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『修道院、なんてない』1
きみは孔雀、きらきらひかる羽飾り。
羽を引き抜くのはおやめ、自分を傷つけるのはおやめ。
引き抜くならばきみの心を引き抜くがいい、
羽への執着と虚栄心を引き抜くがいい。
きみの戦うべき聖戦はまさしくそれ。
敵なくして、どうして聖戦が成立し得るだろうか?
欲望なくして、自己の鍛錬に何の意味があるというのか。
迎え撃つべき敵なくして、勇気など何の役に立つだろうか?
情欲という前提条件なしに、貞節に価値などあるものか。
神がきみに命じている、「楽しめ」と。
それから、「度を過ぎぬように」、とも。2
欲望がなければ、何で命じたりなどするものか。
「ここ」という始まりの在りよう次第で、
「そこ」という終わりの在りようも変化する。3
欲望の対象を消し去っても、欲望を消し去ることなど出来はしない。
自分を虐待したり閉じ篭ったり、それが禁欲だとでも思うのか。
きみは孔雀、きらきらひかる羽飾り。
羽を引き抜くのはおやめ、自分を傷つけるのはおやめ。
憧れずにはいられない、なんてきれいな「始まり」だろう!
「終わり」できみを待つ喜びの、なんて大きなことだろう!
2008.08.
*1『精神的マスナヴィー』5-574.
ここに描かれた情景は、次に引用するコーランの節について質問された際に、預言者ムハンマドが語ったとされるハディースに基づいている:
われらは、多くの使徒についで、さらに使徒を遣わし、マリヤの子イエスを遣わすに至った。彼らに福音を授け、彼に従う者の心の中に愛と慈悲を授けた。彼らは、われらがはっきりと書いてやったわけでもないが、修道生活をはじめて考えだしたが、それは、神のご喜悦を求めてのこと。しかし彼らは、これを正しく守らなかった。彼らの中で、信ずる者には褒賞をとらそう。だが、大部分の者は反逆者となった。
(コーラン57章27節)
ムハンマドは、イスラムに修道院制は存在しないと断言したが(結婚は信仰生活に必要不可欠であるとも語った)、では隠遁生活を送るキリスト教修道士とスーフィーにどれほどの違いがあるのか?ルーミーは禁欲について、欲望は否定するべきものではないとし、それは程度の問題なのだと説明する。スーフィーが行う自己鍛錬、規律は欲望を禁じたり滅するためにあるのではない。目的は誘惑を退けることにある。中でも「自己犠牲」や「自己否定」については、その誘惑の力は強く働くため、細心の注意を払って取り扱わなくてはならない。なぜならそれらは、真の美徳というよりも、しばしば「自己満足」に終わるからである。
*2
神が恥ずべき行為を命じたもうたことはない。・・・
・・・食べよ、そして飲め。しかし、度を越してはならない。 (コーラン7章29節・31節)
*3 アナロジー。スーフィー修行のプロセスについて、文章になぞらえている。文法に即した文章を書くには、まず文頭の語形から正しく選ぶ必要がある。 |