おしゃべりなスーフィーと、彼を咎めた仲間たちの話

『精神的マスナヴィー』2巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

おしゃべりなスーフィーと、彼を咎めた仲間たちの話

何人かのスーフィーたちがある一人のスーフィーを咎め、修道場にいるシャイフの許へやって来て、シャイフにじかに訴えた。「導師よ、これなるスーフィーについて、我らの魂にかけて正義の裁定を下したまえ!」。シャイフは言った、「何ゆえに?スーフィーたちよ、おまえたちはいったい何を嘆いているのか」。すると彼らのうち一人が代表して答えた、「このスーフィーは、憂うべき三つの悪習を持っています。口を開けばとんでもないおしゃべりで、まるで鐘を撞くようなかしましさ。食べる時には、自分ひとりで二十人分を平らげてしまいます。

3510. そして眠る時には、まるで『洞窟の眠り人』のごとく眠りこけてしまうのです」。こうしてスーフィーたちは、シャイフの眼前で彼に戦いを仕掛けたのである。シャイフは件のスーフィーに顔を向けて言った、「どのような状況においても、中庸の道を取るがよかろう。伝承にもそう記されている ー 最善は、常にものごとの両極の真ん中にある、とな。われらが体内を巡る四種の体液が、常に均等に保たれていることが望ましい。そのうち一つが、ふとしたはずみで他の三つを超えてしまったとき、ヒトの体は病の様相を呈するのじゃ。おまえ様にとり、備わった資質とは卵の黄身のように肝心なもの。資質において、おまえ様の仲間たちに遅れを取るようなことがあってはならぬ。どちらが優れている、どちらが劣っている、などというようなことがあれば、それは必ずやおまえ様がたの間に分裂を引き起こす因となろう。

3515. モーセは、自らの分をわきまえて語った。だがそれでも、彼の言葉は最良の友の言葉を越えてしまった。その結果、越えてしまった言葉が、彼をしてハディルに歯向かわせるものとなった。ハディルは言った、立ち去れ、おまえは喋り過ぎだ、とな。『これで私とおまえは別れることになる(コーラン18章78節)』。この時のモーセに、おまえ様は良く似ているとは思わぬか。モーセのごとき者よ、おまえ様はおしゃべりがちと過ぎた。遠くへ立ち去るか、あるいはこのわしを倣って、何も見ず、何も言わずにいることじゃ。立ち去らぬならそれも良かろう。わが意には反するが、そこに座している分には構わぬ。おまえ様の体はそこにあっても、実際のおまえ様は既に立ち去り、もはやわが同胞にあらぬ者とみなそう」。教義に定められた礼拝を行っている最中、不意に浄めを破る振る舞いを仕出かしてしまった時はどうなるか?定められた礼拝それ自体が命じるだろう、「行け、急いで浄めをやり直せ」と。

3520. しかしそうはせずにその場に留まり、あれやこれやを行おうとも、それはもはや礼拝ではなくただの動作だ。そのような時は、ともかくも座せ、おお、過誤に導かれし者よ、礼拝は無効になったのだ。あなた方は、自らの仲間と共に在れ。あなたとの会話を喜ぶ者たち、あなたの話を聞きたがる者たちのところへ行け。 ー さて。なるほど、眠りこける者に比べれば、良き見張り番たる者の方が優れていよう。だが(精神の道を歩む)魚たちは、そもそも見張り番など必要としてはいない。体を衣類に包む者は洗濯屋が必要とするが、魂において裸の者には、神の光がその身の飾りだ。道はふたつにひとつ。裸の者から立ち去るか、自らもまた脱ぎ捨てるかだ。

3525. 全くの裸になりきれないものならば、身につけている衣を減らせ ー この場合、「中庸」とはそういうことである。


そこで咎められたデルヴィーシュは、起こった出来事について語り始めた。その中には、(修行者たちに課された)義務に背いたことへの弁明もいくつか含まれていた。シャイフの質問に、彼は良くまた正しく答えた。彼の答えはまるでハディルのそれのよう、全知の主からの天啓をもって、モーセに答えたあの時のよう。それをもってモーセの疑問も氷解したあの時、ハディルが彼(モーセ)に渡した鍵は、どのような言葉にも到達し得ない「問いの答え」となったのだった。

3530. このデルヴィーシュはハディルの持つ知の継承者だった。それで彼は自らの意志を曲げ、シャイフの質問に答えたのである。彼は言った、 ー 「仰る通り、中庸の道と呼ばれるものもまた、確かに知恵の道に相違ありません。とは言うもののその中庸も、実のところは相対的なものに過ぎない。喩えるなら、ラクダにとっては何ということのない小さな川も、ネズミにとっては大洋であるのと同じこと。パンを四つ食べたいときに、二つか三つ食べるならそれは普通によくあることです。しかし四つ全て食べてしまったら、それは食べ過ぎだ、家禽のように貪欲なやつだということになる。

3535. しかしここにパンを十食べたい者がいて、そのうち六つ食べたとしたら? ー 中庸というのは、結局はその程度のことに過ぎない。私が五十のパンを食べたいときに、あなたは六つも食べれば十分だと仰る。いいですか。最初から、私とあなたは同じではないんですよ。同時に、あなたが十ラカート(礼拝の単位)でもう十分疲れた、というときに、私は五百ラカートでも全く疲れないということもあり得るでしょう。裸足でカアバ神殿への道程を平然と歩む者もあれば、近所のモスクに出向いただけで息切れして動けなくなる者もある。信仰によって命を与えられる者もあれば、一切れでもパンを他人に与えるなんて、考えただけでも寿命が縮むと恐ろしがる者もある。

3540. 中庸だとか、平均だとか普通だとか言っても、誰かが決めた始点と終点に束縛された、限界の中でのみ使われるものさしに過ぎないのです。『中庸』なるものを定義しようとすれば、その前に始点と終点を想定する必要が生じる。始まりと終わりを持つもの、それはすなわち有限である。無限にはそれがない。無限には始点も終点もなく、従って『中庸』なるものさしをもって計ることは出来ない。『これ』という始点と終点を、かつて示せた者など一人もいない。御方は言いたもう、『たとえ海が主のみことばを記すための墨汁であっても・・・(主のみことばつきないうちに海のほうがつきてしまうことだろう:コーラン18章109節)』。

3545. 七つの大洋全てが墨となろうと、終わりなどまだまだ見えてはこない。全ての果樹と木々が筆になろうと、連ねられるのを待つ言葉の行列が短くなることもない。墨も筆もやがては尽きる ー 永遠に残るのは無数の言葉たちだ。時として私の状態は、眠っているかのようになる。過てる者は、本当に眠っているものと思うことだろう。しかし目を閉じて眠っているように見えても、わが心は目覚めていることを知れ。かつて預言者はこう語った、「わが目が眠りにつこうとも、わが心は常に創造の主の御前に目覚めている」と。

3550. あなた方の目は起きている。しかし心はすっかり眠りこけている。私の目は眠っている。しかし心の扉は開け放たれ、神への想いに目覚めている。体に備わったそれとは別に、私の心には五感が備わっている。世界とは ー 外側であろうと内側であろうと、 ー この心の五感のためにしつらえられた舞台である。未熟者の視点で私を判断するな。あなた方にとりこれは夜、だが同じその夜が、私にとっては暁だ。あなた方にとりそこは牢獄、だがその同じ処が、私にとっては庭園だ。世界の全てを明け渡し、占領されるがままになること ー これこそ、私にとっては全き解放となる。あなた方の足は泥の中、だがその同じ泥が、私にとっての薔薇である。嘆きはあなた方のもの、宴と太鼓は私のもの。

3555. 同じ地上に住まいつつ私はあなた方を追い越して、天の七層目の軌道を土星のごとく通過する。あなた方の隣りに座しているのは、私ではなく私の影。私自身は、思考も及ばぬ処にある。何故なら私はあらゆる思考を過ぎ去った。今の私は、思考の領域の外側をすばしこく旅する者。否、思考に命ずるのは私である。思考が私に命ずることは出来ぬ、建造物に命ずるのは建築家の方だ。創られしものは皆が皆、揃いも揃って思考の奴隷だ。そのせいで心に要らぬ痛みを抱え、要らぬ苦しみを抱え、要らぬ悩みを悩んでいる。

3560. 私とて、思考にわが身を委ねることもある。しかしどの思考を望み、どの思考に身を委ねるのかを選ぶのは私だ。私は天高く飛翔する鳥であり、思考は地上を這う虫に過ぎない。どうして虫が、私を支配できようか。時として私は地上に舞い降りる、再び舞い上がるときに、低きを這うものが私と共に飛べるようにと。そして低きこの世への嫌悪と不快を覚えたなら、翼を広げて飛び去るまでのこと。この翼はわが本性の奥の奥から自然と生じ育ったもの。どこかから拾ってきて、それらしく貼付けたという類いのものではない。

3565. これぞ永遠の「ジャアファルの翼」、借り物の、盗人の翼などとはわけが違う。心の五感を持たぬ者の耳には、これは比喩にしか聞こえないだろう。しかし魂の領域に住まう者の目には、これぞ確かな現実と映るだろう。カラスには、全てが絵空事といんちきに見えるだろう。蠅には壺は壺にしか見えないだろう。満ちているか空っぽかなど、蠅の目では分からないだろう。ひと匙の食物があなたの内側で真珠になるのなら、遠慮は要らない、食べたいだけ食べるがいい ー 彼にはそれが赦されているのだから」。 ー のちのある日のこと。シャイフは(あのデルヴィーシュが語った)言葉を思い起こした。それを悪しき思考とみなして拒むと、彼は吐き気を催し桶に吐いた。すると桶を満たしたのは大量の真珠であった。

3570. 咎める他に能のない、理解の足りない者たちの目にもそれと分かるよう、導師の知が真珠の姿かたちもて示して見せたのだ ー 純粋なる食物が体内で不純に転じるなら、喉に錠を取り付け鍵を隠してしまえ。だが食物が体内で光に転じるなら、食べたいだけ食べるがいい、その者にはそれが赦されている。

 


「ジャアファルの翼」:ここで言われるジャアファルとは、預言者ムハンマドの甥ジャアファル・ブン・アブー・ターリブを指す。アリーの長兄。