『ルーミー詩撰』
メヴラーナ ジャラールッディーン・ルーミー
「イブリースの告白」1
かつて私は天使であった。
私は神に仕えた、私は魂の全てを捧げた。
それ以外に、私の踏む道のあるはずもなかった。
与えられた最初の使命を、どうして心から忘れ去れようか?
与えられた最初の愛を、どうして胸から消し去れようか?
無明の底に私を見いだし、私なる者を在らしめたのはあなたではなかったか?
私を守ったあの御手は、憐れみ深いあなたのものではなかったか?
幼い私にミルクを授け、私の揺りかごを優しく揺らしたのは、
あれはあなたではなかったか?
授けられたミルクと共に、あなたの愛も注ぎ込まれたが、
あれは再び差し戻せる類いのものであったか?
恩寵、優雅、慈愛こそは、あなたから賜る金貨の本質。
怒りなど、金貨を覆うわずかな錆に過ぎない。
わずかな錆など気にはせぬ。
わが主の怒りなど私は気にも留めぬ、ほんの一刻のことなのだから。
そんな些細な出来事よりもはるか昔から、
わが主の永遠の愛がわが両眼を捉えて離さない。2
始源から終末までを愛で貫く、偉大なるわが主にお仕えするのが私の使命。
どうしてアダムに奉仕せねばならぬのか。
わが主よ、これだけはお認めあれ。
私はアダムを妬みこそしたが、あなたに逆らったのではない。
全てあなたへの愛がなせること。
愛すればこそ、愛が奪われるのを怖れて妬みもする。
病には、常に見舞いの言葉が付き物。3
愛が深ければ深いほど、嫉妬の炎が燃え盛るのは避けられぬ。
わが主は私を相手にチェスをなさった、一時のなぐさみに私を選ばれた。
わが主に属するチェス盤を前に、一体何が出来ただろうか?
私はチェスのお相手を勤め、わが主の望まれるままに駒を進めたまで。
私は私の使命を果たし、わが主のお怒りを被ったまで。4
だがお怒りを被ってなお、私は喜びに打ち震え愛に甘く酔う。
見るがいい、わが主の御手により王手を詰まれたこの私を。
私こそは選ばれた者、わが主に望まれて王手を詰まれたのだ。
主に王手を詰まされたのだ、主に王手を詰まされたのだ、
主に王手を詰まされたのだ!5
*1 『精神的マスナヴィー』2-2617. 「……かくて、われらが天使たちに、「アダムに跪拝せよ」と言うと、彼らは全て跪拝したが、イブリースだけは別で、傲慢不遜な態度に出て、不信者となってしまった(コーラン2章34節)」。
イブリースとは、神の命令に背いた罪により天上から追放された天使の名である。いわゆる悪魔。彼は、愛から生まれる嫉妬が恋敵(アダム)に対して敬意を表することを禁ずるのだと告白する。そして自身を忠実極まりない恋人として描写する。アダムを賞讃することへの拒絶は、すなわち神のみを讃美することを宣言しているに過ぎないのだとイブリースは言う。神的統一を乱すよりも、むしろ神罰に苦しむことを彼は喜びとした。もとは天使であり善き者である以上、神罰もまた天上からの墜落、神の優美からの追放というごく一時的なもので済んだのだと彼は言う。
*2 『わが愛はわが怒りをはるかに凌ぐ』という聖伝に基づく。聖伝(ハディース・クドゥシ:Hadith Qudsi)とは、コーランにはないが神が預言者に直接語りかけたとされる伝承を指す。
*3 「見舞いの言葉」=「dir zi」。直訳すると、「長生きして下さい」。ムスリムであれば「神に讃えあれ(アルハムドゥ・リッラー:al-hamd lillah)」「神があなたに慈悲を垂れ給われますように(ヤルハムク・アッラー:yarhamk Allah)」が一般的。
*4 イブリースはまた、神の定める運命(シッル・カダル:sirru’l-qadar)についても言及する。神の定めた運命は絶対的であり、彼が神命に背いたとされるのもまた神の定めによるものであり不可避な出来事であったとし、その意味においては忠実に神の定めに従ったのだと訴える。ハッラージュはこうしたイブリースの「自己犠牲(フトゥッワ:futuwwah)」を手放しで賞讃したが、その一方で、神の命ずる戒に対しては謙虚に服従すべきであるとも主張する。
*5 真に神を愛する者は、愛する神の残酷な仕打ちをも喜んで受け入れる。
邦訳者註:ハッラージュ マンスール・ハッラージュ(Mansur Al-Hallaj)、858年頃〜922年。ペルシア生まれの神秘主義詩人だが、詩人としては珍しく処刑されて死亡している。「われは真実なり」「わが衣の下には神のみが存在する」といった言葉を口にしたことから危険人物と看做され、バグダッドの牢獄に幽閉されたのち当時の支配者であったアッバース朝政府によって異端者もしくは冒涜者として処刑された。ハッラージュの死から約3世紀後に生まれたルーミーは、ハッラージュを「愛の殉教者」と評している。
追記:以下、引用:
……愛のめざすところは高い。なぜならばそれは、愛される者のうちに崇高なる資性を要求するのだから。それゆえ愛される者は合一の網により捕えられなくなる。次のような会話が成り立つのは、おそらくこのような機会においてなのだろう。神がイブリース(悪魔)に向かって、『お前は呪われてあれ!』(クルアーン第38章78節)といった時、イブリースは『貴方の稜威にかけて!』(クルアーン第38章83節)と答えている。この意味することは次のごとくである。私が貴方のうちに愛するものは、何人もそこまで身を高めることができず、何人も相応しくありえないような貴方の、高き稜威なのです。なぜならばもしも誰か、何ものかが貴方に相応しいとしたならば、それは貴方の稜威のうちに欠けるものがあることを意味するからです。」かくして『愛に呪われたイブリース』の有名な主題が登場することになる。
(出典:確認中)
上記引用文中の「」内はアフマド・ガザーリー著『sawanih(直観)』の一節。この箇所に続く部分について、ナスロッラー・プールジャワディ氏による注解を底本に以下に訳出する。
愛される者との合一を望む愛する者が、不完全かつ無知の状態にあるのは疑うべくもない。さりながら、そこには二つの異なった方向性があることを承知すべきだろう。すなわち(状態を主導するのが)愛される者の慈悲か、あるいは愛する者の利益かである。前者においては愛する者の利己主義的な側面は、愛される者の慈悲に自らを全面的に委ねることによって打ち消され均衡が生じる。この場合、愛する者の欲求は罪無きものと言えよう。しかし後者においては、愛する者は自らを愛される者との合一に値する者とみなすことで自らの欲求を正当化するという過ちを犯す。かくして愛する者は自分本位な利己主義に陥り、その欲求も罪深きものに分類される。