巡礼について

安楽椅子解釈 – I

 

神様が休みなく働いてくれているおかげで、こうしてまた巡礼の月がやってきました。せっかくなので巡礼とそれに続く犠牲祭について、少しだけコーランを読んでみようと思います。日本ムスリム協会の訳から抜粋:

われがイブラーヒームのために、(聖なる)家の位置を定め(こう言った)時のことを思いなさい。「誰も、われと一緒に配してはならない。そしてタワーフ(回巡)する者のため、また(礼拝に)立ち(キヤーム)、立礼(ルクーウ)しサジダする者のために、われの家を清めよ。

人びとに、巡礼(ハッジ)するよう呼びかけよ。かれらは歩いてあなたの許に来る。あるいは、どれも痩せこけているラクダに乗って、遠い谷間の道をはるばる来る。

それは自らの(現世と来世の)御利益に参加し、また定められた日の間、かれがかれらに与えられた(犠牲の)家畜の上にアッラーの御名を唱え、それからあなたがたはそれを食べ、また困窮している者にも食べさせなさい。
(コーラン22章・26-28節)

比較的()括弧が多い翻訳で、タワーフ?キヤーム?ルクーウ?なんのこっちゃ?と思う方もおられるかも知れません。タワーフとは、巡礼の際の動作を示す言葉でもありますが、もともとは参加する、(主に喜びや成功、責任などを)分かち合う、シェアする、などの意味があります。キヤーム、ルクーウ、サジダなども、礼拝に限って言えばそれぞれ上記の抜粋にある通りです。(ただし、コーラン原文ではここに礼拝と言う言葉は出てきませんが。)

「聖なる家」というのは、現在はサウジアラビア領内に位置するカアバ神殿を指します。さらに根源的なことを言えば、これは「こころ」のことを指してもいるわけです。神様の建てた家のうちもっとも聖なる家というのは、人間ひとりひとりの心です。神様が「われの家を清めよ」と言ったとき、それは心をきれいにね、という意味でもあります。

そう考えてもう一度上記の節を読むと、また違ったものが見えてくるかも知れません。人間にとっては生まれてから死ぬまでの全てが聖なる巡礼である、というのは、涙が出るほど本当にその通りですね。誰もがみなそれぞれの聖なる家を目指す巡礼者であるということ。それと同時に、誰もがみな巡礼者を迎え入れるための聖なる家でもあるということ。

タワーフする者=人生という巡礼に共に参加し、一緒に泣いたり笑ったりする家族や友人たち、その他多くの出会うべくして出会う人たちを、迎え入れるのにふさわしいように、心を美しく清めなさい、という感じでしょうか。その準備があって初めて、肉体のレベルでの移動、宗教的儀式としてのメッカ巡礼があり、カアバの周囲を巡る、という意味でのタワーフが行われます。この巡礼は、肉体的・経済的に可能な者だけが行います。太陰暦をもとに巡礼の時期を計算するので、毎年少しづつ(めやすとしては約11日程度)前倒しになります。

「御利益」という言葉も出てきましたが、実際に巡礼にはどのような御利益があるのでしょうか。例えばマルコムXはその手紙の中で、巡礼が彼にもたらしたベネフィットすなわち「御利益」について、こんなふうに書き残しました:

『…私は、同じひとつの神に祈り続ける間じゅういつでも、同じひとつの皿から食べ、同じひとつのカップから飲み、同じベッドや敷布で寝たのだった…青より青い眼の、金よりも金の髪の、白よりさらに白い肌のムスリム同胞と共に。そして彼ら白いムスリムの、言葉、行動、意志の全てに、ナイジェリアやスーダン、ガーナなどの、アフリカの黒いムスリム同胞に感じたのと同じだけの誠実さを、私は感じ取ったのだった。過去において、私は告発を行うのにあたって私自身に対しあることを許可した・・・つまり全ての白人を一括りにしてしまうということ・・・この聖なる都市メッカへの巡礼、その結実として私が受け取ったこの祝福、すなわち私の精神的成長にかけて、私はいかなる人々に対しても、二度と同じことを繰り返すまい。私は今初めて真にムスリムとして生きる努力を始めている。』

イスラム教徒は、巡礼を貴重なものと見ていますし、一種のピークとして捉えています。ですから巡礼に関する疑問や質問があれば、多くのイスラム教徒がそれを大歓迎するでしょうし、同時に感謝もすることと思います。巡礼に続いて犠牲祭がありますが、いわゆる非イスラム社会にあるモスクの多くは、こうした行事の際の、非イスラム教徒の隣人たちの訪問を歓迎していますから、何か知りたいことがあったら出かけてみて、ひとりふたり、うまいこととっつかまえてはなしを聞いてみるのもおもしろいかも知れません。

犠牲祭というのは、預言者イブラーヒーム(アブラハム)が、その息子さんを神様への犠牲に捧げようとしたところ、神様がそれを留めて代わりに羊を捧げるよう命じた、という故事にちなんだ行事で、羊さんや牛さん、山羊さんや駱駝さんなどを屠ります。屠殺には流血が付きものですが、

それらの血も肉も、決してアッラーに達するわけではない。かれに届くのはあなたがたの篤信(タクワー)である。
(コーラン22章37節)

とある通り、屠ることや、流れる血それ自体が目的で行われるものではありませ。また言うまでもないことですが、神様が生け贄を必要としている、というようなことでは全くありません。そうしたファンタジーとは全く種類の違うことです。最初のコーランからの引用にもある通り、屠ったお肉も、そもそもの根源をたどればわれわれ人間に属するものではなく、われわれ人間のために神様が以前から用意しておいて下さったものです。

お肉はきれいに処理されて、親類であるとか、経済的に困難な状況にある方々に配られます。