引用:『歴史序説』

「歴史序説」
イブン・ハルドゥーン


歴史序説〈3〉 (岩波文庫)
(全4巻)

歴史学者・社会学者にして政治家・思想家。チュニス生まれ。43歳の時に大著『歴史』の執筆を開始する。ここに引用したのはそのほんの一部分に過ぎないし、スーフィズムについてはそれ自体を主題とした『諸問題を探求する者の治癒』(Shifa’ al-sa’il li-tahdhib al-masa’il)という著作を遺している。『歴史序説』全体は、文明、環境、都市、政治、経済、農業や工業といった人間の生産活動などなど、ありとあらゆる事象について述べられている。

「近現代に至るまで、中近東文化圏と直接的な交流を持つことがなかったわが国においては、イスラーム史上の人物が一般的知識として知られていることはほとんどなく、イブン=ハルドゥーンの名を想起できる人もきわめて少ないであろう。ところで交流の長い歴史を持つ欧米では、この点全く次元を異にしているが、それでも彼ほどずば抜けた知名度を有する人物も少ないし、また彼ほど称賛と、時には過大と思えるほどの評価を得ている者も珍しい」
(解説より抜粋)


この学問「すなわちイスラームの神秘主義の学問」は、イスラーム社会に発生したイスラーム法の諸学に属するものである。スーフィー苦行者の修行道とは、マホメットの教友や次世代の人々、さらにそれに続く人々といった初期イスラーム共同体の偉大な先人たちが、真実にして正しい導きの道だとみなしてきたものに当たっているという考え方があるが、実はこれがスーフィズムの学問の根底をなしている。この修行道は、たえざる神の崇拝、神への完全な帰依、現世の虚飾の忌避、快楽・富・地位など大多数の者が切望するものに対する禁欲、この世から隠遁して、神の崇拝のための孤独生活を送ること、これらに基礎をおいている。これらのことはマホメットの教友や初期イスラーム教徒のあいだでは普通だった。ところが二(西暦八)世紀に入って現世への欲望が世に広がり、人々が現世の事柄に心を奪われてしまったとき、敬虔なる崇拝を切望する人々が顕われ、とくにスーフィー(sufiyaあるいはmutasawwifa)と呼ばれた。このスーフィーという言葉について、クシャイリーは次のように述べている。

「アラビア語のなかで、この術語の語源も類語も見出すことはできない。それはあきらかにあだ名である。この語源を清浄という意味のsafa’とか、腰掛けのsuffaとか、列のsaffとかに求めることは、言語学的類推の点からいって不可能である。」また「同様に羊毛のsufに求めることもできない。スーフィーたちだけが、羊毛の衣を着ているわけではないからである。」
私が思うに、あえて語源について言えば、もっともはっきりしているのは「羊毛」である。というのは、スーフィーたちは概して羊毛の衣を着ることで特徴づけられたからで、彼らは華美な衣服をつける人々に反対し、羊毛の衣を好んで身に付けたのである。……

禁欲や現世からの隠遁や献身的な神への崇拝がスーフィーたちを象徴するものとなると、ついで彼らは、没我の境地によって生じる特殊な知覚をつくりあげた。そのわけは次のようなものである。人間は、知覚能力の点で他のすべての動物から人間として区別される。人間の知覚能力には二つの種類がある。その一つは、学問とか知識とかを把握できる能力であって、これは確定、憶測、疑惑、想像の諸作用を行なう。第二に人間は、喜び、悲しみ、不安、くつろぎ、、満足、怒り、忍耐、感謝などのような人間自身に内在する諸状態を把握することができる。肉体内で作用する理性的概念は、いろいろな把握能力や意志や状態から生じる。前述したように、人間が他の動物から区別されるのは、実にこれらによってである。それは、ちょうど知識が証拠から生じ、悲しみや喜びが悲しいものや喜ばしいものの把握から生じ、活力が休息から生じ、無気力が疲れから生じるように、お互いに他のものから生じる。同じように、修行と神の崇拝に励むスーフィーの求道者は、修行の結果としての状態が修行から生じるまでにならねばならない。その「状態」こそ一種の神の崇拝である。そして、それがスーフィーの求道者にしっかりと根づき、彼の「宿処」となるであろう。さもなければ、それは神の崇拝ではなくて、うれしさや喜び、活力や無気力、その他のような魂に作用する単なる属性にすぎないであろう。……

近世のスーフィーたちは、感覚の被幕の除去や超感覚的知覚についての議論に注意を払っている。この点で、彼らの神秘的修行の方法も違っている。すなわち彼らは感覚的知覚力を抑制したり、唱名で理性的精神を育て上げたりするのに違った方法を教え、それによって魂が十分に成長してその本質的知覚に達することができるようにしている。そしてこうしたことが起れば、全存在が魂の知覚に包まれ、存在の本質が修行者に顕わとなり、神の高座から小雨に至るまで、あらゆる存在の真実を心に描くことができると彼らは信じる。このことは、ガザーリーの『宗教諸学のよみがえり』に神秘的修行の形式を説明したあとで述べられている。……

感覚の被幕の除去や、高次元の世界の真実性を否認することや、非創造物がどうした秩序のもとに生成するかなどを議論することについては、この主題はある意味ではコーランの「不確実な」章句の部類に入る。これはスーフィーの直覚的経験にもとづくもので、このような直覚的経験に欠ける人は、スーフィーたちがそれから得る神秘的体験を持ちえない。スーフィーたちが神秘的体験について言おうとしている事柄を言葉で表現するのは不可能である。というのは、言葉は普通に認められている概念を表現するためにのみ作られており、その大部分は感覚の世界に当てはまるにすぎないからである。したがってわれわれは、この問題に関するスーフィーの議論に煩う必要はない。ちょうど(コーランの)「不確実な句」をそのままにしておいたように、この問題もそのままにしておくほうがよい。イスラーム法が明白な意味で理解されるのと同じように、このような神秘の言葉を理解する力を神から与えられる人は、まことに幸福な人と言える。……

クシャイリーの『論攷』に述べられている初期のスーフィーたち、すなわちさきにわれわれが指摘した偉大なイスラーム教徒たちは、感覚の被幕を除去しようとも、またこのような超自然の知覚を持とうとも望んでいなかった。彼らは(超自然の)体験を持っても、それに見向きもせず注意も向けなかった。事実それを避けようとすらした。彼らの考えでは、そうした体験はむしろ障害であり、試練であり、魂による一般的な知覚作用の一つで、したがって創造されたものにすぎない。また人間の知覚ではすべての存在界を知ることは不可能であり、どんな神秘的体験よりも神の知識、神の創造の法がより広く偉大であり、神の法の方がより確かな導きである。そこで、彼らは自分の超自然的知覚については何も語らず、事実、このような議論を禁止し、感覚の被幕を除去した彼らの仲間が、そのことを論じたり、わずかでも考察したりするのを妨げた。そうして被幕を除去する以前の感覚的知覚の世界でなしていたように、引き続き手本に従って模範的な生活を行ない、また仲間にも同じようにするよう命じた。スーフィーの求道者の「状態」はこのようにあるべきである。

神は状態の真実をもっとも知り給う。