「修道院、なんてない」

『ルーミー詩撰』
メヴラーナ ジャラールッディーン・ルーミー

「修道院、なんてない」 1

 

きみは孔雀、きらきらひかる羽飾り。
羽を引き抜くのはおやめ、自分を傷つけるのはおやめ。
引き抜くならばきみの心を引き抜くがいい、
羽への執着と虚栄心を引き抜くがいい。

きみの戦うべき聖戦はまさしくそれ。
敵なくして、どうして聖戦が成立し得るだろうか?
欲望なくして、自己の鍛錬に何の意味があるというのか。
迎え撃つべき敵なくして、勇気など何の役に立つだろうか?

情欲という前提条件なしに、貞節に価値などあるものか。
神がきみに命じている、「楽しめ」と。
それから、「度を過ぎぬように」、とも。2
欲望がなければ、何で命じたりなどするものか。

「ここ」という始まりの在りよう次第で、
「そこ」という終わりの在りようも変化する。3
欲望の対象を消し去っても、欲望を消し去ることなど出来はしない。
自分を虐待したり閉じ篭ったり、それが禁欲だとでも思うのか。

きみは孔雀、きらきらひかる羽飾り。
羽を引き抜くのはおやめ、自分を傷つけるのはおやめ。
憧れずにはいられない、なんてきれいな「始まり」だろう!
「終わり」できみを待つ喜びの、なんて大きなことだろう!

 


1. 『精神的マスナヴィー』5-574. (ここで取り上げられている)ハディースの典拠は不明であるが、コーランの一節(57章27節)をめぐる、キリスト教の隠遁者たちが実践するような禁欲生活を企図したらしき経路不詳の解釈に基づくものと考えられる。ルーミーはここで(そうした禁欲生活と)、自己鍛錬と自己管理とそのメソッド、すなわち美徳が試され、知恵が完成されることによりあらゆる誘惑を排除するというスーフィー道におけるあり方を対比してみせている。

2. コーラン7章29(31)節参照。

3. アナロジー。スーフィー修行のプロセスを文章になぞらえている。文法に即した文章を書くには、まず文頭の語形から正しく選ぶ必要がある。

57-27. われらは、多くの使徒についで、さらに使徒を遣わし、マリヤの子イエスを遣わすに至った。彼に福音を授け、彼に従う者の心の中に愛と慈悲を授けた。彼らは、われらがはっきりと書いてやったわけでもないが、修道生活をはじめて考えだしたが、それは、神のご喜悦を求めてのこと。しかし彼らは、これを正しく守らなかった。彼らの中で、信ずる者には褒賞をとらそう。だが、大部分の者は反逆者となった。

7-31. アダムの子らよ、いかなる礼拝の場でも身なりを端正にせよ。食べよ、そして飲め。しかし、度を越してはならない。神は度を越す者を愛したまわない。