれぞれに与えられた役割を果しているに過ぎない、と。

スーフィーの汎神論もしくは一元論は、以下の主張を伴っている。

(a) 全存在の超越的な根源であるところの、「唯一の、真の実在」が存在する。この実在は、あるいは神(聖なる本質)として、またあるいは世界(隠れた本質の顕現)として見なされる。

(b) 創造は時間の範疇にはない。神的な自己顕現とは、永遠の連続的過程である。万物はおしなべて変化し消滅し、それは休む間もなく繰り返されるが、その本質それ自体は永遠に神と共に存在する。その(万物の)全体像が、神の知識の中に存在しなかった時など一瞬たりとも無かった。

(c) ありとあらゆる現象の、限定的な側面の中であってさえも神の存在は顕される。その意味において、神は内在する。同時に、神はまた「絶対的な実在」である。その意味において、神はありとあらゆる現象から超越している。

(d) 神的本質は不可知である。神の在りようについて、神はコーランを通して明らかにされた名前と属性によって我々に知らしめている。本質においては同一であるが、我々の視点の相違によって、神の属性は多様でありまた互いに対立する。現象としての世界を構成するのはこの分化である。現象としての世界においては、我々は善と悪との見分けることは出来ず、従って絶対的な善というものを知り得ない。実在の領域においては、悪などというものは存在しない。

(e) 「われを知らしめるために、われは被創造物を創造した」という聖なる伝承に従えば、神に属する知識の全内容は、この宇宙において、中でも特に人間において著しく客観化される。神的意識が、全宇宙を体系づけ、内在する合理的な原則(ロゴス)を支配し動かしている。それ自体は、「完全なる人間」を通して示される。最高位にあたる「完全なる人間」はムハンマドの精神あるいは実存に先在し、その「光」は連綿と続く預言者もしくは聖者の系譜を照らしている。「完全なる人間」とは神と、神の唯一性を理解した者である。真正な像であり神の顕現でもある「完全なる人間」こそは創造の目的因であり、彼を通してのみ、神もまた神自身を完全に意識することとなる。

以上が、ルーミーの詩におけるおおよその主題となっている。特に彼自身が最初の提唱者であるわけではない。これらの主題は、9世紀以降の長きに渡るスーフィーの思想家たちの系譜の中で徐々に発展したものと考えられるだろう。それを明確に著述し、集約したのが有名なアンダルシアの神秘主義者イブン・アラビー(1165-1240)である。イブン・アラビーは、イスラム的汎神論の父と呼ばれるにふさわしいあらゆる権利を所有している。系統や接点も皆無であったところから、あらゆる局面の詳細をつぶさに研究することに、彼はその厖大な知識と想像力の全てを捧げた。そして全体から見れば、彼は世界史上において最も偉大な記念碑であろう神秘主義理論の体系を構築した。かつてルームを訪れたこともあり、のちにダマスカスで逝去した同時代の年長者の語彙や思想の一部を、ルーミーが援用したことは明白だろう。だがそれがどれほどのものであったか、負債が莫大であるとするには論証に欠く。後世の解説者たちのうちとりわけ形式に拘泥し、イブン・アラビーの『叡智の台座』『メッカ啓示』は通読するが『マスナヴィー』については門外漢、といった人々による誇張が大部分である。

アンダルシア人(イブン・アラビー)は常に確固たる哲学上の目的と共に著述する。あるいは、広範囲にわたる概念の論理的発達と定義することも可能だろう。彼の思想の多くは、こじつけともとれる専門的事項に占められた弁証法によって表出される。ルーミーは、そうした目的というものを持たない。E. H. ウィンフィールド卿が述べる通り、彼の神秘主義はカトリック的感覚で言うところの「教義的に非ず」、しかしより「経験的」である。

彼は頭脳よりも心に訴える。学派の論理を軽蔑し、学問体系の構成要素を語るときですら哲学的言語に頼ることをしない『マスナヴィー』を説明するには、『神曲』においてダンテが語った言葉が、素晴らしく良く当てはまっている。「詩とは、哲学から枝分かれした道徳もしくは倫理に連なるものである。推論的ではなく実際的であるところにその価値がある。その究極の目的とはすなわち『今、ここで、』生きることの悲哀に耐え忍ぶ人々を至福の状態へ導くことにある」。4

娯楽的な経路を数多く用意しつつも、『マスナヴィー』全体の性質は教育的なものであり、多様な弟子たちの啓蒙を目的とした著作と評価するのが適している。比較すると『シャムスィ・タブリーズィ詩集』『四行詩集』のスケールはさほど大きくは無く、その主張は私的かつ感情的である。イメージ、スタイルならびに語的感覚においては『マスナヴィー』とも非常に密接しているが、その詩句及び連句は、至るところにおいて伝統的な神秘主義に連環している。これらの詩の一部には、神秘主義者の熱情があふれんばかりに表出している。彼の想像力は限界をはるかに超え、読者たちは狂気のごとき神的経験の断片を垣間見る。

知識人ルーミーの強靭な知性は、神秘主義者ルーミーの熱狂に降伏することはしなかった。抜き差しならぬぎりぎりの崖淵へ読者を追い込んでから、彼は不意に一線を引く。ある特定の問題に関する秘密とは、言葉で伝えるにはあまりにも神聖であるとする意識の一線である。メヴレヴィー教団における精神的交流の場においてこれらの詩が朗読される際に、多くの冷静な参加者たちまでもがほとんど制御不可能な興奮を引き起こされたと聞いても、決して驚くには当たらないだろう。

ペルシアの神秘主義的風土の絶頂はルーミーの中に見出せる。スーフィー詩という広大な景色を俯瞰したとき、彼はひときわ目立つ崇高な山頂である。比較すれば、それ以外の多くの詩人たちは山麓に過ぎない。彼以降の詩人たちは、死後数世紀を経てもなお彼の思想と作品の影響を強烈に感じさせている。

ペルシア語の素養ある詩人ならば誰もが何の疑いもなく彼を精神的指導者と看做してその教えを継承した。西欧において、彼の才能の偉大さは今ゆっくりと、だが確実に理解されつつある。この書の1ページ1ページには、彼の遺した作品が収録されている。かの偉大なる学者に最大級の賛辞を捧げる。読者たちに対し、世界の文学を見渡しても、彼の与える霊感と歓喜を凌ぐほど詩人は彼以外には絶無であることを、彼は完璧に証明してみせるだろう。

 


1. 詳細は附記を参照されたい。

2. ルーミーの弟子たちの呼称である。弟子たちはルーミーを Mawlana (「われらが師」の意)と呼んでいた。Mevlevi はそのトルコ語発音である。

3. [この一文は著者によるドラフトに書き添えてあったものである。–– A.J.A.]

4. ニコルソン教授による原文はここで終わっている。