定命と自由意志

『ルーミー詩撰』
メヴラーナ ジャラールッディーン・ルーミー

「定命と自由意志」1

 

一人のムスリムがマギの徒に語りかけた、預言者の信仰を受け入れるように、と。
彼は答えた、「ああ、是非ともそうしよう – もしも神が望みたもうなら」。

「神は望んでおられるとも」、ムスリムは言った。

「しかしきみ自身の我欲とよこしまな悪魔が、
きみを不信仰と拝火の寺院へと引き込んでいるのだ」。

「なるほど」、彼は答えた。「しかしそいつの方が強力ならば、
そいつが私をどこへ連れて行こうが、ついてゆくのに何の障りがあろうか?

神が私にイスラムを信仰するよう望んでいる、とおまえは言う。
しかし自分の望みさえ叶えることも出来ない主に仕えて何の意味があろうか?
おまえの言葉を借りれば、我欲と悪魔が彼らの望みを果たしたというわけだ –
その一方で、栄光なる神の意志は破られ、踏みにじられたということになる。2

そんなことがあってたまるものか!
何であれ、主が望みたもうならそれはたちまちにして起こる。
有る処であれ無き処であれ、主こそは全世界を制する万有の支配者だ。
主の王国においては、主がお命じにならぬ限り、
髪の一筋たりとも加えることは出来ない。
王国は主に属し、命ずるはただ主のみ。
悪魔もまた主の有であり、最も意地の悪い犬として主の扉の前に座している」。

「疑いようもなく」、ムスリムは答えた。
「私達には一定の選択の余地が与えられている。
内的感覚という明らかな証拠を、きみだって否定は出来ないだろう。
不正や誤った行為に関する選択はそこに生じる。まさしくそれこそが、
『我欲』や『悪魔』という語を用いて私が言わんとしていることだ。3

何かしらを選び取ろうという資質は、魂の裡に潜んでいる。
選択を実際の行為に転じるのは、視覚 –
欲するところを捉える感覚 – の働きによる。
イブリースが、きみの欲望の対象を見せるとき、
眠っていた選択の力が目覚めてそちらの方へと動き出す。

それと同様に、天使がきみの目の前に善なる欲望の対象を置き、
きみの心にそれらを向かわせたなら、
悪に抵抗し善を選択する力もまた目覚め、そちらの方へと動き出す」。

– 理性の目で観察すれば、宿命論は自由意志論よりもなお悪い。4
なぜなら宿命論者は自らの意識に無頓着で、自覚ということを知らない。

自由意志論を絶対視する者達は、自らの意識を否定したりはしない。
ただ彼らは、絶対者たる神の働きを認識できていない。
「煙はあるが、火はないようだ」と言っているようなものだ。5

宿命論者には、明らかに火が見えている。
そしてその火が、衣に燃えうつるのも見ている。それでいて、
懐疑論者がするように、「何もない」と主張する。6 –

「もしも神の他には誰も選択の力を持たないのだ、というのなら、
きみの財産を盗み出した泥棒に対して怒ることもないはずだ。
動物でさえ、この内なる感覚をよく分かっているよ。
無慈悲に鞭で打たれれば、ラクダだって乗り手を襲う。
そのとき、ラクダの怒りは鞭ではなく鞭を振るった者に対して向けられる。

コーランは、一貫して命令と禁止、罰の脅威によって構成されている。
これが石ころやレンガのかけらを相手に下された書物だとでも言うのかい?

きみは神が無力である可能性を否定したつもりでいるのだろう。
けれど実際のところ、きみは神を無知で愚かだと言っているに等しい。

自由意志論というものはね、きみ、神の無力を意味するものではないよ。
百歩譲っても、それでも無知は無力よりもなお悪い。
私たちそれぞれが選択する力を行使できるのは、
神の大いなる選択の力がそのように在らしめているからだ。

御方の威力とは、騎乗する馬の巻き上げる砂煙で隠される騎士のようなもの。
御方は全てを統べたもう – しかしだからと言って、
私たちが自由意志の許に為す行いの価値を、御方に帰することは不可能だ。

さあ、認めたまえ、神はそのご意志を、完全なる方法で成し遂げたもう、と。
主のご命令に逆らうことの責任を、主に帰することは不可能だ。
不信の徒であり続けることを、そう強いられているのだ、などと言い訳してはいけない。

きみが不信であることは、神の意志によって定められているのだときみは言う。
違う。不信であることを望んでいるのはきみ自身だ。
それはきみが一人で決めたことだ。
きみの意志が選び取らなければ、そうはなっていなかっただろう。
心ならずも不信でいる、などというのは自家撞着だ、矛盾している。

神の愛の杯から、霊感を得られるよう努めたまえ。
そうすれば、我欲や自意識から解放されるだろう。
そして意志の全てが、かの葡萄酒に属していることを知れば、
きみの全ても赦されることだろう」。

 


*1 『精神的マスナヴィー』5-2912. 延々と続く議論の場面からの抜粋である。マギの徒が絶対的な宿命論を掲げるが、対するムスリムは、そうした教義は不合理であると断言する。

*2 著名なスーフィーであるアブー・スレイマン・ダーラーニー(西暦830没)も、カダリー派やムウタズィラ派に対してこれと同じ主張を述べている。「彼らは自らを創造し、神よりも悪魔に力を与えてしまった。彼らは、神は神に従わせるべく被創造物を創造し、それをイブリースが不服従へと向かわせると言う。こうした彼らの主張は、彼らが決定すればものごとは生起するが、神が決定してもものごとは生起しない、と言っているに等しい」。

*3 ムスリムは宗教的語彙を用いて語り、マギの徒の不信仰を邪悪な力によるものと説明するが、かと言ってそれが不可抗力であると考えているわけではない。それどころか、差し出される誘惑を受け入れるか拒否するかの選択は、人間に備わった能力によって制限されると述べる。

*4 認識を超越する存在については、外的もしくは内的感覚によって認識しうる存在よりも、当然のごとく否定されやすい。従ってこうした視点からは、選択の能力(イフティヤール)の発現を否定する宿命論者=ジャブリー派は、不可視の神の行為を否定する自由意志論者=カダリー派(ムウタズィラ派)よりも悪質である。

*5 すなわち彼は、「自由意志」と呼ばれる「影響(アザル)」を認めるものの、それを彼自身に帰しており、善悪の判断の最終的な決定者である創造者かつ生成者の「影響(ムアススィル)」を見落としているのである。

*6 宿命論者=ジャブリー派は、懐疑論者の極北である。彼らは、人間の意識についての一般的な事実さえも否定しているのである。