モーセと羊飼い

『精神的マスナヴィー』2巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

モーセと羊飼い

1720. 道の途上でモーセが羊飼いに出会った。羊飼いはこのように祈っていた。 - 「神よ、お望みのままにお選びになる御方よ。どこにおられますか?それさえ知れば、すぐにも御傍に駆けつけてお仕えいたしますのに - あなたにお靴をこしらえて、髪をくしけずってあげましょう。おべべをきれいに洗いましょう、シラミを残らず退治しましょう、ミルクを温めてあげましょう、あなた以上にお仕えしがいのある御方はいらっしゃいますまい。小さなおててに口づけし、小さなあんよをさすって温めましょう、そしてねんねの時間が来たら、小さな寝室を清めてあげましょう。私の山羊を、全てあなたに捧げましょう。愛しい御方、あなたを思うといつでも涙がこぼれます!」。

1725. 言葉こそ愚かではあるものの、羊飼いはそれらを賢く繋ぎ合わせて、延々と語りかけ続けていたのだった。モーセは言った。「一体、誰に向かって語っているのか」。彼は答えた、「私達をお創りになられた御方です。天と地を顕されたあの御方です」。「馬鹿馬鹿しい!」、モーセは言った。「これを堕落と言わずして何と言おうか?おまえなどもはやムスリムではない、おまえは確実に不信の徒となった。何とまあよくしゃべる口か!何たる冒涜、何たる愚劣!おまえの口など、綿でも詰めておくが良い!おまえの吐いた涜神の言葉は世界中に悪臭をまき散らし、宗教の絹の衣をぼろ布に変えてしまったではないか。

1730. 靴だの、靴下だのはおまえには似つかわしかろうが、太陽たる御方がそのようなものを必要とされるはずがない。下劣な言葉を吐き出すのをやめぬ限り、やがておまえの喉元から炎が吹き上がり、人々を焼き滅ぼすことになるだろう。炎でないとすれば、この煙は一体何だというのか?おまえの魂は真っ黒に焦げ、おまえの思慕は神に拒絶されているではないか。知っての通り、神こそは裁きたもう御方。ならばおまえも、いつまでも下世話な繰り言に執着していて良いはずがない。まことに、無知な友こそ真の敵、とは良く言ったものだ。いと高き神は、おまえごときの考えるような奉仕を必要とはされておらぬ。

1735. おまえは、一体誰に向かってものを言っているのか?父方の伯父か、それとも母方の伯父か?身体と、身体の欲するところなど、栄光の主と何の関わりがあろうか?ミルクを欲するのは小さく生まれて大きく成長する者のみ。靴を欲するのは足もて歩き回る者のみだ。仮におまえの言葉が、御方の御使いに向けられたものとしたところで、神は言いたもう、 - 『かれはわれなり、われはかれなり』『われが病のとき、汝はわれを見舞わなかった』『病む者があるならば、われもまた病んでいる』『われを通してものを見、われを通してものを聞く』 - かように語られた者に、おまえの愚かしい繰り言が似つかわしいはずがないだろう。

1740. 神に選ばれし者について不遜な言葉を用いれば、その心は滅ぼされ、行為の記録も黒く塗りつぶされるだろう。おまえが男に向かって - 男も女も、同種だという理由で - 『ファーティマ』と呼びかければ、よほど善良で、辛抱強い男でも無い限り、男はおまえを殺す隙を探しさえするだろう。『ファーティマ』という呼びかけは、女性にとって称賛の言葉となりこそすれ、男に向けて発すれば、それは棍棒で殴り掛かるに等しい。手だの足だの(といった言葉)は我らに属するものであり、聖なる上にも聖なる神に向ければ、それは害以外の何ものでもない。

1745. 『生まず、生まれず(コーラン112章3節)』、これぞ御方にふさわしい言葉。御方は生む者、生まれる者を創りたもう。誕生とは身体を持つ者に備わる属性、川のこちら側に生まれる者に備わる性質である。誕生と同時に、(世界は)死滅と腐敗に向かい、やがて儚く消え去ってゆく。この世界には始まりと終わりがある。御方はその創始者なのだ」。羊飼いは言った。「おお、モーセよ。あなたは私の口を封じてしまった。私の魂を、悔悟の炎で燃やし尽くしてしまった」。彼は着ていたものをかきむしって身悶え、大きな溜め息を吐いた。それから砂漠の方へと、足早に立ち去っていった。


1750. 「汝、われとわがしもべを引き裂いたな」。 - 神の御言葉がモーセに下った。「汝が(預言者として)遣わされたのは絆を結ぶためか、それとも断ち切るためか。絆を結べぬものならば、せめて断ち切らぬが良い。全ての物事のうちわれが最も憎むもの、それは別離である。われは全ての者に、それぞれの特別な方法を授けてある。われは全ての者に、それぞれにしか為し得ぬ表現と行為を与えてある。その者にとり、それは称賛に値するものなのだ、汝にとりそれが冒涜として咎められるものであったとしても。その者にとり、それが真の蜜なのだ、汝にとり毒であったとしても。

1755. われはあらゆる純粋と汚濁を超越している。われはあらゆる清濁を飲み干す、それがわれへの奉仕である限りは。聖なる奉仕がわれに益をもたらすなどと、われは微塵も定めたことはない。否、それどころか奉仕によって益を得るよう、わがしもべに手を差し伸べて親しく庇護するのは、他ならぬわれである。ヒンドにおいては、ヒンドの流儀が称賛と呼ばれるに相応しく、シンドにおいては、シンドの流儀が称賛と呼ばれるに相応しい。彼らの称賛によって聖化されるのはわれではない。否、われを称賛することにより真珠のごとく純粋さと輝きを増すのは、他ならぬ彼ら自身である。

1760. われは舌やコトバを見るのではない。われは内奥に潜む魂と、その意図とを見る。われはコトバによる敬意を見るのではない。心による敬意を見る。何故なら心こそが全ての根源であり、コトバなど、そこから発する表象に過ぎぬからである。表象を追って何になる?表象を生じせしめる根源をこそ見よ。美辞は要らぬ。麗句も無用だ。虚飾など捨て去れ!燃やせ、燃やせ。われは燃やし尽くすことをこそ欲する。燃える炎を絶やしてはならぬ、燃える炎の友となれ!汝の魂に愛の炎を放ち、その光もて明るく照らせ!思考も言葉も、愛の炎もて永遠に燃やし尽くしてしまえ!おお、知れ、モーセよ。議論を知悉する者の一群がある。そしてそれとは別に、心も魂も、愛の炎で燃やし続ける者の一群があるのだ」。

1765. 愛する者は、瞬時たりともこの愛の炎を絶やすことがない。火事で燃え尽きた村に、税を課したところで何の意味があるだろう?咎めるな、愛の炎に身を焦がす者が何を口走ろうとも。浄めるな、その者が自身の血に塗れようとも - 殉教者には、水よりも血の方がはるかに似つかわしいのだから。そして忘れるな、その者の犯した罪の方が、有象無象の「正しき行為」などよりも、はるかに優れていることを。カアバの内側に在る者にとり、キブラの法は意味を成さぬ。水夫が雪靴を持たずして、何の差し障りがあるだろう?酩酊した者に道案内を求めて何としよう?ぼろを纏う者に、「襟を正せ」と命じたところで何となろう?

1770. 愛の宗教と、その他全ての宗教は峻別される。真に愛する者はもはや宗教すら持たぬ。真に愛する者が持つ宗教とはただ神のみ、真に愛する者が持つ信仰とはただ神のみ。「誰それの所有」と刻まれること無きルビーは、決して害を及ぼしはしない。愛の周囲を、悲嘆の海原が取り囲んでいる - だが断じて、愛そのものが悲嘆なのでは決して無いのだ。


その後で、神は、モーセの心の一番奥深くに神秘の炎を灯したもうた。それは決して言い表わし尽くせぬ類いのものだった。あらゆるコトバが心にじかに降り注がれ、視覚と聴覚とがひとつに混ぜ合わされた。彼は幾度となく気を失い、また幾度となく我に返った!幾度となく高く飛び永遠を味わい、永遠の、さらにその先の輝きをも味わった!

1775. だがその味については語るまい、それは話を聞いて理解できる類いのことではない。(また)もしも私が語ってしまえば、聞く者の心から自由を奪うことになる。もしも私が書いてしまえば、多くの筆が砕け散ることになる。神の御言葉を授かったモーセは、羊飼いを探して砂漠へと向かった。砂漠の周縁に砂を蹴り上げつつ、惑いそのものの羊飼いの足跡を辿った。乱れたその足跡は、その他の足跡とは全く違っていた。

1780. ある一歩は、ルークの駒のように真直ぐに進み、またある一歩は、ビショップの駒のように斜めに進む。ある時は波のように高く砕け散り、またある時は魚のように腹這いになる。またここには、まるで土占師のように、自らの心境を砂の上に線を引いて記している - そしてついにモーセは、羊飼いを視界に捉えた。ようやく彼に追いつき、吉報の伝達者としてモーセは言った、「(神より)許しが下された!神は告げたもう、(称賛に)何の規則も、戒律も求めるな、と。痛む心が求めるまま、苦しむ心が欲するままに訴えよ、と。

1785.おまえの冒涜 - 私が冒涜と決めつけたところのもの - こそが真の宗教であった。そしておまえの宗教は、魂の光輝そのものであった - おまえは救われることだろう。そしておまえを通じて、(全ての)世界は救われることだろう。おお、おまえこそは護られし者。『神はみ心のままに行いたもう(コーラン14章27節)』、おまえはまさしく、神がみ心のままに在らしめたもう者。さあ、怖れることはない。思うままに舌を動かし、案ずることなく語るがいい」。「ああ、モーセよ」、羊飼いは言った。「私は、すでにその道を通り過ぎてしまった。今の私は、私の心が流した血の海に浸っているのだ。私は世界の果てまで旅をした、世界から一番離れたロトの樹をも通り過ぎてしまった(コーラン53章13-18節)。あなたは鞭を振るったが、私の馬は飛び退いて、空のはるかあちら側へと走り去って行った。

1790. 大いなる自然よ、神聖なる造化よ、どうかヒトとして生まれた私を受け入れておくれ!私を、ヒトを、あなた方自然の一部として受け入れておくれ、あなた方の手に、あなた方の腕に祝福あらんことを!もはや私は以前のように、語ることに意味を見出せない。今ここでこうして語る私自身、真実『わたし』などという者ですらないのだもの」。 - 鏡を覗けば、そこに映るのはあなた自身の姿だ。あなたが見ているのはあなた自身の姿であり、鏡そのものの姿ではない。笛吹きが笛に息を吹き込むとき、その息は笛のものだと言えるだろうか?否、その息は笛吹きのものである。注意深く聞け!羊飼い(の祈りの言葉)を見苦しいものと考えるなら、知れ、あなたが(神を)称賛し、感謝するときのあなたの言葉も、同じか、あるいはそれ以上に見苦しいものであろうことを。

1795. コトバだけを比べれば、良い称賛のごとく聞こえるかも知れぬ。しかし神との関わりという点からすれば、微弱過ぎるほどに微弱である。 - あなた方は一体この先、何度言えば気が済むのだろう、いざ蓋を開けてみて、「こんなはずではなかったのに!」と。あなた方の称賛を(神が)受け入れたもうか否かは、あなた方のコトバではなく、ただ一重に神の御慈悲にかかっている。そのお優しさとは、婦人が、月経に悩まされつつ物陰で捧げるズィクル(唱念)を、受け入れたもう神のお優しさと寸分も違わぬ類いの御慈悲なのだ。時として、婦人の祈りは血に染まる。しかしあなた方の祈りはどうか。互いに馴れ合ったり値踏みし合ったり、すっかり汚れきっているではないか。血は汚れだ、だがほんの少しの水さえあれば浄められる程度の汚れだ。内在する不純な性質をこそ、本当の汚れと呼ぶのである。

1800. (心に)内在する汚れは、人の手で洗い流せるものではない。唯一、創造の御方による水のみ(がこれを浄められる)。礼拝のために平伏する時には、あなたの顔を注意深く向けよ。礼拝の、言葉の意味そのものに思慮深く集中せよ。「神に称賛あれ!」と口にするとき、内奥の意味を捉えよ、「神の御前に、私の平伏には何の価値もなく、私の存在には何の価値もない。悪と引き換えに、善を与えたまえ!」と。 - 大地とは、まことに神の温情のしるしそのもの。何しろここでは、排泄物ですら花を咲かせる肥やしとなる。(大地は)私達から生じる汚染を覆い隠し、芽吹きもて返してくれる。

1805. だがものを惜しんで与えずに過ごす者からは、花も咲かず実も成らない。奪い去り、横取りすることだけに終始する者が為したことは、純粋を汚濁に転じることのみだ。やがてその日に至り、信じぬ者は今来た道を振り返って言う、「ああ、私は道を逆さまに進んでしまった。『叶うなら、塵土になってしまいたい!(コーラン78章40節)』。土塊から離れるべきではなかったのだ。土塊から遠ざからずにいれば、今ごろは小麦を収穫出来ていただろうに。旅をしている間は良かった、道は刺激と経験であふれていた。だのに私は、この旅から何ひとつ持ち帰らずに終わってしまった」。

1810. 否、その者は実際には土塊に依存していたし、その性質は土塊によって養われていた。知らずにいたが故にその者の旅は、何ひとつ益をもたらすこと無く終わってしまった。来た道に執着し、後ろばかりを振り返るのは、貪欲と意地の汚さがなせること。道に顔を向けるな。道を与えたもう御方に顔を向けよ。香り立つ緑の草の全てが、その顔を上へ、上へと向けて育つのを知らないか?あれらが下へその顔を向けるとき、それは枯れて乾くとき。失望し、落伍するときだ。あなたの魂が上を目指すとき、それはあなたが多くを得るとき。そして、見よ、更にその上の上に、あなたの還り処がある - あなたは上を向いて進め。あなたが道を逆さまに歩むとき、それはあなたが顔を下へと向けて沈むとき - だが神は、「沈むものを愛さない(コーラン6章76節)」。