『ルーミー詩撰』
メヴラーナ ジャラールッディーン・ルーミー
悪きもの、この愛すべきもの 1
この世に、絶対の悪などというものは存在しない。
悪とは相関的なものだ。この事実を認めなくてはならない。
永遠ならばいざ知らず、時の領域においては、
ある者の足であると同時に、またある者の足枷でないものなど
何ひとつ存在しない。
ある者にとっては足、ある者にとっては足枷。
ある者にとっては毒である何かが、
ある者には砂糖のように甘く、活力を与える。
蛇の毒は、蛇にとっては生命そのもの。
だが咬まれた者にとっては死を意味する。
海は、そこに棲む生き物達にとっては庭となるが、
陸に棲む生き物達にとっては閉ざされた迷宮となる。
ここにザイドという一人の男がいる。
ある者にとっては悪魔のようにも思える男だが、
同時にまたある者にとってはあたかも天使のよう。
もしも彼に、良い振る舞いを期待するのなら、
彼を愛する者の眼差しを以て接するといい。
あなた自身の眼を用いてはならない、
あなたにとって美しいものを見ようとしてはならない。
冒険者の眼は、探すものを見失ったりはしない。
探すなら、全てを見通す者の眼を以て探せ。
愛する者の眼を通して、全てを見よ。
愛する者の眼を通して、愛する者の顔を見よ。
愛する者はこうも言う、
「誰であれ、われを愛する者をわれは愛する
われと共にある者とわれは共にある
われは愛する者の眼となり、手となり、脈打つ心臓となる」
この世に、絶対の悪などというものは存在しない。
たとえどれほどのものであろうとも、全ては愛への道しるべ。
それを知れば、この世の全ては愛すべきものとなる。2
1. 『精神的マスナヴィー』4-65.
2. 詩人ルーミーは、この一節及びこの一節に至る部分に、文法上の韻のみではなく意味の上でも伝承との韻を踏んでいる。すなわち「神に自らの全てを捧げきった状態( fana’ にある者は、神との合一の状態( baqa’ )にある者である」。「楽園は、常にわれらの忌み嫌うものに取り囲まれている」。二つめについては、「楽園に辿り着くには、苦難を乗り越えなくてはならない」と解されよう。