第25話

『スーフィーの寓話』
メヴラーナ ジャラールッディーン・ルーミー

「偶像と赤ん坊」1

 

ハリーマ2の身の上に起きた不思議な出来事について語って聞かせよう。あなた方の身の上に困難が降りかかる時、彼女の話がきっと役に立つだろう。

その日、ハリーマはいつものように赤子のムスタファに乳を与えた。乳を飲み終えた赤子を、彼女はまるで香草か薔薇の束にでもするように、そっと掌を添えて抱きかかえた。貴重な預かりものの安寧を願って、彼女はカアバ3へ向かい、ハティム4の壁の内側へ入った。すると突然、空から声が響くのが聞こえた。

- 「おお、ハティムよ。優れて強大なる太陽が、汝を照らして輝いているぞ。おお、ハティムよ。今日のこの日、幸運を先駆けに、偉大なる王の華麗なる隊列が、汝の中へと行進するぞ。おお、ハティムよ。今日のこの日を境目に、汝は必ずや高貴なる者の新しき住処として誉め称えられることになろう。世界の四方八方から、聖なる魂が汝の許を訪れるようになるだろう。ある者は隊伍を組み、またある者は一群となって、汝の周囲を巡るだろう、恍惚に酔い陶然として」。

前を見ても振り向いても、声の主と思われる人影も無い。ハリーマは当惑した。美声の主を探そうと、ハリーマをムスタファを地面に置いた。それから、あちらこちらを見回した。「もし、王のごとく語る不思議な方、一体どちらにおられますか」。しかし、やはり姿も見えない。彼女はひどく狼狽し、取り乱した。体が、柳の木のように震えた。

戻ってみると、かけがえのないあの赤子が消えている。確かに寝かせたはずの場所で、彼女が再びムスタファを見ることはなかった。驚愕が彼女の心臓を掴み、大いなる悲嘆の暗闇が彼女を取り巻いた。彼女は激しく泣きながら、家々の戸を叩いて尋ねた、「ああ、私の大事な一粒の真珠を、連れ去ったのは一体どなた?」。メッカに住む人々は言った、「私らは何も知らないよ。第一、そこに赤子がいたことすら知らなかった」。

自分の胸を打ち叩き、彼女は泣きじゃくった。あまりにも泣きじゃくるものだから、星々までもがつられて泣きじゃくり始めるほどだった。するとそこへ、杖をついた老人が近づいて来て話しかけた、「おまえさん、ハリーマというのかね。どうして泣いているのだね。一体、何があったというのかね」。彼女は答えた、「私は、信頼されてムハンマドを託された養母です。赤子のムハンマドを、曾祖父の許へ連れて帰る途中でした。

ハティムに辿り着いたとき、私は空から声が響くのを聞きました。そこで赤子をその場に寝かせました。その声は流れるような旋律で、とても美しくて、それで私は、一体どこからその声が聞こえてくるのか確かめようとしたのです。けれど誰かの影も、姿もありませんでした。それなのに、声だけは決して途切れることなく聞こえ続けていました。

私はすっかり取り乱してしまいました。気付くと、赤子は消えていました。ああ、悲しい。一体どうしたらよいものか!」。「娘や」、老人は言った。「悲しむのはおやめ。おまえさんを、女王に会わせてあげよう。彼女がおまえさんを気に入れば、赤子に何が起こったのか、きっとおまえさんに教えてくれるだろうから。赤子がどこへ行ったのか、今どこにいるのか、女王ならばきっとご存知だろう」。

老人は、ハリーマをウッザー4の像の許へ案内した。そしてこう言った。「この偶像は、失せものについて良くご存知だ。だからとても大切にされているのだよ。身も心もすっかり捧げてお願いすれば、失せものは必ず見つかる。そうやって、今までにも数えきれないほど沢山の失せものが見つかったのだよ」。老人はそう言うと、偶像に向かって深くお辞儀をした。

老人は言った。「おお、我らアラブの民を統べる者よ。おお、慈悲の海よ。あなたの数々のご加護に感謝します、おお、ウッザーよ、私達を災厄の罠からお救い下さい。 - ここにいるのはハリーマ、サアド一族の者。幼い赤子を失い、あなたの恩恵の影に身を寄せたいと望んでおります。どうか探して下さい、赤子の名はムハンマドといいます」。

老人が「ムハンマド」の名を口にするが早いが、その場にあった偶像が一斉に頭を垂れ地にひれ伏し、そして言った - 「老人よ、今すぐここから立ち去るがいい!汝、我らにムハンマドの安否を問うか。あれはいずれ、我らを放逐する者ぞ。あれはいずれ、我らを打ち倒し瓦礫の山とする者ぞ。あれはいずれ、我らを卑しめ、我らを無用のものとする者ぞ。

老人よ、今すぐここから立ち去るがいい!邪気も無しに火をもてあそぶな。聞け。我らの、ムハンマドへの妬心に火をつけて、我らを燃やしてくれるな。さあ、去るがいい。老人よ、長居すれば、汝もまた運命の定めた火により大火傷を負うことになるぞ。何ということか!まるで竜の尾に締め付けられているかのようだ。ムハンマドが到来しただと?

汝はその報せが何を意味するのか、少しでも分かっているのか。その報せを聞いて、見よ、海も我らの心も逆巻いている。その報せを聞いて、見よ、七層の天も震え出している」。 - 老人の手から杖が転げ落ちた。彼は腰を抜かしてその場にへたり込み、かちかちと歯を鳴らせ、まるで真冬に着るものも無い人のように震えて泣いた、「ああ、これは一体どうしたことか」。

恐怖のあまり我を忘れたようになっている老人を見て、ハリーマはとうとう自制していたものを捨て去った。「これが初めてではないわ!」、彼女は叫んだ。

- 「恐ろしくなどないわ、以前にもあったことよ。見えない何ものかが、私の赤ん坊をどこかへ連れ去ってしまうのは、これが初めてではないわ。あれの正体は分かっている。あれは天の御使いなのよ、緑の翼を持った - 私ときたら、何を大騒ぎしていたのだろう?何が不満だというのだろう?一体、誰に向かって文句を言っていたのだろう?

ああ、おかしなこと。それとも、私は本当におかしくなってしまったのかしら。心がちぎれて、百の破片になってしまいそう。ああ、全てを言ってしまいたい!秘密にしていることを何もかも、洗いざらい言ってしまいたい!

けれど私は恐ろしくて本当のことが言えない、人々の妬心がたまらなく恐ろしい - だから今の私には、『赤子が消えてしまった』と言うことしか出来ないの。もしも今、私が真実を言ってしまったら、人々は私がおかしくなったのだと思い、私を鎖につなぐことでしょう」。

「ハリーマ、ああ、ハリーマ」、老人は彼女に言った。「喜びなさい、ハリーマ。感謝を捧げよう、ハリーマ。さあ、頭を垂れて祈ろう、そしてハリーマ、そんなふうに顔をしかめて泣かないでおくれ。悲しまないでおくれ。赤子は、きっとおまえさんのところに戻って来るよ。

おまえさんは、赤子を失ってなどいない - いや、いつの日か世界の全てが、赤子の中に失われる時は来るだろうけれど。赤子の後ろにも前にも、赤子を守る無数の者達が控えているのだろう。だから心配せずに待っていればいいのだよ。

おまえさんの話を聞いて、やっと合点がいった。見ただろう?魔法のような光景を - 偶像が、赤子の名前を聞いた途端に、一斉に頭を垂れてひれ伏したのを。ああ、何と素晴らしいことだ。地上に、素晴らしい何かががもたらされたのだ。きっとすてきな何かが起きるのだろう。 - わしはもう若くない老いぼれだ。しかし人生の終わりに、こんな素晴らしいものをこの目で見ることが出来るだなんて。わしはこの日のことを、絶対に忘れやせんだろう」。

 


*1 4巻915行目より。

*2 ハリーマとはベドウィン出身の女性で、預言者ムハンマドの乳母であり、のちに養母となった人物。

*3 メッカにあるマスジド・ハラームの中心に位置する神殿の名。イスラム以前のカアバ神殿はアラビア半島におけるアニミズムの中心地であった。

*4 カアバ神殿の北及び西に配された半円形の壁状の建築物。カアバ神殿とハティムの間には空間が設けられている。

*5 イスラム以前のアラブにおいて最も重用視されていた三女神の一人。三女神は「アッラー(神)の娘」として崇拝されていた。